アンスロポス連合編-星の家 - 1/5

「ああ……」
シャルロッテはこれまでと違う意味合いで絶望していた。
目の前のカレンダーには教皇庁へ戻れという約束の日が書かれている。
あれよあれよと乗せられるうちにリプカで1日過ごしてしまった。
今からニア・アンスロポスへ戻るにはどんな早馬でも間に合わない。
「どうしよう……ニア・アンスロポスから迎えが来るのかしら?」
きっとエリスに怒られる。
彼女は普段から決して声を荒げず物静かだ、それは怒っているときも。
怒ると決まって自分を正座させ具体的に何がいけないか淡々と、そして正論で説いてくるのだ。
口答えも、言い訳も許さない絶対の怒り。
シャルロッテはあの時間がとても苦手だ。

「はぁ……どうすればいいのでしょう……」
シャルロッテはため息をつくと、顔を洗い服を着替えてベッドに腰掛ける。
もう今日は何もしたくない、このまま眠ってしまおうか。
-そんな時だ、部屋の扉がノックされたのは。
「聖女様、ニア・アンスロポスへ行くぞ。荷物纏めたか?」
「勇者様?」
「ガイウスでいいぜ」
「……ガイウス様。距離はご存じでしょう、ニア・アンスロポスは馬で3日はかかります」
それはこの場にいる筈のない者だった、彼-ガイウスは普段の軽薄さを潜めている。
まるで義務感に駆られたかのようにシャルロッテを急かしている。
-不思議な人だ、だけどヴィヌスやメルクリウスにはない魅力を感じる。
しかし教皇庁に戻らなければいけないのだ、本当に困ったことになった。

「だから俺たちがアンタを連れてくんだよ、乗れ」
「はい?」
「ほれ。乗れ、おぶってく」
「え?」
-おぶって。
その言葉に疑問符を浮かべているうちに、ガイウスはシャルロッテの身体をひょいと持ち上げ背に乗せる。
そして彼はそのまま、部屋を出て階段を下り始める。
成人男性に背負われるというのは初めてで、シャルロッテは目を白黒させる。
「あの……重くないですか?」
「軽い」
「でも……」
「いいから黙ってろ、舌噛むぞ」
「……はい」
有無を言わさぬ物言いに。
シャルロッテは振り落とされないようガイウスの肩を掴む。
メルクリウスが本当に教皇庁へ間に合うのか?というようにメガネを直していた。

「俄かに信じがたいな、3日かかる道を半日で戻るなんて。勇者ってそんなに足が速いのかい?」
「何言ってんだお前も勇者だろ?覚醒してないだけだ」
「……まだ言ってる。大体僕も行くんだよ?僕は誰が運……うおおお!?」
「私よ。あんた男だけど軽いわね」
「や、やめろー!!逆セクハラだぞ!」
ヴィヌスがメルクリウスを抱え、女が男を横抱きにする-逆お姫様だっこ状態となった。
まさかこの状態で教皇庁まで突っ切るのか?恥ずかしいやら情けないやらで顔を覆うが。
却ってそのせいでますます乙女な反応になってしまった。

「大丈夫だよ、誰も速過ぎて目で追えやしないんだから」
「僕が恥ずかしいんだよ!女の子に抱っこされるなんて男として失格だ!」
「はいはい。出発進行~」
羞恥から顔を覆い隠すメルクリウスを横目に、2人とサタヌスは走り出す。
瞬間-風となった、比喩でなく本当にだ。
馬より遥かに速い、しかもただ速いだけではなく障害物を軽々と飛び越えていく。

「……あぁ、リプカが……あんなに遠く……」
メルクリウスは、ヴィヌスにお姫様抱っこされながら現実逃避中。
赤面しつつ、視線は虚空へ。
「神官様~♡ ほらほら、お姫様抱っこよ~? 浪漫でしょ~?」
ヴィヌスが楽しそうに揺らすたびに、メルクリの体が軽く跳ねる。
「男にするもんじゃないだろおおおおお!!」
叫びが空に吸い込まれ、風に流されていく。
その横を、アラレちゃん走りのサタヌスが。
「オラオラオラァ!!!」と叫びながらぶち抜いていった。

道なき道を切り裂き、草原を駆け抜け、川沿いの古びた木橋に差し掛かった瞬間。
ガイウスが一瞬だけ足を止めた。
「ん?」
木橋の一部が崩れかけ、腐った木材がむき出しになっている。
その隙間から覗く濁流が、ガイウスの靴先に冷たい風を送り込む。
「これ、ヤベェな……」
ガイウスが短く呟き、シャルロッテを背負ったまま判断を下す。
「……飛ぶぞ!」
「えっ!? 飛ぶって、どういう……」

その言葉が終わる前に、ガイウスは勇者らしく力強く蹴り出し。
木橋の半ばから一気に跳躍した。
「きゃーっ!!? 勇者様!!振り落とされますううう!!」
宙を舞うガイウスと、背中に張り付いたシャルロッテ。
空中で猫のように1回転し、まるで磁石のように背中にくっついたままの聖女様。

「え……私、落ちてない?」
ガイウスが着地すると、シャルロッテはキョトンとした表情で背中から離れた。
その様子を見て、ガイウスが軽く靴を鳴らす。
「猫は必ず足から着地できるって言うだろ?」
「それとこれは別ですぅ!!」
パニックのままガイウスの背中を叩くシャルロッテ。
「痛ってぇな、ちゃんとくっついてたろ?」
「くっついてた……んですけど……そういう問題では……」
シャルロッテが顔を赤らめながら、自分がまるで。
ガイウスの背中に吸い付いていたことに混乱している。

