アルルカン編-3章・出会いとスラムと - 1/5

アルルカン下層、ノワール区の夜。
屋台が並ぶ通りには、配管の蒸気を再利用して煮炊きする煙が。
町の商家やホテル、上層のレストランが「廃棄」するクズ野菜。
切れ端のソーセージ、賞味期限ギリギリ(どころか1週間切ってる)肉。

スープ鍋の中は「キャベツの芯」「パン屋の乾きかけ端っこ」「出どころ不明の根菜」
それらをスラムの婆ちゃんが魔女のごとく煮込むと、意外とイケる“名物”に化ける。

配管の熱で焼かれる肉や串焼きは、ギリギリのタイミング。
そして何より、とにかく安い。
客層はスラムキッズから日雇い労働者、家なしの老人まで。
みんな腹を満たし、ほんのひととき笑顔を分け合う。
誰も高尚なことは考えちゃいない。
ここでは「貧富の差で暴動が起きないため」の生きる知恵。
食べることは「明日も生き抜くための共同体」そのもの。
スラムの夜は、雑多な具材と屋台の灯りでできている。

スラムの屋台通りに足を踏み入れると。
煙と湯気と何とも形容しがたい匂いがガイウスの鼻腔を刺激した。
「どうぞ!今日は胡椒多め、おいしいよ」
名物おばさんが、でかい鍋からおたま一杯の“ジャンクスープ”を手渡してくる。
ガイウスは一瞬、目をぱちくり。

器の中には、魚の骨、皮ごと煮込まれた謎の野菜。
ちぎれたパン、そして明らかに茹ですぎて“グズグズ”になったパスタの断片。
さらに何かの切れ端や、油の浮いたスープの表面。
隣でスラムキッズたちが小声で囃し立てる。
「新顔、飲めばうまいぞ!」
「勇者でもジャンクスープは避けられねぇからな!」
「さぁ飲め飲め!」
ガイウスは渋い顔で、器を手に取る。

「飲めばいいんだろ……」
仕方なく、スープをすする。
その瞬間——口いっぱいに胡椒と魚の出汁、野菜の苦味とパンの旨み。
バラバラなはずの味が「ありえないくらい沁みる」……気がした。

「……マズくは、ないな」
とつぶやくガイウスに、スラムキッズがどっと笑い声を上げた。
「おい、やっぱり勇者は舌がバグってんじゃね?」
「それな、でも飲めりゃ一人前だ!」
たとえ人生初のジャンクスープでも、飢えた体にはちゃんと沁みる。
それが、ノワール区流“生きる味”だった。

サタヌスは串の串先を灰皿にトントンと落とし、ほんの少しだけ目を細めた。
「来るのがおせーよ、ワンコ」
「なぁクロッカ。ここにリコイルがいれば、もっと賑やかだったのにな」
クロッカと呼ばれた少女が、コップで水を飲みながら小さくうなずく。
ガイウスは、不意に聞こえた。その名前に首をかしげる。
「それ、本名か?」
サタヌスは鼻で笑った。

「スラムのガキはな、本名なんか覚えちゃいねぇさ。
リコイルはギャンブル依存症のクソ親から逃げてきた。
クロッカは、向こうのガキだ。虐待されてた。名前なんか、そもそも自分でつけるしかなかったんだよ」
言葉の端々が、どこか遠くを見ているようだった。
店の外から、誰かの笑い声と夜風が混じって吹き込む。
ガイウスは、いつもより少しだけ小さな声で言葉を返すことしかできなかった。

サタヌスの横顔に、ふと影が差した。
「地獄から逃げたとこで、ちょっと地獄が形を変えるだけよ」
それは、サタヌスがスラムで生き抜いてきた年月の重さそのものだった。
この街で“生き残る”ってのは、楽になることじゃない。
昨日の地獄から、今日の地獄へ、舞台とルールが変わるだけ。
傷も、苦しみも、少しずつ形を変えて、背中に積み重なっていく。

——誰も救っちゃくれない。
——自分の手で抜け出しても、抜けた先もやっぱり地獄。
それでもサタヌスは歩みを止めない。
どこまで行っても終わらないこの世界の「底」で。
まだ見ぬ明日だけを睨みつけて生きている。
そんな覚悟を背負った少年の目に、鋼の光が宿っていた。

「生き残れてるってことは、楽しめるツワモノてわけだ」
彼の声は変わらず乱暴で、でも、どこか優しさを抱えたまま。
“いつか帰らない仲間”のことを誰よりも忘れていなかった。

静かな空気が一瞬、重たく沈む。
ガイウスが串の串を手で回しながら。
「で、そのリコイルは?どこにいるんだ」と尋ねた。
サタヌスは、しばらく無言のまま、目の前の路地を眺めていた。
しばらくしてから、ぽつりと口を開く。

