アンスロポス連合編-ニア・アンスロポス - 1/5

聖都ニア・アンスロポス。
白亜の尖塔が朝焼けに染まる頃。
ゾルクォーデ邸の執務室では紅茶の香りが漂っていた。

重厚な机、経典、金縁の書類。
その中央で頬杖をつく男。
ヘルメス・フォン・ゾルクォーデ。
冷徹な理性の象徴——のはずだが。
「ニコル」
「はい、父上」
「今後、契を前提につきあう女が出来たらな」
ニコルは瞬きをした。

「……はい?」
ヘルメスは経典を閉じ、紅茶を一口。
「無視する女はやめておけ」
ニコルは完全に固まった。
大神官が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「……それは、何故でしょうか?」
ヘルメスは遠い目をした。

「無視というのはな、精神を削る」
ぼやきだった。
完全にぼやきだった。
「話しかけても返事がない。目も合わせない。だが浮気は怒る。理不尽だ」
ニコルはゆっくりと経典を閉じた。
父が、だいぶ個人的な愚痴を言っている。
「……父上は、それで不貞を?」
「そうだ」
ニコルは悟る。
(父上は……割と人間臭い)

長男メルクリウスは妾の子だ。
妻に無視されることへ嫌気が差していたヘルメスが。
彼の愛人枠に収まろうと目論む女魔導士と不貞行為に及んだ。
当然夫の不倫を知った正妻は激昂し、女を堕胎させリプカへ送れと言ったのだ。
ヘルメスは正妻の反応が嫌だった、散々こちらからの言葉を無視した癖に浮気は怒るんだなと。

「メルクリウス兄上は……お元気でしょうか?」
「リプカにいる、あんまり会うものではないぞ?
あいつは不貞の子で、お前はこの屋敷で生まれた息子だ。だからお前だけは私と同じ道を歩んでくれるな」
ヘルメスにとってニコルは希望なのだ。
彼はメルクリウスと違い、正妻の子であり次期大神官を継ぐに相応しい才を持っている。
この少年には、自分と同じ轍を踏ませたくなかった。

ヘルメスはデスクに頬杖をついたまま。
半分ぼやき、半分本気の助言を与える。
その空気がまだ残る中、執務室の隅にあるアンティークな電話がコトリと鳴った。
受話器を取るや否や、表情が切り替わる。
「……闇ギルド“蛇骨”が違法ポーションの流通を拡大している? リプカからの報告か」
短く的確な質問を挟みながら、淡々と情報を整理していく。

「蛇の道は蛇。……ただの騎士や審問官では“蛇骨”を潰せぬ」
「……第五師団を近いうちに派遣する。現地の動きは、こちらで逐次把握する。お前たちは流通ルートの全容を掴め」
声には一切の迷いがない。
話しながら、もう次の手配の指示まで頭の中で組み立てている。

アンティーク電話の向こうから、密偵たちの報告が矢継ぎ早に届く。
ヘルメスは紅茶の湯気を忘れたように瞳を細め、淡々と受け取っていった。
「……魔王軍の動向は?」
少しの沈黙。
続いて低い声が返る。

“ユピテル将軍、主力を動かさず。演習場にて継続的に訓練中”

ヘルメスは指先で机を軽く叩いた。
「爪を研いでいる……か。あの男らしい」
演習場で爪を研ぎ続ける雷神。
その姿が瞼の裏に浮かぶ。

「不気味だな。出待ちをしているというわけか。
……女神の盾に異常が生じる事を」
ニコルが肩を震わせた。
“女神の盾が崩れる”など、本来口にしてはならない禁句である。
ヘルメスは続ける。
「可能性はゼロではない。
たとえ百分の一でも“亀裂”を許せば、奴らは必ずそこへ入りこむ」
声色は完全に戦場の指揮官だった。

「第五師団長――リュコス・アルネリオスに転移石を持たせておけ。
場合によっては、今この連合に滞在している“勇者”の力を借りる」
ニコルは息を呑む。
「勇者が……この国に……?」
戦時下であることすらどこか他人事な祭司長たち。
政治の座に座りながら、“女神の盾”という絶対防壁を盲信しているだけの老人たち。
聖女は形式だけの置物。

そんな国の空気の中で。
ヘルメス・フォン・ゾルクォーデひとりだけが、戦の匂いを正確に嗅ぎ取っていた。
紅茶はもう冷めて久しい。
だが彼の目だけは、凍りつくほど鋭かった。
「……ニコル。覚えておけ」
父はゆっくりと言った。

