朝霧が甲板に薄く立ちこめる頃。
すでに海賊たちは誰ひとり寝坊せず。
ロープの張り替えや、デッキ磨きに精を出している。
ロコは毛に朝露をまといながら、手慣れた様子でマストのロープを巻き直す。
すっかり船乗りの一員だ。
ふと手を止め、横目でキャプテンを見上げる。
「キャプテン、その鳥なんて名前なの?」
マリーナは手を止めず、白い歯を見せて笑う。
「スチーブンだ。宝探しの相棒さ!」
レイスがタバコをくわえたまま首をすくめて、
「…宝がある島って、なんでこう危険なのかね」とぼやく。
その会話を聞いて、スチーブン(オウム)は「おはよー」と機械的な声で鳴く。
でもその発音の妙な“確かさ”――
まるで“本当に理解して喋ってる”ような、奇妙な知性を感じさせた。
「スチーブン」は、“宝島”の作者ロバート・ルイス・スティーブンソンから取った名。
危険な島に“夢と皮肉”を込めて呼ぶ、海賊たちのジョーク。
けれどこのオウムは、冗談抜きで“生き字引”だった。
「安心しな、スチーブンはうちの船員で一番の古参だ」
マリーナが誇らしげに言う。
「地平線の彼方で、燃える横浜を見たことだってあるそうだよ」
元々オウムやインコは“人間に模倣される側”の生き物だった。
けれど大災害で人類が衰退し、“人間を模倣する”こと自体が生存の術になった。
魔族との奇妙な共生――「ヒトを真似る」同士の友情と進化。
今や“声真似”じゃない。人間と“会話”し、“世界の滅び”さえ語れる知性を持っている。
朝霧の中で「おはよー」と挨拶するそのオウムが。
本当に、世界の終わりを見た“語り部”かもしれない――
そんな浪漫が荒野には今も語り継がれている。
そして目の前の“その個体”こそ。
荒くれたちが「伝説」と呼ぶにふさわしい、“生き証人”なのだ。
夜明け前の空は、まだ夜の深い名残を引きずっていた。
水平線のずっと向こう、微かな明かりを背負って。
「それ」がぼんやりと輪郭を現す。
最初はただの島影だと思った。
けれど、よく見ると明らかに“おかしい”。
山や高みがなく、滑らかに楕円形を描くその姿は、不自然なまでに均一だった。
それでいて、どう見ても「島」――そう呼ぶしかない巨大な“何か”。
甲板の先端でマリーナが指差して叫ぶ。
「見ろ! 私たちが目指してるのは、あいつだ!」
ユピテルが半眼で眺め「……あいつ?」と首をかしげる。
ネプトゥヌスは微笑みつつも真剣な眼差しで。
「どう見ても、無人島…ですわよ?」と静かに囁く。
そこに海賊の一人が、かすれた声で否定する。
「違う! あれは島じゃねぇ。昨日より明らかに1キロは動いてるんだ」
レイスは双眼鏡を目元に当て、海の不気味な静けさの中、ぽつりと呟く。
「つまり、あれ……クラゲ!?」
ユピテルが口笛を吹き「マジかよ……」と肩をすくめた。
朝焼けに染まる海面、その正体がまさか「生きている何か」だとは。
この時、誰もまだ、想像しきれていなかった。
ネプトゥヌスは一度だけ甲板を見回し、躊躇もなくセーラー服の上着を脱いだ。
次の瞬間、深海の女王がそこにいた。
白と金の装飾を帯びたいつもの深海ドレス。
海の色を吸い込んだような布が風に揺れ、
彼女は優雅に、しかし一切の無駄なく――海へ飛び込む。
水柱は小さく、音もほとんど立たなかった。
まるで海が、彼女を“迎え入れた”かのように。
甲板には沈黙が落ちる。
しばらくして波間がふっと盛り上がり、ネプトゥヌスが水面から姿を現した。
濡れた髪をかき上げ、船縁に手をかけて、静かに告げる。
「間違いありませんわ。あれは、クラゲです」
全員が息を詰める。
「潜ってみましたが……海面で隠れていた下部が」
「カツオノエボシに、そっくりでしたわ」
その一言で、空気が一段冷える。
