下水道の入り口は、思った以上に深かった。
マンホールを滑り降りると、蒸気とカビの匂い、どろりとした冷気が肌にまとわりつく。
二人は泥と汗でぐしゃぐしゃになりながらも、這うように闇を進んだ。
頭上ではキッズたちの足音と怒声が行ったり来たりしている。
しばらくコンクリのパイプの影に身を潜めていると、遠くで洗脳された子供たちが立ち止まった。
「くそ……ここに逃げこまれちまったら、もう見つけられねぇ」
「オーディス様に報告しよう……」
足音が遠ざかり、やがて静寂だけが残る。
ガイウスはようやく肩の力を抜いて、崩れるようにパイプにもたれた。
サタヌスも泥まみれの袖で額の汗を拭う。
二人は煉瓦の隙間から、慎重に外を覗き込む。
まるで獣が巣穴から敵の気配を探るように、息を殺す。
――やがて、完全に物音が消えた。
ガイウスは安堵の息をついた。
暗闇の中でも、ほっとしたような笑みがこぼれる。
「ふー……でよ、親分って誰だ?ボスとは違うのか」
サタヌスはパイプの上に座り直し、膝を抱えた。
「あぁ。このアルルカンで一番の情報通だ。
ノワール区の誰よりも裏を知ってる、スラムの“親分”。」
彼の声はどこか誇らしげでもあり、僅かに警戒も含んでいる。
「スラムのルールも、上層の噂も、全部あいつに聞けば分かる。
ただし。ちゃんと敬語で頼めよ?」
ガイウスは「マジかよ……」と苦笑し、立ち上がった。
「じゃあ、勇者のくせに礼儀も勉強しねぇとダメだな」
サタヌスが悪戯っぽく笑った。
二人の靴音が、ぬかるんだ下水道に小さく響きながら。
この街の“親分”が住むという闇の奥へと、歩みを進めていった。
下水道の奥深く、レンガ壁の隙間から柔らかな明かりが漏れている。
サタヌスが先導しながら進むと、その先に“親分”がいた。
親分――この街の裏社会で伝説と呼ばれる情報屋は、巨大なデブ鼠型の魔族だった。
首からは金ぴかのオペラグラスをぶら下げ、貫禄たっぷりに古びたソファへどっかと座っている。
「おぉ?サータじゃねぇか。でかくなったなおい」
親分はサタヌスに向けて、大きな歯を見せてニヤリと笑った。
サタヌスも、どこか子供のような表情でぺこりと頭を下げる。
「久しぶり、親分。」
ガイウスはその姿に一瞬「マジかよ、喋るデブネズミ……」と素で固まるが、すぐ我に返って口を開いた。
「なぁ。この街に雷魔法使いはいるのか?」
親分は小さな目をギラリと光らせて、ガイウスをじろりと見下ろす。
「おぉ~?知ってるがな、生意気な新参にゃ教えられねぇな」
サタヌスが小声で囁く。「敬語だ敬語」
ガイウスはギリギリと顔を引きつらせ、渾身の我慢を込めて言葉を選んだ。
「……えーと、親分様。もしよろしければ。
上層にいらっしゃる雷魔法使いについてご教示いただけないでしょうか……?」
その瞬間、親分はニヤリと満足そうに頷いた。
ガイウスの心の声が悲鳴を上げる。
(な、なぜ俺はデブネズミに敬語を使っているのだァ……!我慢だ我慢……)
親分は、もったいぶるようにオペラグラスを拭きながら口を開いた。
親分はガイウスをじろりと見やったまま、オペラグラスを器用にくるくる回していた。
けれどその目には、情報屋らしい計算高さだけでなく。
どこか遠いものを見る寂しげな色も浮かぶ。
「髪は真っ白で、肌は黒い。ありゃダークエルフだな」
と親分は言った。
その声には妙な重みと優しさが混じる。
「おかげで人間どもは気味がわるぃ、て斬られ役か嫌われ者の役しか回わさねぇんだ」
「けどな――あいつ、本気で生きてんだよ」
ソファの肘掛けを叩き、親分は少し口角を上げた。
「まっ、嫉妬もするわな。どんな化粧道具や宝石も、ダークエルフにゃ敵いやしねぇ。
あの目立つ白髪と黒い肌――女どもがどんなに足掻いたって、敵わねぇんだ」
その言葉には、どこか「美」に対する皮肉と羨望が混じっていた。
「……けどな、見た目がどんなに強かろうと、心が一番折れやすいもんさ。
ま、あんたらが近づくなら――ちっとは気を遣ってやんな。
見かけじゃなく、根性の方を見てやれ。あいつ、そういうの一番欲しがってる顔してたぜ」
