ロストサイドの夜景は生き物みたいに揺れていた。
黒い闇が沈殿し、その隙間からビルの骨格が光を漏らす。
美しいのに、壊れている。
壊れているのに、なぜか生きている。
その明滅の中で、ひときわ赤黒く輝く塔がある。
レッドデビル――旧・東京タワー。
あの日、東京が死んで“ロストサイド”になった日の記憶を抱えたまま。
今日も禍々しい光を夜空へ滲ませている。
レイスは額を展望ガラスに押しつけたまま、まだ息を整えられずにいた。
体温で曇ったガラスが、彼の呼吸に合わせて白く膨らんで、細く萎む。
ふっと、わざと雑に息を吐く。
「……嬢ちゃん。レッドデビルに登ろう」
言い方はぶっきらぼう。
でも、知っている者だけが理解する。
これはレイスが“特別な相手”を誘うときだけに出る、最上級のデレだ。
「ハァ!? え、えええ!? だって、エレベーターないですよね!!?」
素で叫んじゃう。
膝が笑うどころではない。想像だけで心臓が縮む。
レイスは鼻で笑うだけで返事はしない。
「気に入ったやつを塔に登らせるって、斬新なデレだにゃ」
「悪魔の愛情表現って、古典からしてそういうとこあるのよね……」
その一言で、空気がほんの少しだけ深い方向へ沈む。
悪魔は――気に入った人間に優しくしない。むしろ逆だ。
人間を気に入るというのは、演技ではない。本心だ。
だからこそ残忍になる。
自分だけのものにしたくて、家族を奪う。
永遠に隣に置きたくて、魂を契約で縛る。
強くなってほしくて、死にかけるような試練を与える。
それらは愛情のつもりなのだ。
人間側から見れば悲劇でしかない。
けれど悪魔は、世界の摂理そのものが違う。
だから、好きになった人間ほど壊しやすい。
だから、愛しいほど奪いたくなる。
ティアはレイスの背中を見ながら続けた。
「人間を憎んでるんじゃないのよ……好きだから、そうするの」
ロコが小さく笑う。
「なるほどにゃ。悪魔の“デレ”って、そういうジャンルか」
――落ちた場所に、誰かを連れていく。
レイスにとってそれは、“許した証”であり、“選んだ証”。
それは人間の愛情表現とは似ても似つかない。
けれど、悪魔の古典では確かに“最上級の好意”だった。
メーデンは真っ赤になって叫ぶ。
「いやいやいやいや!!しぬ!!!!!
デレが重い!! 命が軽い!! なんでそうなるんですか!!?」
「完全に死刑宣告ニャ」
「いや……デレよこれ……」
レイスはガラスに額を押しつけたまま、低く吐き捨てる。
「うるせぇ……落ちんなよ。以上だ」
その言葉には、悪魔の血と――人間に残った心が混じっていた。
このあと登る塔は、ただの廃墟じゃない。
レイスが“もう一度ちゃんと背中を向けるため”の場所だ。
そしてメーデンにとって。
“落ちた男”が、初めて誰かを連れて登ろうとした塔。
続きは、レッドデビルの頂上で待っている。
鉄骨は、風に合わせて小刻みに震えていた。
高さが上がるほど、足場は細く、古びて、軋みが大きくなる。
メーデンは泣きそうな声で必死にしがみついていた。
「足場グラグラしてますぅ!!!」
地面ははるか下。
支えは錆びた鉄骨一本だけ。
安全装備ゼロ。
常識ゼロ。
レイスは、すぐ後ろを無言でついてくるだけだった。
怖がらせようともしない。
励まそうともしない。
ただ、彼女の落ちる音を待っているような静けさ。
そして本当に――足を踏み外した瞬間だけ、後ろから片腕が伸びてくる。
腰を片腕で掴み、鉄骨に戻す。
その動きは練習したかのように雑なくらい滑らかだった。
「騒ぐな。余計に落ちる」
「落ちたら死ぬんですけど!?!?」
レイスは鼻で笑っただけだ。
その笑いは、明らかに“安心させるためのもの”ではない。
強風がまた吹き抜ける。
鉄骨が悲鳴のようにギィ……と曲がる。
「安全帯もヘルメットもないんですよ!!!労働基準法違反なんですよ!!!」
「お前に似合うもんじゃねぇ」
この悪魔的デレが、なんの役にも立たないのが本当に腹立つ。
「似合う似合わないの問題じゃないです!!!」
「私は今日死ぬんですか!?」
「死ぬな。落ちんな。以上」