後方では、サタヌスが橋の状態を見て眉をひそめる。
「おいおい、こんなオンボロで渡れんのかよ?」
ヴィヌスがひらひらと手を振りながら。
「渡る必要ないでしょ?飛べばいいのよ。」
「マジかよ……ま、やってやるか!」
サタヌスが助走をつけて、猛スピードで駆け抜けた。
崩れかけた橋を一気に蹴り飛ばし、そのまま宙を舞い、ガイウスと同じく華麗に着地。
「やったぜ!おら見ろ、完璧だろ!」

一方、ヴィヌスはメルクリウスを抱えたまま、軽々と橋の支柱を蹴り上げ。
空中で回転しながら着地。
「ね、簡単でしょ?」
「……重力を無視しすぎだろ……」
メルクリウスがため息をつきながら愚痴をこぼす。
ガイウスがふと笑いながら振り返った。
「やっぱり、あの橋使えねぇな。」
シャルロッテがまだ動揺しながらも、小声で尋ねる。
「勇者様、さっきの……どうして落ちなかったんですか?」
「ん? 俺、猫だから。」
「猫……?」
「猫は、必ず足から着地できるって言うだろ?」
ガイウスがニッと笑う。

「だから、俺も猫だ。勇者猫だ。」
「……理屈が……」
シャルロッテは完全に納得できていないが。
あまりにも堂々と断言されてしまい、反論できない。

ヴィヌスがくすくす笑いながら肩をすくめた。
「そういうところが勇者らしいのよ。
何事も勢いと気合で解決する感じがね。」
「うっせぇな!こちとら、スピード勝負なんだよ!」
ガイウスがむきになって言い返すが、シャルロッテが小さくつぶやく。
「でも……確かに落ちなかった……背中に吸い付くように……」
「な、なんか……すごいですね……勇者様って……」
その無垢な感想に、ガイウスが少し照れくさそうに鼻をこする。
「まぁ、何とかなってよかったじゃねぇか。」

「よし、次のポイントまで一気に駆け抜けるぞ!」
ガイウスが再びシャルロッテを背負い、勇者超特急が再発進。
ヴィヌスが「仕方ないわね」と言いながら、再びメルクリウスを抱き上げた。
「またお姫様抱っこか!?」
「だって、あなたの足じゃ追いつけないでしょ?」
「うぐ……言い返せない……!」
メルクリウスが観念し、ヴィヌスの胸に顔を埋めたまま抵抗をやめる。
サタヌスが勢いよく駆け出し「オラァ!暴走モードだぜ!」と叫びながら。
勇者たちの爆走劇は続くのだった。
「きゃああああああああああ!!」

いきなりだが、韋駄天という神がある。
仏舎利――釈迦の遺骨を奪い去った夜叉を追い。
ただ走り、ただ追い、ただ奪い返したと伝えられる守護神。
その距離、実に1280万キロメートル。
人の理解を拒む数値だが、神話において距離とは意思の強度を意味する。
速さは祈りよりも雄弁だ。
迷いなき脚は、信仰そのものだ。

疾走とは、選択である。
止まらぬという覚悟の形である。
石畳が砕け、風が爆ぜ、赤髪の青年が前だけを見る。
この国は奇跡を信じる。
だが奇跡とは今、聖女を背負って石畳を削っている青年のことかもしれない。

オン・イダテイタ・モコテイタ ソワカ。

-聖都 ニア・アンスロポス。
街が見えてきた瞬間、ガイウスはぴたりと速度を緩め-なかった。
「きゃあああ!?止まらない!?止まる気配がないですわぁぁ!!」
シャルロッテの悲鳴と、地面を削るような音が響く。
前傾姿勢のまま、ガイウスは石畳を電車のように滑っていた。

後方では、サタヌスが地面に片足を突っ込んで強引に減速。
そのさらに後ろでは、ヴィヌスが軽やかに着地。
「ニア・アンスロポス駅、到着~~!」
ヴィヌスがわざとらしく手を広げてアナウンス風に言うと。
腕の中のメルクリウスは死んだ魚のような目をしていた。
「……」
「お降りの際はお荷物のお取り忘れにご注意くださ~い!」
「……僕の尊厳が落ちたよ。」
ヴィヌスはニッコリ微笑んだ。

「大丈夫、ちゃんと私が拾っといてあげるわ」
石畳を滑るように止まったその瞬間。
シャルロッテは背筋を伸ばし、スカートの裾をサッと直した。
風に揺れる法衣、揃えられた足。
すっと前を見据えて、凛とした声で言い放つ。

「聖教第15代聖女、シャルロッテ・エル・ロスガルス――帰還致しました!」
神殿前に待機していた神官たちが、一斉にその場にひれ伏す。
だが、その中の数人が小声でざわめき始めた。

「……馬で三日かかる距離を……半日で……?」
「えっ、いや、でも今……一瞬だったよね?」
「聖女様は、移動の速さも……奇跡的なんですね……」
「さすが……!神に愛されし存在……!」
感動と困惑と畏怖が入り混じる空気の中。
シャルロッテは完全に“いつもの表情”を取り戻していた。
その背後で、ボロボロになったメルクリウスが立ち上がりながらボソッと呟く。
「……僕の尊厳、やっぱり拾われてなかったな……」