ふてぶてしくもどこか気遣いを残した親分の目に。
ガイウスは一瞬だけ「あぁ、ただの情報屋じゃないんだな」と思った。
親分はわざとらしく背もたれにのけぞり。
話は終わりだと言わんばかりにオペラグラスを磨きはじめる。
ガイウスとサタヌスは、静かに頭を下げてその場を後にした。
「……ありがとう、親分。助かった」
親分は貫禄たっぷりにソファへもたれかかる。
「行ってこい、若造ども。アルルカンは面白い奴がいないと、すぐ腐るからな」
ガイウスとサタヌスが親分との話を終え。
下水道の奥で一息ついていると、ちっこい子分ネズミたちが顔を出した。
「なあ、なんでこの街じゃ、ネズミや猫の方が人間より物知りなんだ?」
ガイウスが素直な疑問を投げると、サタヌスと子分ネズミが同時に笑う。
「人間どもは、収入の差だなんだで、三層に街を分けちまってるだろ?」
子分ネズミが自慢げに髭をピクつかせる。
「だからよ、上層の情報屋どもが知るネタなんてのは、せいぜい中層までなのさ。
上流の噂話も、スラムのゴミ箱も“自分の縄張り”から出てこない」
サタヌスが補足するように続ける。
「ネズミや猫は、壁も配管も屋根も下水も、好きなときにどこでも行ける。
昼はパン屋の裏、夜は大聖堂のパイプ、朝方は市場やスラムのゴミ山。
全部見て、全部聞いて、何でも覚えてる」
「俺がスラムで初めて友達になったのも、ネズミだったぜ」
サタヌスは天井裏を指差して言う。
「人間のルールも、差別も、コイツらには関係ねぇ。“街全部”を知ってるんだよ」
子分ネズミは誇らしげに胸を張る。
「人間がどんなに街を区切っても、俺たちには“壁”も“身分”も関係ねぇのさ」
ガイウスがふと気付くと、子分ネズミが小さな声で囁いてくる。
「この街の動物ってさ、マジでバカにできねぇんだぜ?」
サタヌスがニヤリと笑って補足する。
「アルルカンの動物はな、人間の“光と闇”を毎日全部見てんだ。
だからスラムのネズミも、上流の猫も、下手な人間より頭回るんだよ」
子分ネズミが胸を張り、ガイウスが目を丸くする。
「ルミエール(上層)の猫がさ、ノワール(下層)まで降りてくることもあるんだ」
サタヌスは妙に嬉しそうだ。
「“ご主人様はまたワタクシに似合っていない服を着せますの”とか。
“今日はキャビアじゃなく、煮干しを所望しますわ”とかな」
子分ネズミも苦笑い。
「どんなにお上品な猫でも、俺たちと一緒に配管ダッシュしてたりするもんさ」
アルルカンの動物たちは、人間の秘密も本音も、裏も表も全部知っている。
“街の本当の姿”を一番よく知ってるのは“獣たち”だった。
「人間どもは、“壁”の中しか見ない。俺たちは“壁”の裏も全部見てる」
「ホントにヤバい話は、壁の裏側で生まれるんだぜ?」
アルルカンの「本物の情報屋」として君臨してる理由が。
ガイウスにもジワジワと沁みてくるのだった。
親分の根城を出ると、下水道の闇がいつもより少しだけ明るく見えた。
ガイウスはまだ妙な気恥ずかしさが抜けずに肩をすくめる。
サタヌスは壁沿いに歩きながら、ふと昔を思い出すように口を開いた。
「俺もこのグルグル目が気味悪いヤツって言われてよ~。よくここに来たんだ」
天井のパイプに手をかけてひょいと飛び乗り、靴の先で小石を蹴る。
「最初の友達はネズミだぜ、ネズミ?こいつら、腹減ったときも、泣きそうな時もずっと側にいた」
ガイウスは半ば本気、半ば冗談のトーンで突っ込む。
「ネズミって喋るのか? 俺そっちがカルチャーショックなんだが」
サタヌスは口元をわずかにほころばせた。
「喋るぞ。お前もスラムで10年生きてみろ、猫やネズミと喋れるようになるぜ」
天井裏を抜けていく小さな影たち。
サタヌスは、幼い自分とネズミたちが戯れていた日々を思い出していた。
「親分だけじゃねぇ。下水には、隠れ家も秘密基地も、俺らの居場所がいっぱいある。
……他の街じゃ、誰にも相手にされなかったけどよ。
ここは、なんだかんだ、ちゃんと居場所くれるんだ」
ガイウスは静かにうなずいた。
見上げれば、遠い地上から漏れる微かな明かり。
その下で、ふたりは「次なる仲間」を探しに歩き始めた。