TEMPEST-1章 - 1/5

旧東京──いまはロストサイドと呼ばれる巨大なスラム圏。
その空気は、常に何かが腐り、同時に何かが生まれているような匂いを纏っている。
道端ではゾンビがぼんやりと倒れていたり。
魔界から派遣されたDAWSON社員が“次の出店候補地”として物件査定をしていたり。
渋谷スクランブル神殿では今日も誰かが車に撥ね飛ばされていたりする。
だが、それらはもう日常だ。
悲鳴も怒号も、この街では雑音の一部に過ぎない。

そんなロストサイドに、最近になって新しい“異物”が歩いているという。
最初に噂が走ったのは酒場、次に闇市。
最後にハンターオフィスの掲示板だ。
どの紙にも赤いマーカーで殴り書きがある。

『謎の少年 出没注意』
『特徴:古い学生服』
『色味がこの世界と合ってない』

「最近さー、古い学生服でウロついてる変なガキいね?」
「悪魔でも勇者でもないんだよなぁ。なんか……浮いてるっていうか」
「いやマジで夜の廃墟に学ランの中坊とかホラーだって……」
「なんでこの世界に昭和の教科書歩いてんだよ」
「転生者か?幽霊?それとも――マジで何もんだ?」

噂の広がり方は異様に速かった。
悪魔が来たときよりも、どこか不穏で、不自然で、街がじわじわとざわめいていく。
人々の視覚と本能が“異常個体”を検知したときの独特の反応だ。
ロストサイドは、異常には慣れ過ぎている街だ。
だが、その街が「おかしい」と言うなら、それはもう相当な異物だ。
そして、その“時代錯誤の少年”が現れるたび。
周囲の空気が少しだけ薄くなり、気温がわずかに揺らぐ。
説明のつかない違和感が残るのに、誰も直接関わりたがらない。
誰もがこう思った。
──あれは、この街の住人じゃない。どこか別の世界の残響だ。

ティアが肩をすくめながら淡々と言った。
「大体な、昔から服装がズレてるやつは悪魔なんだ。それも高位の」
終末世界の経験則か、ただの偏見か、その境界線はもう誰にもわからない。
だがティアの声には妙な説得力があった。

メーデンが瞬きを二回してから聞き返す。
「そういうデータあるんですか?」
「あるというか法則。外から来るやつは決まって時代錯誤だ」
ティアはロコの頭を無造作に撫でながら続ける。
「メーデン、お前ならあの“赤い悪魔”がどこにいるかわかるはずだ。呼んでこい」
「えー」
メーデンが不満げに声を伸ばす。
だが誰よりレイスの居場所に詳しいのも彼女だった。

東京の“赤い悪魔”
その言葉にはふたつ意味がある。
ひとつは、今まさに彼女たちの頭上にそびえ立つ、血錆びたような赤い鉄塔。
夜になれば禍々しい光を放つ、ロストサイドの象徴。

そしてもうひとつは――その鉄塔の真下から徒歩5分、雑居ビルの二階。
パチンコ屋にいる。
扉を開ければ、煙草と油の混じった空気。
爆音。蛍光灯の死にかけた光。
そして、その奥で。

レイスは椅子にふんぞり返り、片膝を立て、真正面の台を睨んでいた。
隣の席ではおっさんがリーチを外して発狂中。
それを無表情で眺めながら、レイスがぽつりと呟く。
「パチ屋は人間の本性が出る」
デスゲームの主催者でも言わなそうな台詞を吐いたが、彼はいちおう主人公だ。
正確には、“主人公の役を押しつけられる側”の外道半魔ハンターである。
扉の前でオロオロしていたメーデンが、意を決して近づく。

「レイス!やっぱここにいた」
「みんな貴方を探してたよ。変な子がロストサイドにいるって」
レイスは面倒くさそうに片目だけを向けた。
「あ〜?」
その声だけで何を言いたいか大体伝わる。“また面倒事か”の耳慣れたトーンだった。
メーデンが事情を説明する前に、ティア・ロコ・マカがまとめて乗り込んでくる。
スラムの猫と狼と半魔の小隊。
パチ屋の店員が露骨に嫌そうな顔をしたが、誰も気にしない。

