―診療所・再会
その夜、もう一つの目的を果たすために、ガイウスは足を運んでいた。
ノワール区の奥、古いレンガ造りの診療所。
かつて“ルナ”によって魔族に変えられた名もなき女性――。
自分とサタヌスを“撒くため”犠牲にされた彼女がどうなったのかを、確かめに来たのだ。
「……あの人、今も生きてるだろうか」
ガイウスの問いに、受付の少年が首を傾げる。
「たぶん、あの先生が知ってると思う。最近も治療してたって」
薄暗い廊下を抜けると、奥の診察室から見覚えのある低い声が響いた。
「おや……お久しぶりです」
振り向いたのは、黒衣の上に白衣を羽織った青年――デネブ。
銀髪に赤い瞳、腕には魔王軍の医師の証である白い腕章。
闇医者、あるいは“異端の治療師”と呼ばれた男。
デネブは穏やかに微笑んだ。
「元気そうで何より。貴方のような無鉄砲な勇者が生き残るとは、実に興味深い」
彼の背後には、消毒薬と薬草の匂いが漂っていた。
そして、窓辺には人の姿をした女性が一人。
――あの時、魔族に変えられた“彼女”だった。
頬にはまだ小さな鱗の痕が残る。
だが、目は確かに“人の色”を取り戻していた。
「戻った……のか」
呟いた声が震え、デネブは淡く笑う。
「ええ、勇者様の“聖痕”の血が役に立ちましたよ」
「完全ではありませんが、もう人として笑える」
彼の言葉に、ガイウスはゆっくりと頷く。
胸の奥で、何かが解けていく。
「……そうか。よかった」
デネブは、わずかに肩をすくめた。
「勇者とは不思議なものですね。
殺すより、救う方を選ぶ。医者の立場からすれば、羨ましい話ですよ」
「お前も、そうしてるじゃねぇか」
ガイウスが苦笑する。
「人を治してるんだろ。魔族だろうが関係ないさ」
その言葉に、デネブはわずかに目を細めた。
赤い瞳の奥に、ほんの少しの温もりが灯る。
「……相変わらず、理想家ですね」
二人の間に、静かな沈黙が流れる。
外ではノワールの夜風が、鉄の管を鳴らしていた。
白いカーテン越しに、薄い陽の光が差し込んでいた。
消毒薬と乾いた花の匂い。
ベッドの傍らに立ったガイウスは、しばらく何も言わずに立ち尽くしていた。
カーテンの向こうに、彼女――あの日、ルナの“恋人”だった女性が座っている。
人の姿を取り戻してから幾月が過ぎ、肌にはまだ淡い灰色の痕が残っていた。
それでも、目はもう確かに“人”の色をしていた。
ガイウスはゆっくりと口を開く。
「……お話、いいですか」
女性は少し驚いたように顔を上げ、そして微笑む。
「先生から聞きました。
私がヒトを喰わずに済んだのは……貴方と、もう一人が止めてくれたおかげだって」
彼女はベッドの端で手を重ねながら、視線を落とした。
「その時のこと、あまり覚えていないんです。ただ……声だけは、はっきりと」
静かな空気の中で、彼女はそっと呟く。
『やめろ!!誰も殺させたくないんだ!!』
『邪魔すんじゃねぇ!こいつは!!……さっきまで人だったんだぞ!』
それは確かに、あの日の彼らの声。
彼女の瞳が、少しだけ潤む。
「……怖かった。でも、あの声が聞こえた時、ほんの少しだけ……安心したんです」
ガイウスは言葉を失ったまま、拳を握る。
「……俺たちは、何もできなかった。
あの時、助けることも、止めることも。結局、全部後手に回った」
女性は首を振る。
「違うんです。
あの人――ルナは、優しかったんですよ。あの瞬間までは」
「……優しかった?」
「ええ」
彼女は遠くを見るように、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも、もうきっと……次に会った時、笑いかけてはくれないでしょうね」
彼女の声は穏やかだったが、底には確かな痛みがあった。
「だって、気づいてたんですよ。あの人の笑顔は、全部“作り物”だって」
風がカーテンを揺らし、柔らかな影が二人の間に揺れる。
外では蒸気の音が遠くで鳴り続けていた。
「でも、嫌いにはなれないんです。確かに、優しかったから」
ルナが彼女を連れていた理由は、ただのカモフラージュ。
いつでも切り離せる擬態の小道具。
そして彼が再臨するなら――また、同じように“気まぐれ”で誰かを壊すのだろう。
ガイウスは、胸の奥が鈍く疼くのを感じた。
「……あいつを、止めなきゃな」
女性はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「もし、またあの人に会ったら。今度は、貴方のその手で“優しく終わらせて”あげてください」
静寂が満ち、ガイウスは小さく目を閉じた。
「……ああ、約束する」
その約束は、誰にも聞こえないほど静かに。
けれど確かに、ノワール区の夜風に溶けていった。
デネブは机の上のカルテを閉じ、淡く笑った。
ランプの明かりが揺れ、彼の銀髪に橙の光を落とす。
「……勇者様、最近、魔王軍の話を耳にされますか?」
ガイウスが目を上げる。
「いや。もうほとんど聞かないな。
各地で残党狩りは続いてるが、組織としては……もう壊滅だ」
デネブは軽く首を傾げ、わずかに笑う。
「魔王軍が“消えゆく組織”だと聞きましたがね」
「元軍医の経験から申し上げますと──このまま静かに消えゆく気がしないのですよ」
ガイウスの眉がわずかに動く。
デネブはその反応を見て、意味深に続けた。
「とくに、“カリスト様”と“プルト様”がご存命なのでしょう?