レイスが低く唸る。
「……お嬢が言うってことは、嘘じゃないんだな……」
その肩で、オウムが羽を震わせる。
いつになく、やけに滑舌のいい機械声。
「奇怪島イタ海域!客船沈ンダ!」
甲板がざわつく。
「溺レタ人間、タベテ!アノ大キサニ、ナッタ!」
レイスは即座に噛みつくように言った。
「なるほど……」
「つまり、あの島――贅肉の塊か。危険の元凶が、よくしゃべる」
双眼鏡が一斉に上がる。
夜明け前の薄青の海に浮かぶ“島”――いや、生き物。
マリーナはそれを睨みつけ、そして、ニッと獰猛に笑った。
「ハハッ。さぞいいもん食ったんだろうな」
「客船に乗る人間は、得てして金持ちだ」
一拍置いて、低く言い切る。
「……お宝の眠る島が、無事なわけねぇってことさ!」
ロコが思わず耳を伏せる。
「えー……じゃあ宝探しもサバイバルも、命懸けだにゃ……」
ネプトゥヌスは水滴を払いつつ、楽しそうに微笑んだ。
「わたくし、こういうスリルは大好きですのよ?」
最後に、肩の上からスチーブンが締める。
「命アレバ、宝モ、手ニ入ル!」
――夜の名残を抱えた空の下。
一行は、島ではない“島”を真正面から見据えていた。
海風がギシギシとマストを鳴らす。
夜明け前、まだ夜の名残が甲板に貼りついた時間帯。
宴の油と酒の匂いが残る中、ランタンの明かりだけが不安定に揺れていた。
その輪の中央に、マリーナが一歩、踏み出す。
ざわついていた空気が、嘘みたいに静まった。
彼女は全員を順に睨めつける。
逃げ場を与えない視線だった。
「あの宝島に乗り込んで、財宝をぶんどる! そして……」
言葉を切り、拳をぐっと握りしめる。
唇が吊り上がるが、そこに冗談の色は一切ない。
絶対に引かない者の、あまりにも分かりやすい“本気”。
「完全に、息の根を止める!」
反射的に声が飛ぶ。
「え!? 沈めるのか!?」
レイスの声は驚き半分、理解半分だった。
ロコは毛を逆立て、耳をぴくぴくと震わせる。
「よく言うもんにゃ……海賊は船沈めるって」
マリーナは答えない。
代わりに、顔に深い傷を持つ古参の海賊たちと、順に目を合わせた。
「……あいつに、子分が何人も食われちまってな」
低い声。怒鳴りも感情もない分、重たい。
「運よく上陸できたやつらは、“選ばれた楽園”だなんて言ってるが――」
「その幻想ごと、海に沈める」
しん、と音が消えた。
波の音と、胸の奥で打つ鼓動だけが重なる。
全員が知っている。
これは“戻れない夜”の空気だ。
甲板の隅。
肩に止まったオウムが、やけに正確で、やけに冷たい機械声でつぶやく。
「命アレバ、宝モ、手ニ入ル。楽園ノ幻想ヲ、海ニ還セ!」
宝島は、島ではない。
そしてこの夜は、もう引き返せない。
夜明け前の甲板に、緊張感がさらに高まる。
レイスは眉をひそめ、双眼鏡を握りしめたまま。
「でも、クラゲだろ?しかもめっちゃデカい」
「触手でぶっ叩かれたらたぶん船沈むぞ」と現実的な警戒を口にする。
マリーナは短く息を吐き、顔をしかめる。
「あぁ、それが問題だ」
「あいつを刺激せず、海を漂うゴミのフリをするしかない」と静かに言い放つ。
ネプトゥヌスはその言葉にすぐ反応する。
「流木のように、まったく無害な存在に見せる……」
しなやかに顎に手を当てて考える。
そして、不意に顔を上げた――
「あら!船長さん、わたくし役立てるかもしれませんわ」
その瞳は、冒険と危機のはざまでキラリと光る。
海の生き物としての知識と、人魚としての特殊な“気配消し”が、今こそ試される時。
マリーナもニッと唇を吊り上げて応じる。
「頼りにしてるぜ、蒼海女王!」
甲板にぴりっとした笑いとざわめきが走る。
マリーナが腕を振り上げて全員に檄を飛ばす!
