食卓に落ちた沈黙が、あまりにも長かった。
誰も次の言葉を選べない。選んだ瞬間に、何かが決定的に壊れそうだった。
その重さに最初に耐えられなくなったのは、案の定サタヌスだった。
「……なぁ、もうやめね? この“全員ちょっと傷ついてます”みたいな空気」
ヴィヌスがじろりと睨む。
ガイウスは額を押さえる。
メルクリウスは何も言わない。
プルトだけが、黄金の林檎を指先でくるりと回した。
「傷ついているなら、少し休めばいいでしょう」
「そういう正論が一番空気冷えんだよ」
サタヌスは椅子を引いて立ち上がる。
そのまま苛立ち紛れに壁へ寄りかかった。
鈍い音がした。
全員の視線が集まる。
「……え?」
サタヌスの肘の下で、壁の一部が沈んでいた。
いや、壁ではなかった。石の継ぎ目がずれ、隠されていた円形の刻印が覗く。
メルクリウスが青ざめる。
「それ、たぶん押しちゃいけないやつ」
言い終わるより早く、床が傾いた。
「うおっ!?」
「ちょっと待っ、最悪!!」
「サータ!!」
「俺のせいじゃねぇだろこれぇぇ!?」
机ごと皿が滑り、椅子が鳴り、勇者ズはまとめて暗い穴へ呑まれる。
最後に見えたのは、縁に立ったまま微動だにしないプルトの姿だった。
彼女は見下ろし、小さく息を吐く。
「……普通、そこは触らないんですけど」
落ちながらサタヌスが叫ぶ。
「だったら最初に言えぇぇぇ!!」
次の瞬間、四人は地下の冷たい石床に叩きつけられる。
埃が舞う。薬品の匂いが鼻を刺す。
壁一面に並ぶガラス管、解体器具。
そして中央に鎮座する、あまりにも巨大な培養カプセル。
さっきまでのギャグみたいな落下が、着地した瞬間に全部死ぬ。
メルクリウスが、最初に声を失った。
「……ここは……」
頭上から、遅れてプルトの声が降ってくる。
「聖痕研究室です。見られたくなかったんですが」
笑えない。
むしろ、たぶん今この島で一番笑えない場所だった。
落下の衝撃が、骨の奥まで響いていた。
息を吐くと、空気が重い。肺に入るそれは空気というより、湿った金属の粉のようだった。
鼻腔の奥が焼ける。血の匂いに似ているが、もっと乾いている。
光は、赤かった。
人工照明のはずなのに、どこか脈打っているように見える。
規則正しいはずの明滅が、微妙にずれている。呼吸の合わない心臓のように。
通路の奥に、巨大なカプセルが鎮座している。
円筒状の厚いガラス、内部は液体で満たされ、“人だったもの”がいる。
形は、まだ人の輪郭を残している。
だが比率が狂っている。
伸びすぎている、膨らみすぎている、何かが内側から押し広げている。
皮膚の下で、別の生き物が蠢いているようだった。
目の位置が微妙にずれ、口は裂けている。
それでも生きている。
周囲には、道具が散乱している。
それらはどれも、医療とも拷問ともつかない形状をしていた。
床に散らばる紙には、書き殴られた文字が重なっている。
“聖痕解析” “マナ流入量異常” “神性反応位置不明”
理論と、焦燥と、執着が混ざった痕跡。
カプセルの中のそれが、ゆっくりと動く。
「……こっち……光が……熱い……」
意味は繋がっていない。
だが、言葉だ。
確かに、“言葉だったもの”。
ヴィヌスが、わずかに顔をしかめる。
それから、静かに視線を逸らし、背を向ける。
「この島の“答え”って、やっぱり……」
そこまで言って、止める。
言葉にすれば、決定してしまう。
「これ……まさか、勇者のなれの果てなのかよ」
誰も否定しない。
サタヌスが、吐き捨てるように言う。
「……こんなモン見せられて、何を思えってんだよ」
カプセルの中の異形が、再び動く。
「名前……名前を……」
その声がひどく近い、耳元で囁かれているように感じる。
プルトがカプセルの前に立ち、ガラス越しにじっと観察する。
目は揺れない、感情もない、ただ“見ている”。
「神を解体すれば」
静かに言う。
「どこに神性が宿るかわかると思ったのです」
誰に向けた言葉でもない。
独白に近い。
「“母”には聖痕があった。それ以外、私にはわからない」
その言葉の中に、空白がある。
知識の空白、記憶の空白、埋められなかったもの。
だから埋めようとした。
カプセルの中の目が一瞬だけ“人間だった頃の色”を取り戻す。
プルトが、静かに結論を告げる。
「“母”の死後、残されたのはこの聖痕だけ」
声は、変わらない。
「だから私は、神も勇者も、解体して確かめるしかなかったのです」
正しいかどうかではない、それしか手段がなかった。
カプセルの中の存在が、再びこちらを見る。
もう焦点は合っていない。
目だけが、過去に取り残されている。
手は届かない、誰にも。もう、届かない。
地下の赤い光が、カプセルの縁で鈍く脈打っている。
器具は洗われ、整然と並び、血の匂いだけが薄く残る。
誰も、善悪の話をしない。
今はそこではない。
プルトはガラス越しに異形を見つめたまま、淡々と言う。
「これまで何百人も、ときに残り五人が生け捕りにした勇者を“解体”してきた」
声は平坦。誇りも、後悔もない。
ただ事実の提示。
メルクリウスが、眼鏡の位置をわずかに直す。
視線は逸らさない。
「……わかったかい?」
非難はない、祈りもない。本題はそこだ。
プルトは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
それから、静かに首を振る。
「わからない」
呼吸ひとつ分の間。
「神は、何処からが神なのか」
聖痕か?血か?魂か?意思か?
