オーゼ編-白い闇の彼方より - 1/2

その夜、外は急に静かになった。
雪は音もなく降り積もり。
風のうなりがひときわ鋭くなったのは、夕餉を終えてすぐのことだった。
「……こりゃ、吹雪だな」
オルガおばあちゃんが暖炉を見つめながら呟く。
窓の外は、もう何も見えない。
真っ白。雪が、空も地も時間も飲み込んでいる。

「うーわ……なにこれ。真っ白すぎて目ぇ痛い」
サタヌスがカーテンを半分開けて、外を覗いた。
「これ、朝には出らんねぇな……」とガイウスがぼそり。
いつもより明らかに真剣な顔だった。
「お前ら、雪国慣れてねぇならさっさと寝な。」
ヴィヌスはいつになく母親口調で言い放った。
「えー、今から? まだ酒……」
「寝ろ」
「……はい」
やがて部屋の灯りが落ちていく。
寝息と薪の爆ぜる音だけが、宿に残った。
ヴィヌスはひとり、窓辺に座る。
外は、変わらず真っ白だった。
その白さが逆に、異常なくらいに静かだった。

そのとき——視界の奥。
ほんの一瞬だけ、白が“割れた”。
ゆらりと歩いてくる、異形。
——風に煽られながらも、まったく凍えていない。
氷の中を歩くように、冷たく、静かに。
軍帽をかぶり直すしぐさだけが、妙に人間じみていた。
だが、どこかが違う。

呼吸の白もなく、雪を踏む音もしない。
まるで、世界の裏側から、何かが歩いてくるような。
ヴィヌスの背筋に、冷たいものが走る。
「……来たわね」
ヴィヌスは、窓の前から動かなかった。
風はうなり、ガラスが微かに震える。
外は依然として、すべてが白い。境界が消えている。
地と空の見分けもつかず、世界はひとつの巨大な白布に覆われていた。
けれど——その中心に、“何か”がいた。

最初に気づいたのは視界のゆがみだった。
雪の中で、何かが重みを持って、白を割っていた。
輪郭がない。
だが、それが“人型”であることはわかる。
——風に逆らわず、むしろ、風の中心に立っていた。

吹雪の向こう。
はっきりとは見えない。
けれど、その“それ”は、確かに立っていた。
ゆっくりと、まっすぐに、歩いてくる。
軍服のような厚い外套。
その襟元を押さえ、凍てついた軍帽をぐっとかぶり直す。
——その仕草だけが、あまりに人間らしくて、逆にぞっとした。

その帽子の下から——目が、こちらを見た。
視界は白で塗りつぶされているのに。
吹雪で音も遮られているのに。
その目だけが、確かにヴィヌスを、捉えていた。
「そこにいるのは知っているよ」とでも言うように。
息が、喉の奥で止まる。

そして——白の中で、カリストは一歩、また一歩、静かに進んできた。
この吹雪のなか、凍えもせず。
何かに導かれるように、音もなく。
ヴィヌスの胸に、幼い頃の記憶と、
今目の前にいる“違う存在”の影が、重なりそうで、重ならなかった。
ノル・ユールの街を遠巻きに見下ろす小高い雪原に、黒い影が立っていた。

外套の裾を風があおる。
帽子のつばが吹雪を防ぎ、下からのぞくのは——
静かすぎる、氷のような瞳。
「…………いた」
その目は、街の奥。
光も届かぬ雪の中にぽつりと立つ小さな宿の窓を、確かに捉えていた。
その窓の向こうに、あの女がいる。

「ヴィヌス……」
カリストは静かに名を口にした。
彼の目線の先。
ノル・ユールの宿の窓。
はっきりと姿など見えはしない。
それでも、“あの女”の気配を、カリストは確かに捉えていた。

「……命令がなければ、八つ裂きにしてやるのに」
その呟きは、氷のように冷たく、
だが底には、焼けつくような熱を孕んでいた。
「私よりも、あの御方に気に入られている癖に……」
ぎり、と指先が握られる。
氷の粒が砕ける音がした。
「なぜ靡かない? なぜ、応えない?
……あの御方が与えた“例外”の意味も知らずに」
軍帽の下、金の双眸が街を射抜いている。
まっすぐに。
まるでそこにいる女が、こちらを見返してくれることを期待しているかのように。

「今の私は……力が強すぎる、あの街に拒まれる」
「ならば引きずり出してくれる、お前たちを安全地帯から」
風が吹いた。
カリストの周囲の雪が、まるで凍りついたように動きを止める。
彼はただ、街を見つめ続けた。
——“あの御方”に愛される存在など、他に要らない。

再び帽子を深く被り、カリストはその場で踵を返した。
白の中に溶けていくように、彼の姿は消えていった。
けれど——その視線の熱は、なおもヴィヌスの胸に残っていた。

—–

白の帳の向こうに、あの人影はまだ立っている。
ヴィヌスは凍える指先で、ガラスにそっと触れた。
——ジャック?
……いや、違う。

記憶の底に沈んでいた昔話が、ふいに浮かび上がる。
——ジェネラル・フロスト。
幼い頃、母親が焚き火の前で語った、雪国の怪談。
「春を越えてしまったジャックフロストはね、もう友だちじゃいられないの」
「氷が溶けないままになって、心まで凍りついちゃうのよ」
「そうなったら、“溶けない氷の悪魔”——ジェネラル・フロストになるの」
思い出す。
ひどく寒い夜、布団に包まりながら聞いたその言葉。