「では野郎ども!今から私たちは“幽霊船”になり切る!」
技師が思わず声を上げる。
「幽霊船って、どうやって……!?」
マリーナは満面の笑みで――。
「まず舵はあえて握らない!帆もボロボロのやつに張り替える!」
「そして!私たちは甲板に一切出ず、無人船がただ漂流しているように見せるんだ!」
ネプトゥヌスは目を輝かせて「素敵な作戦ですわ!いかにも海賊って感じ!」と楽しそう。
ロコは猫耳をぴくぴくさせながら「甲板で昼寝しちゃダメなの?」と小声で尋ねる。
マリーナはその一人ひとりを睨みつけ。
「ダメだ、野郎ども!今夜からは“誰もいない幽霊船”になりきれ!」
ランタンの明かりが消され、甲板は真っ暗になる。
帆はわざとほつれたものに張り替えられ、ロープが風にきしむ音だけが夜の海に響く。
波間に浮かぶその姿は、本当に、伝説の“幽霊船”。
これ以上ないほど静かで、不気味な気配を纏いながら、漂い始めた。
奇怪島――それは“島”の皮を被った生き物。
普段なら、甲板のきしみや人間の声。
血と汗の“生き物のにおい”にすぐさま触手を伸ばす。
だが、この日だけは違った。
波間にふらふらと流れてきたのは、どう見てもただの幽霊船。
帆は何十年前のものかわからないほどボロボロにほつれ。
ランプも一切灯らず、甲板には人影ひとつない。
何より、あの獲物たちが発する“生の気配”がまるで感じられなかった。
「……ただのゴミか、骸か」
そう判断した“奇怪島”は、体の上にそれを受け入れることすら気にしなかった。
海流にまかせて、自分の背に――あの幽霊船が静かに、音もなく上陸する。
けれどその実、その船には、海賊、勇者、魔族。
獅子身中の毒虫たちが、息を潜めて“肉”を食い尽くす機会を狙っていた。
彼らは死の皮をまといながら、“楽園”を食い破る寄生虫となったのだ。
「奇怪島」の長い眠りが、静かに終わろうとしていた。
船室の中、しんとした暗闇とランタンの小さな灯り。
窓もない、息も詰まるほどの狭さ。
レイスが膝を抱えながら、タバコ箱を握りしめて呟く。
「たぶんよ……トロイアの木馬もさ。
英雄だ英雄だ言われてるけど、中で待ってる兵士は絶対こういう顔してたと思うぜ」
空気はじっとり。窓もなく、古びた船室の板の間に4人がすし詰め。
ユピテルは壁に押し付けられ、ジト目で周囲を見回しつつ口角だけ皮肉に上げる。
「狭いンだが? 歴史的行動って、だいたい“しょーもねぇ”ってマルスも言ってたぜ」
ネプトゥヌスは、こんな中でも優雅さを崩さず、柔らかな笑みで合いの手を入れる。
「フフ。きっと臭い、狭い、くしゃみ出そう――とぼやき合っていたのでしょうね」
ロコは唯一、ぴったりはまる隙間に丸まりながら。
「狭いの落ち着くにゃ~」と満足げに尻尾を揺らしている。
外からはクラゲ島の波音と、時折“泡”がはじける音だけ。
英雄伝説の裏側にある、「本当の顔」
それが今、この船室に詰め込まれた生の表情だった。
クラゲ島の背に“幽霊船”が音もなく乗り上げる――
甲板の下、船室の暗がり、積荷に隠れていた面々は、じっと気配を殺し。
本当に息を止めて泡越しに薄目を開けていた。
波のうねりが完全に止み「上陸成功」の合図が伝わる。
誰かがそっと泡を口から離すと、一人、また一人と慎重に立ち上がる。
新たな「侵略者たち」が、ついにクラゲ島の心臓に足を踏み入れる瞬間だった。