年に一度。
信仰対象である「神」が現れる、最も尊き一日。
大聖堂は、朝焼けに焼かれながら静かに震えていた。
天井の彼方まで続く巨大なステンドグラスは、金色の波紋をゆっくりと押し広げる。
その紋様は歯車だった。
複雑に噛み合いながら、しかしどこか歪んでいる。
世界の“分岐”と“修復”を意味する印。
祈りと記録、希望と終曲を内包する機構。
中央に影がひとつ。
大理石の床を曳くほど長い影。
ゆっくりと揺れるたび、空気がわずかに硬くなる。
金の髪、淡く光を吸う重装の胸甲。
地に突き立てた剣を、杖のように両手で優雅に重ねる姿勢。
呼吸すら儀式めいて、静謐。
存在しているだけで、周囲の空間の“時間”が研ぎ澄まされる。
まるで、彼を中心にして世界が円環を描いているようだった。
だが、その神でさえ、隣室の“騒ぎ”だけはどうしようもなかった。
神-ドレッドノートはゆっくりと瞳を開き、眉根を寄せるという世俗的な仕草をした。
「……アンラ派の方が騒がしいな。まぁ、いつものことだが。」
重鎧の裾が光を弾く。
そのわずかな揺れが、まるで雷鳴の予兆のように感じられた。
世界を巻き戻す神が、もっとも頻繁に人間臭い表情を見せる瞬間。
今日だけは、三邪神すべてが“顕現”する。
ゆえに人間は祈り、天使は記録し、異形はざわつき、世界はそっと息を潜める。
だがその“静謐”は、すでにどこかで破られていた。
大聖堂の奥で、何かが鳴っていた。
声か、音か、熱狂か。
区別がつかないほど、混線した快楽の波動。
ふと、脇の広廊へ視線が吸い寄せられた。
そこにあるのは“闇の聖域”。
ただ覗いただけなのに、世界が息をやめた。
床は深海だった。
静かすぎて、どこかの海底で聴く“圧”だけが耳を締めつけるような。
あの、生命が沈んでいくときの異様な静けさ。
黒球の神-ディヴァイン。
世界の闇を凝縮し、ただ一点に固定したような“存在しすぎる虚無”。
形はないのに質量があり、重力がないのに落ちていく。
恐怖のはずなのに、見続けていると底知れぬ安らぎが滲む。
深淵に足を取られる前の、最後の“安心”。
人が死ぬ瞬間、一瞬だけ感じると言われる、あの静謐に似ていた。
黒球の傍らに巫女セリエルが佇む。
目隠しの下、まつ毛すら動かさず、ただ神の“存在”だけを見守っている。
司教たちは石像のように跪き、呼吸音さえ漏らさぬ。
唯一聞こえるのは放し飼いのアノマリー犬が、短い脚で大理石の床を歩く音だけ。
その音が、なぜか不遜に聞こえるほど、ここは“神域”だった。
犬もどきは黒球のすぐそばへ行き、ころんと横になって眠り始めた。
ディヴァインは気にも留めない。
視線も向けず、何も反応せず、ただそこに“在る”だけ。
対照的すぎる沈黙だった。
黒球の奥の奥で、ひとつの“目”がゆっくりと開いた気配がした。
光ではない。瞳でもない。
ただ、こちら側の存在を数値として記録するだけの“観測”。
ドレッドノートは息を整え、深く頭を下げる。
「ディヴァイン。本来、式典中に他聖堂へ移動するのは御法度ですが……」
セリエルたちが同時に顔を上げる。
犬もどきは小首をかしげ、尻尾だけゆっくり揺らした。
「アンラ側に……不穏な動きが見えます。見に行っても……よいですか?」
大聖堂全体がひとつの心臓のように脈動し、静寂が凝縮して霧のような重さを帯びた。
黒球が、わずかに揺らぐ。
世界の底から滲み上がるような声が響いた。
「なすがままにせよ。」
許可などという軽い言葉ではなかった。
“解放”。
存在の束縛から手を放すような冷たい宣言。
ドレッドノートの鎧が光を吸い込みながら揺れる。
礼節の神は深くうなずき、無音の海から静かに歩み出した。
三邪神に上下はない。
呼び捨てで呼ぶことこそ、唯一の作法。
互いに“概念”であり、“並列の存在”なのだから。
それでもドレッドノートだけは、ディヴァインに対し常に敬語になる。
畏れではなく、礼節だった。
最古の闇に対して、ごく自然に敬意が湧いてしまう。
神格の差ではなく、生の深さが違う。
時間そのものに対して敬語を使うような、そんな奇妙な距離感だった。
呼び捨てなのに言葉は丁寧。
対等なのに礼儀は崩さない。
その矛盾が、三邪神の関係を保つ“最後の均衡”だった。
石柱が並ぶ、重厚で静かなはずの長い回廊。
なのに、遠くから地響きが聞こえる。
リズムだ。
床を打ち鳴らす快楽。
人間たちの喉の奥に巣くう“熱”の振動。
(……式典中のはずだが?)
