朝四時。ノワール区、廃電車の中。
まだ夜の気配がわずかに残る時間、ガイウスはごそごそと寝返りを打っていた。
田舎で育った者特有の“朝型生活”が体に染み付いている。
両親から「睡眠だけはしっかり取りなさい」と。
繰り返し言われてきたこともあり、自然と八時間の睡眠が抜けきらない。
今朝も、暗い車内の片隅で、ふと目を覚ました。
窓の外には朝霧がたちこめている。
細い配管パイプからは湯気が流れ、街灯の残光と混じって。
どこか港町の舷窓を覗くような、静かでぼんやりした景色になっている。
「屋台……開いてっかな」
ガイウスの頭にまず浮かんだのは、昨夜食べたばかりの“賞味期限ギリギリの串焼き”だった。
その次に思い出すのは、夜のスラムに消えていった悪ガキ――サタヌスのこと。
あの異質な瞳、やけに大人びた言葉、そしてどこか放っておけない背中。
ガイウスは無意識のうちにシートから体を起こし、マントを整える。
まだ誰も起きていないスラムの朝。
この街の“ボス”と呼ばれる男と。
そして“自称・聖教の牧師”オーディスという謎の存在。
これから自分がどんな朝を迎えるのか、少しだけ不安になりながら。
彼は静かに外の霧に目を凝らした。
夜明け前のアルルカン、屋台“マダクエル”の前にはまだ人気がない。
ガイウスが歩いていくと、すでに屋台の仕込みをしていた中年の女が目ざとく声をかけてくる。
「マダクエルはあと二時間で開くよ、寝起きにうちのスープはいかが?」
ガイウスは少し考えてから尋ねた。
「いくら?」
「五ソル」
「やっす……飲むわ」
女が焦げつかないように大鍋を回している。
中では野菜の切れ端やソーセージの端切れが雑多に煮込まれている。
味は……多分、コンソメだ。いや、推測でしかないが、何となくそんな気がした。
女は気さくに話しかけながら、鍋の蓋を少し持ち上げて湯気を逃がす。
「サータはあと一時間もすれば起きるんじゃないかね。ボスの部屋だよ、きっと」
ガイウスはその名前に、どこか引っかかりを感じて訊ねる。
「ボスって?」
「スラムの顔役って言うかね……どんな荒くれも、あの人の言う事は聞いたねぇ」
女の言い方には、少しだけ懐かしさと敬意が混ざっていた。
この街の下層で“ボス”と呼ばれる人物。
アルルカンの一日が、スラムの空気の中でまた静かに始まろうとしていた。
ガイウスの目の前に差し出されたのは、“ジャンクスープ”と呼ばれる朝の定番メニューだった。
金属製の小さなカップには、前日の売れ残りや端切れ野菜、ソーセージの切り落としがどっさり。
それを胡椒多めのコンソメで煮込んだ、パンチのある味わい。
スラムでは「5ソルで栄養チャージできる贅沢」として親しまれている。
香ばしい湯気と、ほんの少しピリッとした刺激が寝起きの身体に染み渡る。
ガイウスはスプーンを手に、なんとなく微笑みながら“初めてのスラムの朝食”に箸をつけた。
スープの香りが鼻腔に広がる。
金属のカップから立ちのぼる湯気を浴びながら、ガイウスはひと口すする。
ピリッと効いた胡椒と、ソーセージの端肉の旨味――
朝のスラムには、意外なほど温かい味が満ちていた。
そんなガイウスの隣に、クロッカがちょこんと腰を下ろす。
「ボスはねー、足が一本しかないの」
「黒い義足をつけてたんだけど、これがかっこよかったんだよ」
クロッカの目はどこか遠くを見ている。
思い出すだけで嬉しくなるような、それでいて少しだけ寂しいような表情だった。
その横から、別のスラムキッズが割り込んでくる。
「俺は騎士だった、と言うけど誰も信じてなかったぜ」
「あのおっさん、嘘つきだからな。酒飲みだし、しょっちゅうケンカしてたし」
ガイウスは、スープのカップを持ったまま苦笑した。
騎士だった、という話はどう考えてもスラムの現実と噛み合わない。
でも、だからこそ“本当かもな”とどこかで思ってしまうのだった。
キッズたちの声は屋台のまわりに広がっていく。
やがて、スラムの朝を包む霧の奥から、誰かが新しい話を持ち寄るような気配がした。
「足のない騎士」「かっこいい義足のボス」
ガイウスの中で、“スラムの顔役”の姿が少しずつ形を持ち始める。
朝のスラム、屋台のスープが静かに煮立つ音だけが響いている。
「今日のジャンクスープはあたりだな。伸びたパスタ入りだよ」
スープ屋のおばさんが笑う。
子どもたちは、スラムの“ボス”――片脚の旦那の話題で、いつになく声が小さくなる。
「ボスはもういないよ」
クロッカがぽつりと呟く。
「教会の人たちとケンカして、事故だったって言われたけど……」
スラムのみんなは、口にこそ出さないが“事故”なんて誰も信じていない。
ノワール区の住人なら全員知っている。
