昼下がりのリプカ。
石段に座って水を飲みながら、ヴィヌスがふと思い出したように言った。
「蛇骨どもが言ってた “マスターアサシン” って、どういう人だと思う?」
ガイウスが剣の鞘で背中をポンと叩きながら言う。
「雌狐って言ってたろ? だったら女でアサシンだろ。
こう……谷間とか出した、妖艶な姉ちゃんだろ」
ヴィヌスが呆れた顔を向ける。
「どんなハードボイルドに毒されてんのよ。」
サタヌスはというと、やたら真剣な目つきで言った。
「いやいやいや。雌狐って言うくらいだろ?
ほんとにケモミミ生えてんじゃねぇの?
尻尾つきでさ、夜目が利いて、影みてぇに動く“獣人アサシン”──そういうの。」
ガイウスが笑いながら肩を揺らす。
「んなファンタジーみたいな……」
ヴィヌスが続ける。
「でも“雌狐”ってわざわざ言うくらいなら、相当の女傑よね。
絶世の美女か、妖艶な罠師か……とにかく油断したら殺られるタイプ。」
三人が三様に、華やかで妖しい女アサシン像を勝手に作り上げていく。
その横で、メルクリウスがローブの襟を直しながら小声で呟いた。
「……雌狐。“狡猾で執念深い技量の持ち主”という意味なら、わりと核心を突いてるけど……」
誰にも聞こえない声で、付け足すように。
「……でも実際は、そんな色気に振ったタイプじゃないと思うけどな」
「ん? なんか言ったか?」
サタヌスが聞き返すと、メルクリウスは首を振るだけだった。
誰ともなく沈黙が落ちた。
自然と次の話題は“本家エル家”になった。
風に紛れるような声で、メルクリウスが語り出した。
「……エル家が断絶した理由を知りたいのなら、避けて通れない歴史がある。」
サタヌスが眉を寄せる。
「初代聖女が殺されたってやつか?」
メルクリは頷く。
だが続く言葉は、いつになく冷たかった。
「初代シャルロッテは生涯独身だ。
彼女は“役目”を重すぎるほど真面目に背負い……子を残すことはなかった。」
その言い方が妙に優しいのは、彼女の孤独を知っているからだろうか。
ヴィヌスが腕を組む。
「でも、跡継ぎは他にもいたはずよね?
「いた。」
メルクリの声が一段落ちた。
「だが……“聖女殺し事件”のあと、エル家に属する者は次々と何者かに襲われた。
死因は様々だが……一部は“暗殺”と断定された記録がある。」
初代聖女が死に、その血族も根こそぎ消された。
“シャルロッテ・エル・ロスガルス”という名は襲名制になった。
もう“本家”は存在しない。
血ではなく、象徴として継ぐしかない。
シャルロッテ本人は、静かに目を伏せていた。
「わたくしの名は……初代様の遺志の名。
血筋の継承ではなく、“祈りの継承”なのです。」
その声は震えていなかった。
でも、風に溶け落ちそうな儚さがあった。
ヴィヌスがそっと肩を寄せる。
「エル家が残っていたら、あなたは“本名”を呼ばれるだけの、ただの女の子だったのかもね。」
シャルロッテは少しだけ笑った。
「……それでも、初代様の名を継げたことは誇りです。」
そしてメルクリが、どこか遠い目で締めくくる。
「だからこそ、“断絶したままの象徴”として残された。
そして──聖女の名だけが代々続く。
まるで、初代だけが永遠に生きているように。」
その姿は確かに“聖女”だったが、同時にただひとりの少女でもあった。
勇者ズはその背中を、静かに見つめていた。
シャルロッテは静かに胸元へ手を伸ばした。
白い指先が触れたのは、服の内側に大切に仕舞われていた小さな首飾りだった。
鎖を辿り、掌に収まったそれをそっと引き出す。
灯りを受けて淡く輝く青い石は、夜の湖のように澄み、内部にかすかな光を宿している。
不思議な透明感を持つその宝玉を、彼女は両手で包み込むように掲げた。
「エル家で残されたものは……これだけです。」
その声音は平静を装っているが、指先にわずかな力が籠もる。
ヴィヌスが目を細めて覗き込む。
シャルロッテの掌の上で、青い石が静かに揺れている。
夕刻の光が差し込む石畳の端。
屋台の屋根が影を落とすその日陰に、ヴィヌスはすっと一歩踏み込んだ。