ドレッドノートは首をわずかに傾げた。
近づくほど、音は増幅し。
“歓喜”ではなく“熱狂”へと姿を変えていく。
もう祈っていない、彼らは“騒いでいる”。
扉を押し開けた瞬間、光と音が爆ぜた。
刺激という概念を超えた閃光が、世界の構造ごと視界をぶん殴ってくる。
「A!N!G!R!A!!」
「ANGRA!!ANGRA!!」
「我らが神よ~~~~!!!」
「アンラさまぁぁぁぁぁ!!!」
サイリウムが海のように揺れる。
どこから持ってきたのか、誰も知らない。
誰も止められなかったのだ。
舞台中央には、黒髪褐色金眼のイケメン邪神──アンラ・マンユ。
スポットライトの光量は殺傷レベル。
ドレッドノートの視界が本気で白飛びする。
「みんな~~~!!声出していこうかぁぁぁ~~~???」
小指を立てたアイドルポーズで、“世界の破壊者”が煽っていた。
式典?黙示録?興味ない。
ここにあるのは、ただの“ライブ”だ。
ドレッドノートは足を止めた。
目は四白眼、顔色は死人のよう。
この聖堂だけ、神の祭壇ではなく“フェス会場”だった。
聖堂を満たす光は、もはや“聖”とは呼べなかった。
黄金の粒子が渦を巻き、それを浴びた信徒たちが境界線を失った顔で叫び続ける。
視界に映っているのは、
“神のライブ”という本来あり得ない光景。
祭壇はDJ台に変貌し、祈祷台の上ではアンラがマイク片手に客席を煽っている。
アンラは、ライブの主役のそれ以上の存在感で指を客席に突きつけた。
「みんな~~!!声出していこうかぁぁぁ!?!?」
雷鳴のような歓声。
サイリウムの光が黄金の破片と混ざり、空間が粒子の奔流になって崩れかける。
ドレッドノートは、この光景を“終焉直前の世界”としてしか理解できなかった。
「アンラぁ……これは、なんだ?」
声が震えていた。
神である彼が震えるという事実そのものが、すでに異常だった。
アンラはマイクを肩で回し、爽やかに答える。
「式典だが?」
軽い。
軽すぎる。
世界の半分を指で押し潰す存在の声音とは思えない。
「式典でサイリウムは振らんだろ!!私の聖堂まで響いてきてんだぞ!!!」
アンラは小首をかしげる。
黒髪が照明に照らされ、異常なほど美しく揺れた。
「そうか?ディヴァインの方は静かすぎて“生きてるのか”心配じゃないか?」
ドレッドは真顔で答える。
「生きてるに決まってるだろ!!あれで正常なんだよアイツは!!」
「じゃあ私は私の正常をやってるだけだが?」
「お前の正常は式典をライブにすることではない!!