切り分けても、境界は出てこない。
「肉を開けば、肉がある」
「骨を削れば、骨がある」
「だが“神性”は、どこにもない」
赤い光が、また脈打つ。
「あるいは最初から、どこにもなかったのかもしれません」
それは敗北宣言に近い、だが声は揺れない。
理解するために壊した。
壊しても、理解は来なかった。
地下に残ったのは、答えではなく、境界の不在だけだった。
プルトは、カプセルから視線を外さないまま言った。
「副作用として生まれたのが“邪痕”です」
声は、あまりにも平坦だった。
「私は聖痕の研究さえできればよかったので」
わずかに指先が動く。
ガラスに触れるでもなく、距離を測るように空間をなぞる。
「聖痕もどきをどう使うかは、ユピテルたちに任せました」
“聖痕もどき”。という言い方が、妙に軽い。
だがその軽さが、逆に残酷だった。
サタヌスの脳裏に、デクシアとアリスの顔がよぎる。
あの時、誇らしげに見せてきた刻印。
勇者の証に似せて作られた、偽物。
力は本物だが代償に、命を削る。
刻まれた時点で、終わりへ向かう印。
そして、魔王軍への逃げ場のない忠誠を誓わせる呪印。
それを、価値がないもののように言い捨てる。
プルトにとっては、本当にそうなのだ。
それらは結果でしかない、過程の副産物であって目的ではなかった。
「私はただ」
その言葉だけが、ほんのわずかに温度を持つ。
「“あのパンダ”を潰したいんですよ」
唐突な単語は場の空気と、あまりにも噛み合わない。
だが誰も、笑えなかった。
その一言の奥に、何かがあると直感したからだ。
時間が、引き戻される。
──スキア家の書斎。
夜、外は雪。
暖炉の火だけが、ゆらゆらと壁に影を映す。
エレボスは書類を閉じ、幼いプルトを膝に乗せる。
壁の魔導スクリーンが、淡く光る。
映し出されるのは、異国の映像だ。
白と黒の生き物がゆっくりと動いて、人々に囲まれ、笑われ、愛でられている。
「パンダ外交というものだ、プルトよ。目にしておけ」
ロリトは静かに頷き、小さな手で父の袖を掴む。
逃げないように、離れないように、ただ映像を見る。
「愛らしいだろう」
暖炉の火が揺れる、光がエレボスの顔の影を歪める。
「だがそれだけだ」
声が、わずかに冷える。
「パンダは何も語らぬ。何も決めぬ」
映像の中のそれは、ただ座っている。
「その“無害さ”を欲しがる者が、世界には多い」
理解できないが、言葉は残る。
音として、温度として。
「自分は無害だと見せたいとき……」
「これほど都合のいい“ガワ”は他にない」
火が、小さく弾ける。
「国も、人も、組織も——」
「“愛らしさ”に本質を押し付けられるのを嫌がらない者は多いのだ」
イメージだけが、焼き付く。
“愛らしいものは、利用されるもの”。
言葉ではなく、概念として彼女の中に沈んだ。
それ以来、パンダは動物ではなく。世界の欺瞞の象徴になった。
──現在。
ヴィヌスが、眉をひそめる。
「……パンダって、あの白黒のモフモフの話よね?」
わずかに呆れが混じる。
「どこで覚えてきたのよ、そんな例え」
プルトは、迷いなく答える。
「父上が言いました」
視線は、カプセルのまま。
「“愛らしさは、無力と沈黙の仮面だ”って」
ガイウスが、思わず言う。
「……それ、子どもに教える内容じゃねぇよ」
プルトは、わずかに首を傾ける。
否定ではない、確認でもない、ただ考える仕草。
「でも正しかった」
その一言で、すべてを切り捨てる。
「聖女は何も語らず、何も決めず、ただ飾られるだけの“ガワ”」
その言葉には、疑いがない。
ずっとそうだと信じてきた。
疑う理由もなかった。
「……ずっと、そう思っている」
誰も、すぐには言い返せない。
ヴィヌスは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
サタヌスは、舌打ちしかけてやめる。
メルクリウスは、言葉を選んでいる。
ガイウスは——ただ、見ている。
その前提が、もう崩れていることを。
それでも、彼女は知らない。
知らないまま、ここまで来てしまった。
その事実だけが、この空間のどんな異形よりも、静かに恐ろしかった。