ティアが腕を組む。
「謎のガキはろくな事態を呼ばないって、昔から言うよな」
ロコは猫耳をピクつかせながら警戒している。
「猫のカンが騒いでる……アレは普通じゃないニャ」
マカは台に肘をつきながら短く言い切る。

「目が、違った。人間の目じゃない」
メーデンは胸に手を当て、少しだけ不安げに呟く。
「もしかして…助けを求めてるんじゃ…?」
レイスは煙草をくわえたまま、面倒くさそうに立ち上がる。
決してやる気があるわけじゃないが、こういう時の彼は動く。
動いてしまう。
「……いいだろ。行くか。街がざわつく時は、ろくなこと起きねぇ」
パチ屋の蛍光灯がちらつく。
その下で、レイスはコートを翻し、今日の分の現金をすべて溶かした台に背を向けた。
そしてロストサイドの空気が、ほんのわずかに冷たく揺れた。

廃ビルの軒下は、夕焼けの残光が薄く入り込み、世界の残骸みたいな赤さで染まっていた。
鉄骨の影は削れた爪のように歪み、風が吹くたび。
空気の温度がひとつ上書きされる。
ロストサイドは昼と夜の境界が曖昧だ。常に壊れかけ、常に続いていく。

その場所に、ひとりの少年が立っていた。
古い学ラン。肩の線がほんの少しだけずれていて、数十年前の型そのまま。
手にはボロい学生カバン。ページの端が破れた教科書をパラパラとめくっている。
しかしその表紙には、誰も見たことのない文字が並んでいた。

《異世界史》

ロストサイドのチンピラもハンターも、彼の気配に触れた瞬間、歩みを止める。
理由は説明できない。ただ“近寄りがたい”。
まるでそこだけ別の時代が立ち上がっているような寒気があった。

少年は周囲など気に留めず、静かに夕焼けを見つめている。
風がひとつ吹いたあと、ぽつりと呟いた。
「……ここも、もう誰もいないんだね」
廃墟の空気に似合わない、あまりにも素直な声。
その言葉に、レイスは思わず足を止めた。
距離を取ったまま、声をかける。

「おい、ガキ。そんな格好でよくこの街歩けるな」
少年は教科書を閉じ、レイスの方へだけ視線を向けた。
その目は怯えていない。戸惑いでもない。
ただ“観測している”だけの、静かな目。
「ここ、東京……だったんですよね?」
レイスは煙草を指に挟んだまま、少しだけ息を抜いた。

「……“だった”な。今は地獄って呼ぶ方が通りがいいが」
「そうか。……地獄、か」
少年は反応を示さない。恐怖も、納得も、現実逃避もない。
ただ情報を並べて整理しているだけの顔。
その“ズレ”が、逆に街の空気を緊張させた。

メーデンがそっと前に出る。
夕陽で髪が金色に透けながら、優しい声で尋ねた。
「名前は?」
少年は、少し口を開きかけて、言葉を探すように沈黙した。

「僕は……」
そのとき、彼の視線がすっと横へ流れた。
そこに貼られていたのは、色の抜けた古い競馬ポスター。
開催日は大災害の年。馬たちは走ることなく、世界の理不尽に飲まれて消えた。
ポスターの紙は裂け、風に揺れるたびに、過去がひとつ擦り切れて落ちていく。
少年はその光景を、ありありと“知っているもの”を見るような表情で見つめた。
そして、小さく、だが確かに言った。
「……悠馬」
名乗った瞬間、レイスは確信した。
(ああ。今の、嘘だ)
声は自然だった。
だが、名乗る“間”が不自然すぎる。

「やっぱり、コイツ“外”の存在だな……」
内心で呟きながら、煙を吐く。
少年――悠馬は、状況を見回して首を傾げた。
「しかしどうしました。そんな大勢で……迷子と思われているんですかね?」
ティアが眉をひそめる。
「アンタ……今時そんな学ラン着てる奴いねぇぞ?」
悠馬は真顔で固まった。
そのまま、少し離れた場所で遊んでいる子供たちを見る。
派手な古着、パッチワーク、魔界ブランドのパーカー。
次に、自分の服を見る。もう一度、見る。
二回ほど、確認して。