あの二人は……えげつないと有名でしたから」
ガイウスは一瞬だけ沈黙し、それから低く答える。
「……ああ、感じてる。絶対に何か起きる」
窓の外では、ノワール区の蒸気がゆらゆらと夜風に揺れていた。
遠くで観覧車の光が、ゆっくりと回る。
街は眠りについているようで、どこかざわついている。
「今の平穏は──嵐の前の静けさだ」
ガイウスの声には、確かな緊張が宿っていた。
デネブもまた、その言葉に黙って頷く。
「全員が、うっすら感じ取っているんですよ」
「そう遠くない未来に、再び“災厄”が起こると」
ガイウスは立ち上がり、窓の外の上層を見据えた。
そこには、煌めくルミエール区の光――
そしてそのさらに奥、“氷の将”と“闇の刃”が潜む気配がある。
「……二人を、早く見つけねぇと」
拳を握る音が、静かな診療所に響いた。
外の風が、窓の隙間を抜ける。
その夜の空気はどこか重く、遠くで雷のような音がした。
――嵐は、確かに近づいていた。
夜のランプが灯り始め、石畳を金と紅の光が染めていた。
アルルカン上層、ルミエール区。
かつてヴィヌスが舞台に立ち、拍手と歓声に包まれていた場所も、今は静まり返っている。
それでもこの街は、沈黙の中でちゃんと喋っていた。──看板が。
ガス灯に照らされた店先の看板たちは、皮肉を吐き出し続けている。
「……読めねぇ」
ルッツが眉をひそめ、フランス語の手書きプレートを睨みつけた。
「キズ野郎、通訳して」
ガイウスは肩をすくめ、古びた看板を見上げた。
柔らかな筆致で、金の縁取り。そこにはこう書かれていた。
“Un dîner, c’est une guerre sans balles.”
(会食は、弾丸が飛ばない戦争。)
ガイウスは低く呟く。
「……“会食は、弾丸が飛ばない戦争”」
「貴族の食事会は、戦争と変わらねぇって意味だ」
ルッツが口を尖らせる。
「やっぱり毒しかねぇなこの街……」
隣で、バルトロメオがワイン片手に笑う。
「皮肉屋さんが多い街だねぇ。
でも……そういう毒がなきゃ、アルルカンはアルルカンじゃないかもね」
その声に、風が混ざる。
スカーフを揺らしながら、夜風が通りを撫でていく。
ガイウスは無言で頷いた。
この街の毒は誰かを刺すための刃じゃない、真実を飾るための香料みたいなものだ。
毒があるから綺麗に見える、綺麗だからこそ苦い。
風に揺れて、別の看板がくるりと回る。
“Tout est vrai, tant qu’on y croit.”
(信じる限り、すべては真実。)
ルッツが呆れ顔でつぶやく。
「……嘘つきの開き直り?」
ガイウスは小さく笑った。
「いや……多分、舞台の台詞だ」
彼の視線の先には、閉館した劇場跡。
ヴィヌスが最後に立った舞台。
そこに立つもうひとつの看板が、月光を受けて淡く輝いていた。
“Si vous devenez trop orgueilleux, le vengeur viendra.”
(傲慢になりすぎると、復讐者が来るそうですよ?)
金の縁取りの古い木板。
ネオンの光に反射して、その言葉はまるで遺言のように見えた。
ルッツが息を呑む。
「……“復讐者”って……」
ガイウスはゆっくりと視線を上げる。
「“ユピテル討伐”を皮肉ってるんだろうな」
「この街は、笑いながら毒を吐く」
「けど……嫌いじゃねぇよ」
ヴィヌスがこの街を離れられなかった理由。
それはきっと、この“毒”の中に、真実と舞台の境界を見出していたからだ。
夜風がもう一度吹き抜ける。
金の看板が、カランと小さな音を立てた。
大通りを抜ける途中、ルッツがふと足を止める。
レストランの裏口に、明らかにスラム育ちとわかる。
煤けた服の女の子が紙袋を抱え、黙って立っている。
待つことに慣れきった姿勢。
少しすると、裏口の扉が軋んで開く。
出てきた料理人は割れた卵、端っこのソーセージ、少し萎れた野菜を袋に放り込む。
会話はない、目も合わない。
袋を受け取った少女は、小さく会釈して路地の奥へ消える。
ルッツがぽつりと呟く。
「……なるほど。フードロス削減、ってやつ?」
ハオは一拍置いて、肩をすくめる。
「高尚なモノは長続きしないワ」
もう一度、裏口の方を見る。
「あれは知恵ヨ。クマさんや猪さんより、人間はもっと賢いカラネ」
指の先でさっきの少女が、袋の中からソーセージを一本だけ取り出す。
噛みちぎらない、急がない。
両手で持って、時間をかけて味わうように口に運ぶ。
「でも飢えた人間は、時々、獣より凶暴ヨ」
渡す側も、受け取る側も、
そこに“善人”も“被害者”もいない。
やらないと街が荒れるから、やっている。
もらえるなら大人しくするから、受け取る。
それだけ。
アルルカンは今日も、何事もなかったみたいに回っている。