「貸して」
有無を言わせない声音で首飾りを受け取り、鎖を指に巻きつける。
彼女はそれをひらりと揺らし、角度を変え、わざと影の濃い場所へ移した。
石は、日光を外れてもなお淡く青く輝いている。
ヴィヌスの目が細まる。
「……サファイア? いや、宝石じゃないわね、これ」
サタヌスが覗き込む。
「え? どういうことだよ。青いし、どう見ても宝石だろ」
ヴィヌスはさらに石を傾ける。
建物の影に完全に入れ、上から手のひらで覆ってみせる。
それでも、内側から灯るような光が消えない。
「宝石は反射で光るの。光源があって、それを跳ね返してるだけ。でもこれ——」
彼女はわざと日陰で揺らす。
石は、周囲が暗くなるほど、むしろ青白く芯を持って光った。
「日陰でも輝いてるでしょ。これ、石自体が光ってるわよ」
空気が一瞬、変わる。
サタヌスの目が丸くなった。
「す、すげぇ……! 俺、宝石スッたこと何度もあるけど、こんなの初めて見た」
「威張るな」
ヴィヌスは軽く肘で小突きながらも、視線は石から離さない。
表面は宝石のように研磨されているが、内部の光は屈折ではない。
呼吸するように、脈打つように、一定のリズムで淡く明滅している。
シャルロッテは胸元を押さえる。
「ルーメン・エル……歴代聖女が引き継ぐ至宝です」
ヴィヌスはゆっくりと返した。
「至宝、ね」
石は日陰でなお青く脈打っている。
ヴィヌスとサタヌスは顔を寄せ、呼吸すら合わせるように光を観察していた。
ヴィヌスの指先がわずかに角度を変える。
舞台の小道具を見抜く目だ。
光の入り方、屈折の筋、内包物の癖——彼女は“偽物の宝石”を何百と扱ってきた。
サタヌスは違う。
換金のために本物を見てきた目だ。
傷の入り方、重み、カットの精度、光の跳ね返り方。価値を測る視線。
だからこそ、二人同時に黙る。
その少し横で、ガイウスとメルクリウスが腕を組んで眺めていた。
「……すごいね君たち」
メルクリウスが感心したように言う。
「僕は、自慢ではないがルビーとエメラルドを間違えて呆れられたことがあるよ」
ガイウスが即座に振り向く。
「いや神官様それでいいのか」
「いいんだよ、僕の場合は」
聖職者のくせに宝石に価値を見いだしていない。
あるいは見ないようにしている男の顔だった。
「色が違うだろ普通……」
「うん。怒られた」
緊張の糸がわずかに緩む。
だが石は笑わない、青い光が静かに明滅する。
サタヌスが低く呟いた。
「まるでさ、この石……」
ヴィヌスが視線を動かさない。
「まるで、何かに使えっていうのを待ってるみたいだ」
光が、ほんの一瞬だけ強くなる。
ヴィヌスは小さく息を吐いた。
「ええ」
それは装飾品の輝きではない。
祈りの象徴の光でもない。
機能を持つものの、沈黙だった。
使われる時を待つ、静かな意志のような光だった。
「初代聖女様と、勇者の友情を表すものだと……祭司長が。」
その言葉に、メルクリウスの動きが止まった。
「え?」
かすかな驚きが、抑えた声の奥に滲む。
彼は青い石からシャルロッテへ視線を移し、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「妙ではありませんか、聖女様」
「なぜ初代聖女を殺した“勇者”との友情の象徴が、教皇庁にあるのです?」
向こうで屋台の鉄板がジューッと音を立て、ソーセージを焼く匂いが風に乗って漂ってくる。
そのありふれた生活音だけが、数秒の沈黙を埋めた。
シャルロッテは青い石を見つめたまま、まばたきも忘れたように立ち尽くす。
これまで疑ったことのない物語、教えられた通りに受け入れてきた歴史。
その継ぎ目に、初めて亀裂が走る。
「……たしかに。」
やがて、かすかな息とともに言葉が零れた。
「何故、でしょうね?」
問いは誰に向けたものでもない。
自分自身へ、あるいは遠い過去へ投げられたものだった。
焼け落ちた血統の残滓のように、この石だけが今もここにある。
置物だった少女は、その瞬間、はじめて国の真実に触れた。