「“戦は常に静寂の中で始まる”。気づいた時には、もう遅いのだ」
ニコルは返事ができなかった。
そこに居るのは“父”でも、“情けない男”でもない。
アンスロポス連合を守るために負けを許されない、冷徹な大神官だった。
ヘルメスは受話器を置くと、再びニコルに視線を戻す。
さっきまでの情けない父の顔は、もう大神官の鋭さに戻っている。
「お前は……自分の役目を全うしろ。余計なことは考えずにな」
どこまでも有能で、どこまでも不器用な父親だった。

そしてヘルメスが退室後、ニコルは自習として経典をノートへ書き写す。
実のところニコルはメルクリウスと会ったことがないのだ。
リプカとニア・アンスロポスはかなり距離があり、駿馬でも1日はかかる。
そしてヘルメスはニコルがリプカへ行くことを頑なに拒んだ、長男が妾の子なんて認めたくないのだろう。

「父上……僕は……」
リプカに行きたい。そう口にしかけてやめた。
それは叶わない夢だ、ニア・アンスロポスの跡継ぎとして生を受けた以上。
その責務を果たす義務がある。
「でも、それでも」
メルクリウス兄上に一目会いたい。
ニコルはノートを閉じ、窓の外から見える月を見上げた。

ニコルとメルクリウスは腹違いの兄弟である。だが二人は互いに面識がない。
ヘルメスは「不貞の子」が可愛い息子に悪影響をもたらすことを恐れて会わせようとせず。
ニコルもまた父の意向を汲んで会いに行こうとはしなかったのだ。
「……」
しかし-その関係に変化が訪れる。
それはニコルが7歳の頃だ、ある日掃除をしていたとき偶々写真を見つけた。
其処には自分を1回り大きくした感じの青い少年が神官に囲まれ。
アンスロポス連合における成人の儀-洗礼を執り行っている写真だった。
「ニコル!何を見ている」
「父上、この少年は……?」
「お前が知ることではない!チッ……処分し忘れか」
ヘルメスから詳細が聞けぬまま写真は燃やされた。
項垂れるニコルに同情した執事がこっそりと写真の少年-メルクリウスについて教えてくれた。
ニコル様、このお方は貴方のお兄様です。
「メルクリウス……兄上」
ゾルクォーデ家の跡継ぎとして生を受けたニコルだが。
彼は跡を継がず大神官になるという選択肢を与えられている。
それはヘルメスなりの優しさであり、愛情だった。
しかしニコルはそんな父に感謝しつつも-それでも兄に一度でいいから会いたかった。
写真の中の兄は横顔だけ。しかし横顔だけでもわかるほど、彼は聡明な顔立ちだった。

ニコルは兄メルクリウスのことを考えながら、書類を広げていた。
手紙を書くことが無駄だと感じていたが、手紙の中でひときわ重要な一文が目に入った。
彼は羽ペンを回しながら呟いた。

「……兄上って神官様なんですよね。」
その言葉は心にぽっかりと穴を開けた。書くべき言葉が浮かばない。
神官としての立場を持ちながら、兄はあまりにも遠くにいる存在のような気がした。

彼の目の前には、兄が求めていたものではなく。
逆に彼の求めるべきものが見えてくる気がした。
自分には、兄のようには到底なれないという、どうしようもない現実を感じる瞬間だった。
羽ペンが回る音だけが響き、その静寂がニコルを更に深く考え込ませた。

夜の聖都は、昼間よりも神々しく見える。
ニコルの自室の窓からは、聖堂の塔が淡い光を帯びていた。

机の前で、彼はまた紙を前にしていた。
兄へ宛てた手紙──
書いては、消す。
書いては、破る。
その繰り返し。

(……兄上は、どこで何をしているんだろう)

思いが形にならない。
感情だけが胸の底で渦を巻き、言葉にするとどれも違うように感じられる。
何度目かのため息を落とした時、ふと昔の講義が脳裏に浮かんだ。

“勇者というのは、ただそこに訪れるだけで世界に何かをもたらす”
災厄であったり、吉兆であったり──
あるいは、奇跡であったり。

ゆえに勇者は、古い文献ではしばしば
「現人神(あらひとがみ)」
と記されていた。

(……現人神、か)
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。
親切な冒険者がいたら。
勇者がほんの気まぐれで扉をノックしてくれたら。
「兄上を……連れ出して、会わせてくれないだろうか」
そんな他愛もない願いが、ひどく現実味を帯びて思えてしまった。

勇者なら──
この国の常識も、家の掟も、父の沈黙さえも越えて、
ひとつくらい奇跡を起こしてくれるかもしれない。

ニコルはそっとペンを置いた。
書けなかった手紙の代わりに、胸の中にひとつの願いだけを残して。

“兄上に、会いたい。”

それは誰にも言えない、子どもじみた祈りだった。
だが、この国に来た勇者の名がほんの少しだけ希望に見えた。