まず舞台を撤去しろ!MCをやめろ!!歌うな!!!」
「無理だ。」
一切の迷いもない声で、アンラは言い切った。
「信徒が“私を推す”のは自然現象だ。」
その瞬間、客席から“熱”が立ち上がった。
歓声ではない。
熱狂の物理現象。
「ANGRA! ANGRA! ANGRA!!」
ドレッドは頭を抱える。
「やめろ!?神の名前をコール&レスポンスに使うな!!!」
アンラは楽しそうにウインクし、マイクをドレッドの口元へ突きつけた。
「ドレ、お前もやれ。“ドレッドコール”あげるぞ?」
信徒たちが即座に反応する。
「DO!RE!DO!RE!DO!RE!!」
ドレッドの顔が真っ青になり、目が完全に四白眼になった。
「やめろォォォォ!!!!私はアイドルじゃない!!!」
アンラは笑う。
「大丈夫だ、すぐ慣れる。来年には“昇天☆ドレ様Tシャツ”を売る」
「出すな!!!」
祭壇からアンラの声が飛ぶ。
「みんな~盛り上がってるか~~??世界の終わり、楽しんでるか~~???」
「イェーーーーイ!!!」
「世界を終わらせるな!!!黙示の式典はライブ会場じゃない!!!」
「祈りとは“神を見ること”。つまり私を見る=正しい。」
「理屈になっとらん!!!」
神の式典は、完全にアンラ・マンユの手中だった。
アンラの眩しすぎるスポットライトの背後。
そこは本来自然の影が落ちるだけの“暗がり”だったはずだ。
だが誰も見ていない間に、闇そのものが形を変えていた。
ステージの後ろに“気づいたら”立っていた。
信徒全員の肺がひっくり返るような息を飲む音が走る。
「!?!?!?!?」
誰もが理解した。神は来るのではない、在るのだ。
アンラは振り返り、舞台袖に来た同期かのように気軽に微笑んだ。
「やぁディヴァ。ちょうど前座が終わったところだ」
ドレッドノートは反射的に叫んだ。
「前座じゃない!!!!!私とディヴァインを勝手に前後関係で扱うな!!」
アンラがマイクを片手に、小指を立てる。
「ディヴァイン、人型になれ。信徒も“見たい”って言ってるぞ?」
ざわ……とサイリウムが揺れた。
誰も声を出さない、神の答えを待つためだ。
そして黒球が、低く沈み込むように呟いた。
「…………理由。」
音程がなく、抑揚もない。ただ“底”から響く声。
その一言だけで、世界の境界線が薄膜のように震えた。
アンラは肩をすくめる。
「信徒の願いは叶えろ。舞台は華やかで越したことはない。」
この男の声だけ無駄に色気があるのが、混乱を加速した。
ドレッドは怒鳴るべきか悩んだが、それより先にディヴァインが言った。
「……アーカムの収集のためなら。」
その瞬間──空気が凍りついて、揺れた。
黒球がほつれ、影が逆流する。
インクを吸った紙を逆再生したように、暗黒が人型を描いていく。
瞬きの概念すら壊れている、彼はただ見ている。
世界全部を。
「うわあああああああああ!!!ディヴァイン様ああああああ!!」
「今日も目がグロい!!!」
「最高ですッ!!!」
「腕の眼が全部こっち見てるぅぅぅ!!!」
視線は、こちらを向いていない。
なのに全方位から見られている感覚がする。
多眼の存在が“存在”だけで周囲の感覚を塗りつぶす。
信徒たちは涙を流しながら叫んだ。
「推し~~~~!!!(泣)」
世界が終わってもおかしくない熱量。
いや、ここだけすでに別世界だった。
ドレッドは叫ぶ。
「泣くな!!なんで泣くんだ!!?」
泣く理由はただ一つ。
ここにいる全員が理解していた。
“推しが実体化して目を合わせてくれたら、泣くに決まっている”
神の論理ではなく、人間の狂気が勝った瞬間だった。