オーディス教会の力が強まったのは、“あの事故”の後からだった。
「あとでボスの字で、メモが見つかったんだ」
おばさんが、スープを注ぎながら思い出したように言う。
「“アイツに剣は効かねぇ”って……あれ、“アイツ”って誰だろうね?」
誰も明言しない。
でも、みんな分かっている。“アイツ”とは。
今やノワール区を裏から支配している“慈愛深い牧師”オーディスのことだ。
ボスは本名も語らず、ただ筋だけは絶対に通す人だった。
大人たちも、子どもたちも、みんな彼に守られていた。
今、その“不在”だけが朝の空気に溶けて。
静かな怒りと、どうしようもない寂しさを生み出していた。
ガイウスは、二杯目のスープ入りパスタをすすった。
明らかに茹ですぎたせいで、パスタはぶよぶよとした感触になっていた。
前だったら「不味いな」と顔をしかめたはずなのに、今はむしろこの“だらしない食感”がじわりと沁みる。
「伸びてぶよぶよのパスタとか、前は不味いって思ってたんだけどな」
スープ屋のおばさんがにやりと笑う。
「順応性高いね、流石勇者」
湯気の向こうで、朝霧が街並みをぼんやりと包み込んでいる。
屋台の隅ではクロッカが小さくスプーンを動かし、他のスラムキッズも眠そうな顔でパスタを啜っていた。
サタヌスが起きてくるまで、あと一時間。
せっかくだから、とガイウスはカップをテーブルに置いて尋ねる。
「なぁ……ボスって、どんなやつだったんだ?」
スラムの朝、ぶよぶよパスタと“伝説のボス”の話。
ガイウスの“地元化”&“街への順応”が静かに進んでいく。
新聞紙を何重にも重ねて敷いた、沈み込むほど柔らかいクッションの上。
その真ん中に、ぼさぼさの黒髪が埋もれている。
薄暗いスラムの最奥部。ここは“ボスの部屋”と呼ばれているが、今はもう主人がいない。
サタヌスが独り占めするようになってから、ひと月が経っていた。
まだ外は青白い霧の中、天井の木枠からひゅうっと冷たい風が吹き抜けるたび。
新聞紙がぱさりと音を立てた。
サタヌスは寝返りを打ち、ゆっくりと目を開ける。
最初に口をついて出たのは 「オーディス……」という短い呟きだった。
事故死とされているが、誰よりも本人が知っている。
――“義父”を殺したのは、あの牧師に化けた怪物だと。
剣が効かない。
それが本当なら、自分の斧も何の役にも立たない。
こうして、何もできずに朝を迎え、眠っては目覚めるだけの日々が続いていた。
「どうすりゃいいんだ……俺は」
声だけが天井に吸い込まれていく。
このまま、燻り続けるのか。
自分の無力さに腹を立てながら、サタヌスは髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
不意に、脳裏にあの男。
昨夜、見事なシャイニングウィザードを叩き込んできた“ワンコ”がよぎる。
「……あいつが、鍵か?」
顔をしかめて、いつものように赤茶けたスカーフを首に巻く。
陽も登りきらぬ朝。
サタヌスはため息混じりに身を起こすと。
新しい一日を、まだ重たいまぶたの向こうで睨みつけていた。
朝のノワール区、霧の冷気がまだ地面に溜まっている。
屋台通りの外れ、ガイウスはサタヌスの姿を見つけた。
「どこで寝た?ワンコ」
サタヌスは気だるげな声で問いかける。
ガイウスは肩をすくめた。
「なんか、電車の中」
それを聞いて、サタヌスが思いのほか愉快そうに笑う。
「初訪にしちゃセンスがいい、あそこは掲示板じゃねーか」
昨日のスラムの夜――ガイウスは寝落ちする間際。
落書きまみれの車体を眺めていたことを思い出す。
そのまま、ふと自然にガイウスは話題を振った。
「……ボスって、どんな人だったんだ?」
サタヌスはほんの少し、気が抜けたような声を出す。
「……ボスが生きてりゃな。俺一人で、あの牧師ぶっ飛ばす必要もねぇのに」
ガイウスは、相槌をうつ代わりにもう一度問いかける。
「ボスとどんな関係だったんだ?」
サタヌスは目を細めて、空を仰ぐ。
「俺の親父みてーな人だよ。ちょっと前に死んじまった。
没落騎士だったとか、裕福層のやつらが言ってたが……過去なんざどうでもいい。
俺らを守ってくれた、それだけで十分な人だったんだ」
しばし沈黙が流れる。
屋台の鍋がコトコトと煮える音だけが響く。
ガイウスは少し間をおいて、静かに言った。
「……そっか。なら、その人が守った連中くらい、俺も守るわ。
少なくとも“財布スったヤツの分”くらいは働いてもらうぞ」
サタヌスは小さく苦笑して。
「チッ……お前、結局それ言うんだな」
と言って、今にも泣き笑いしそうな顔でガイウスを小突いた。
薄暗い朝のスラムに、二人の“始まり”を告げる静かな友情が宿り始める。