励ましではなく、命令だ。
しかも、この男にとって“生かす”ことがなぜかデレの上位互換でもある。
ようやく最上部に辿りついた時。
メーデンは泣き疲れてその場にへたり込んだ。
かつて電波塔だった場所は、今は赤黒く脈動する“何か”に変わっている。
それがロストサイド全体を血の色に染めるように放射していた。
眼下には、暗闇に沈む廃都。
その中にまだらに灯る、生き残った建物の光。
レイスが隣に立ち、夜景を指す。
「見ろ。……滅んでもまだ、光は消えねぇ」
メーデンは涙目のまま、恐怖と感動が入り混じった声で呟いた。
「……きれい……」
強風が再び吹く。
メーデンの足がズルッと滑りかけ――。
レイスが、すっと背後から抱きかかえるように支えた。
腕に力はない。
抱きしめるわけではない。
落ちないように“保持している”だけ。
「……だから言ったろ。お前は騒いでりゃいい」
メーデンの顔は真っ赤だ。
声は風に消えそうなほど小さい。
「デートって……こういうのじゃないと思うんですけど……」
レイスは笑わない。
けれど、怒ってもいない。
ただ、東京の亡骸を見下ろしながら言う。
「……俺のはこうだ」
悪魔の愛情表現。
人間からすれば、死ぬほど怖いのに、妙に心臓が喧しい種類の“好意”。
夜景デート――ほぼ拷問。
ただし、落とさなかったという一点だけが、この上なく優しい。
ロストサイドの夜風が二人を包む。
滅んだ都市の上で、レイスは初めて“誰かと一緒に登った”のだった。
東京タワー跡──レッドデビルから下り切ったころ。
夜風がほのかに冷えてきていた。
メーデンはまだ膝がガクガクしている。
さっきまで泣き叫んで、喉もヒリヒリする。
なのに隣の男は――平然とポケットに手を突っ込みながら欠伸。
「……よし。すっきりした」
「すっきりしたぁ!?!?!?」
振り返ったメーデンの顔は涙の跡が線になったまま。
レイスは気にも留めない。むしろ涼しい顔。
ポケットに手を突っ込み、気だるそうに歩きながら欠伸ひとつ。
さっきまであれだけ張り詰めていた空気が、嘘みたいに消えている。
メーデンは立ち止まって、震える指で彼を指差した。
「あの!!めっちゃ泣かせといて何で自分はそんなスッキリしてるんですか!!?」
「デトックス効果ってあるじゃん?」
あまりにも悪びれない返答。
あまりにも“悪魔”。
その瞬間、メーデンの脳内に生えてないはずの蝙蝠の翼が幻視される。
黒くて、やたら立派で、しかもドヤ顔。
「この悪魔ァ!!」
レイスは肩を揺らして笑うだけだ。
夜景を背に、滅びた街を歩きながら、悪魔は今日も楽しそうに笑っている。
――そして人間は、なぜかまた次も一緒に歩いてしまう。
悪魔の愛情表現は、だいたいいつも、命がけだ。
肝心の目的は、きちんと果たされた。
飼い主の女性は、しゃがみ込んでラッキーを抱きしめる。
細い腕に顔をうずめながら、何度も何度も撫でる。
「ラッキーちゃん……ごめんなさいね……」
「今度からはちゃんと抱っこしていくからね」
「わんっ!」
尻尾をぶんぶん振るその姿に、張り詰めていた空気がようやく緩む。
「よかった……連れ帰れなかったらどうしよう、って空気になりましたよ」
飼い主はほっと息をつきながら、ふと視線を夜空に向ける。
崩れたビルの影、静まり返った街。
「このところ、カラスや猫たちがやけに騒ぐの」
「動物が……?」
「ええ。皆さんも気を付けてくださいね」
少しだけ声を落として、まるで言い伝えを語るように。
「動物が騒ぐときって……」
「だいたい、よくないことの前触れだもの」
ラッキーが小さく「くぅん」と鳴き、飼い主の腕に顔を埋める。
その音がやけに静かな夜に溶けていく。
誰も、すぐには返事をしなかった。
レイスは遠く、レッドデビルの赤い光を一瞥する。
いつもの無表情。
けれど、その目だけが、わずかに細くなっていた。
(……知ってるよ)
(嫌ってほどな)
ロストサイドの夜は、今日も何事もなかったかのように静かだ。
だがその静けさが、次に来る“何か”の前触れであることを
獣たちだけは嗅ぎ取っていた。