——「だから、もし青年の姿をしたジャックがいたら、それはもう“悪魔”よ」
——「どんなに優しかった子でも、もう二度と、あの頃の顔には戻れないの」
目の前の存在は、まさにそれだった。
人のようで、人じゃない。
雪に凍えず、風に動じず、ただ軍帽の下の目だけが、確かにこちらを見ている。
「……ジャックじゃ、ないのね」
かすかに呟いたその声は、窓に吸い込まれて消えた。
でも、万年氷の欠片がまた、小さくきしんだ。
まるで、それに呼応するかのように。

—–

朝、窓の外はホワイトアウト寸前の銀世界。
ヴィヌスがストーブ前で毛布にくるまっていると、宿の主人が困り顔で声をかけてきた。
「ヴィヌス、ぬるま湯をもってきて。水道管、凍っちゃったのよ」
ヴィヌスは「はいはい」と受け流しつつ、ちょっと外を見やる。
その向こうではサタヌスが、もこもこ寝間着姿で廊下を全力疾走。

「昨日の吹雪やばかったな!オーゼって毎晩あんな感じなの?」
ヴィヌスは無言でタオルをお湯に浸しつつ、ため息まじりに答える。
「……いや、昨日のはオーゼの基準でもやばかったわ」
「普通の大雪じゃ済まないレベルだったから」
ガイウスは毛布から顔だけ出して、宿の玄関をチラ見。

「これ、どう見ても出られねぇな。……何日ここに閉じ込められるんだ?」
ヴィヌスは、にやりと笑った。
「数日は出られないわよ、シェパード」
サタヌスは頭を抱える。
「マジかよ……これ絶対外出たら埋まるやつだろ……」
全員がしばらく天井を見上げる。
気づけば、勇者ズの“クローズドサークル”サバイバルが、静かに始まっていた。

朝、薪ストーブの音が部屋の隅々までぬくもりを届けていた。
窓の外は、相変わらず白一色。
勇者ズは宿屋の一角で、毛布にくるまったり。
湯気の立つカップを持ったり、いつもよりちょっとのんびりしている。
サタヌスがカーテン越しに雪景色を眺めてぼやいた。
「で、結局……今日って誰か来る予定だったんだっけ?」
ヴィヌスは湯気で曇るグラス越しに、ぼんやり空を見やった。
「本当なら、帝国側から調査官が来るはずだったの。でも……この雪じゃ、無理でしょ」
ガイウスが「そんなもんか」と生返事で返し、ソファに深く沈み込む。

「意外とオーゼって、よそから人間来るんだな」
「まあ、たいていは神官か調査官だけよ。地元の人間じゃ手に負えない案件があるから……」
サタヌスは笑いながら肩をすくめる。
「よっぽど物好きか、命知らずじゃねえと無理だろ、こんな雪国」
ヴィヌスは苦笑いしつつ、カップの中を指先で回した。

「予定じゃ今日来るはずだったんだけどね……さすがに今日は誰も来ないわよ」
「外、見てみなさいよ。人間どころか犬でも歩けないわ」
三人、しばらく外の静けさに耳を澄ませる。
ただ、風と雪が窓を叩く音だけが続いていた。
「……ま、これじゃ誰も入れねぇな」
ガイウスの言葉に、全員が曖昧な笑いをこぼす。
ほんの一瞬、“外から来る者”の不安も緊張も、雪の厚い壁に埋もれて消えていくようだった。
まさかその裏で、誰よりも雪道を歩きなれた。
「異常な存在」が村へ近づいているとは、誰も知る由もなかった。

朝の静寂。
ストーブの火が静かに燃える宿の一室に、不意にコツ、コツ、と玄関を叩く音が響いた。
「おはようございます」
「帝国の命令で調査に来たものです、開けてください」
その声は妙に礼儀正しく、透き通っていて、扉越しなのに不思議なほどはっきりと響く。
胸の奥にすっと冷たいものが入ってきて。
思わず手がドアノブに伸びそうになる魔力があった。

――けれど。
三人は、本能で気づいてしまう。
(開けちゃいけない――これは、絶対に)
昔話で聞いた。
怪物や悪魔は、家主から招かれなければ中に入れないと。
そして、あの雪の中を、一人で歩いてきた時点で“人間じゃない”と本能が警告してくる。
沈黙が続く。
そのとき、ガイウスが咄嗟に口を開いた。

「村長の家は向こうですよ」
わざと声色を変えて、“ただの他人”を装う。
一拍の間の後――青年の声が、静かに遠ざかっていく。
「あぁ……人違いでしたか。ごめんなさいね」
足音も、空気も、扉の向こうから消えた。
安堵と緊張が一気に抜ける。
サタヌスが小声で唸った。

「なぁガイ……今の声、本当に人間の声か?」
ヴィヌスは額に冷や汗を浮かべながら答える。
「ていうか、さっきの声さ……普段より二、三トーン高かったんだけど!?」
ガイウスは苦笑いを浮かべ、喉をなでる。
「そりゃ田舎で散々真似してたからな。“この先が村長さんちだよー”って」
「声色だけじゃなくて方言も完璧すぎるのが怖いのよ」
「褒めてる? けなしてる?」
三人、ドアの外をしばらく見つめたまま、動けなかった。

外は相変わらず、白い嵐の世界。
だけど、その向こう側には――
絶対に“家に招いてはいけない何か”が、まだ、うろついている気がしてならなかった。