「……オーディス」
「自称、聖教から派遣された牧師だよ」
ガイウスが返事をしないまま、サタヌスはさらに言葉を重ねた。
「あいつに壊された。リコイルは、銃火器の扱いが得意だったのに。
あいつの教会に通うようになってから、武器を全部捨てて。
『争いは罪』ってそればっかり繰り返すようになった」
言い終えたサタヌスの声には、怒りよりも、乾いた喪失感が滲んでいた。
かつて一緒に闇を駆け抜けた仲間が、“教会”とやらに呑み込まれていった光景を。
夜のアルルカンの雑踏は、何事もないように飲み込んでいった。

サタヌスは気だるげに肩を揺らし。
「……あいつが本当に聖教から来たかはどうだっていいわ」と、串の端を奥歯で噛みながら呟いた。
「ただ俺はあいつが嫌いだ」
豚串を咀嚼する横顔を、ガイウスはじっと眺める。
間近で見ると、サタヌスの顔つきは精悍で、目元の影には生き抜いた時間の重さが滲んでいた。
けれどそのどこかには、まだ子供のあどけなさが残っている。
スラム生まれでなければ、きっと年齢よりもずっと幼く見えただろう。
大人と子供、その狭間を行き来する顔。その中央。
あの赤い同心円模様の瞳だけが、静かに異質な光を放っていた。

ガイウスはふと、現実的な問題を思い出して声を上げる。
「ところでスラムって宿屋あるのか?もう夜なんだが……」
サタヌスは一瞬だけ目を丸くしてから、鼻で笑った。
「宿?ねぇよ。ゴミ山でも、向こうの路面電車の中でも好きなとこで寝な」
そのあまりの即答ぶりに、ガイウスは一瞬絶句する。
「ひ、ひでぇ……」
サタヌスはからからと笑い、ガイウスは自分の運命を静かに呪いながら。
遠くで流れる下町の笑い声と夜風の冷たさを、身に沁みて感じていた。

サタヌスは空を見上げてから、少しだけ気の抜けた声を返した。
「確かに……お前が言う通りだ、もうすぐ寝る時間じゃねーか」
スラムの夜は早い。
明かりも、娯楽も、守るべきものも上層ほど多くはない。
だから彼らは、陽が落ちればすぐに寝床に潜り込み。
朝が来ればまだ夜明け前から街を歩き回る。
早い者は四時には目を覚ますという。
上層の贅沢な夜更かしとは無縁の、規則正しい“生き抜くためのリズム”だ。

「せいぜい、カラスにつつかれんなよ」
サタヌスはそれだけ言い残すと、壁際のパイプに手をかけた。
一瞬でその体は闇に溶け、パルクールのように屋根の上へと消えていった。
まるで野良猫が夜の街へ出ていくような、静かな身のこなしだった。
呆然とその姿を見送るガイウスの隣。
クロッカと呼ばれたスラムキッズの少女が。
クズ野菜を煮込んだ薄いスープをちびちびとすすっていた。
クロッカは遠慮がちにガイウスをちらりと見上げる。

「サル兄、今日もボスの部屋で寝るみたい」
「……あそこはサル兄しか寝ちゃダメなとこだから」
ガイウスは、スープの匂いと冷たい石畳の感触、消えていった悪ガキの後ろ姿に。
静かな夜の“現実”をひしひしと感じていた。

ガイウスが今夜の寝床に選んだのは、サタヌスが先ほど話題に出した。
町外れの通りに静かに打ち捨てられた老朽化した路面電車だった。
車両の側面は、いつからか“スラム掲示板”として使われている。
鈍い街灯の光に照らされて。
フランス語で殴り書きされたメッセージが、金属の肌を埋め尽くしている。

Libérez le mari congelé, espèce de pédé.
(冷凍済み旦那を解放しろホモ野郎)

Quel héros ? Donnez-nous du pain, pas la renommée.
(何が英雄だ、名声よりパンを寄越せ)

Les aristos qui traitent les rats de vermine, connaissez-vous la peste noire ?
(ネズミって蔑むクソ貴族ども、黒死病て知ってるか?)

どれもこれも、フランス語に無縁だったガイウスには意味がわからない。
けれど、尖った筆致や激しさだけは。
この街の“声”としてじわじわと胸に沁みる。

窓ガラスは割れ、冷たい夜風が吹き込む。
それでも、ガイウスはシートに体を横たえ、マントを毛布代わりに肩まで引き上げた。
耳の奥で、どこか遠くの喧騒と夜汽車の幻のベルが響いている。
勇者は石畳と鉄の冷たさの中で丸くなり。
ほんのわずかな安堵を見つけるように、静かに目を閉じた。