「……ほんとだ!?」
声が裏返った。
レイスは吹き出しそうになるのを堪えながら、煙草をふかす。
「気づいてなかったのかよ……どんだけズレてんだ」
マカが、淡々と解説を挟む。

「大災害前なら完璧なカモフラージュでした。現代に学ランは逆に目立ちます」
悠馬の焦りが、一気に爆発した。
「え、いやだって!僕これがスタンダードって聞いたんだけど!?
じゃあ今の子供は何着てるの!?!?説明が違うんだけど!!」
早口。
完全に余裕が消えている。
メーデンが、のんびり首を傾げる。

「え~、そりゃ古着屋さんで買うと思いますよ……やすいし」
「古着屋!?そんな選択肢が!?」
眼鏡をくいっと押し上げ、頭を抱える。
ロコが尻尾を揺らして笑った。
「天然すぎだニャ……カワイイけど危なっかしい」
ティアは溜息をつく。
「インテリは服選びから勉強し直してこい……」
レイスは、もう一度だけ悠馬を見た。
知識はある。
だが、現実感覚が致命的に欠けている。
しかも、そのズレは“この世界の外”のそれだ。

(……コイツ、絶対ただのガキじゃねぇ)
悠馬はぶつぶつと呟き始めた。
「僕の情報網どこでミスったの!?アーカイブ全部照合しないと……」
「かわいいからだいじょうぶですよ」
メーデンの一言に、レイスは苦笑する。
「天然は怖ぇな……いろんな意味で」
夕焼けが、さらに赤くなる。
東京の残骸と、ひとりの時代錯誤な少年を包み込みながら。

――こうして、ロストサイドに“来てはいけないタイプの少年”が。
静かに組み込まれていった。

レイスは煙草を指で弾き、歩き出しながら言った。
「とりあえずハンターオフィス行こうな。ていうか俺ら、お前の散策のため来たんだから」
その言い方は雑で、半分は冗談、半分は本気だった。
悠馬は一拍遅れて、その言葉を咀嚼する。

「やっぱり迷子と思われてる……」
マカが、感情のない声で追撃する。
「じっさい、土地勘ないみたいじゃないですか」
「う……そうだけど」
否定しきれず、声が少し小さくなる。
この街に対する“知識”はある。だが“距離感”がない。
それが露骨に出る返答だった。

悠馬は歩きながら、ふと立ち止まった。
メガネに砂埃が付いているのが気になったのか、
それとも度数が合っていない違和感を覚えたのか。

彼は、気分を切り替えるように、ごく自然な動作でメガネを外した。
指先でレンズを拭う。
ただ、それだけの動作だった。

――その瞬間。
ロストサイドの空気が、ほんの一拍、止まった。

夕焼けの光が、直接、彼の顔に落ちる。
遮るものが消えたことで、輪郭がはっきりと浮かび上がる。
幼さの中に、完成しかけたバランス。
まだ“育っていない”のに、将来が確定してしまう顔。

誰かが、息を呑んだ音がした。
女ハンターAが、ほとんど口を動かさずに囁く。
「……ちょ。今の顔、見た?」
女ハンターBは、なぜか震え声になる。
「え、ズルくない……?5年後ヤバいタイプじゃん……」
男ハンターは苦笑いしながら、視線を逸らす。
「逆に怖ぇよ……何者だよアイツ……」

だが当の本人――悠馬は、まったく気付いていなかった。
「……あ、砂入ってた」
そう言って、丁寧にレンズを拭き終え、何事もなかったようにメガネを掛け直す。
悠馬は慌てて後を追いながら、首を傾げた。
「……なんだか、さっき一瞬、変な空気になりませんでした?」
「気のせいだ」
レイスは即答した。
「この街じゃ、気のせいで死ぬ奴が一番多い」
ハンターオフィスへ向かう足音が、夕焼けの中に重なっていった。