アンスロポス連合編-死者の王国 - 2/3

階段は長かった。
地下から続く石段は、湿り気を帯び、踏みしめるたびにかすかな反響を返す。
だがその音さえ、どこか遠くに吸い込まれていく。
上へ向かっているはずなのに、圧迫感はむしろ増していた。
五人は、自然と一列になっていた。

先頭にプルト。
その後ろに、サタヌス、ガイウス、ヴィヌス、メルクリウス。
誰も追い越さない、誰も並ばない。

「私は、聖女を屈伏させたかった」
背中越しの声が、階段の空気に落ちる。
振り返らない、歩調も変わらない、それは告白ではなかった。
ただ、処理済みの案件を報告するような声音。
「聖教を、内側から乗っ取るためにね」
ガイウスの足が、一瞬だけ鈍る。

「……正気か?」
低い、押し殺した怒り。
「そんなことのために、あのガキどもを?」
プルトはわずかに首を傾げる、振り返らないまま。
「誤解しないで。私は“使った”わけじゃない」
階段を上る足音だけが続く。
誰も、続きを急かさない。
急かしたところで、意味がないと分かっている。

「私は完全に心が折れた者を、操ることが出来る」
空気が、凍る。
温度が下がったわけではない。
だが、呼吸が浅くなる。
見えない氷が、喉に張り付くような感覚。
「……あの子たちが、上手く聖女を殺せなかった時」
淡々と、順序を確認するように。

「そのための“保険”が、私」
サタヌスが、一歩踏み出す。
段差を無視するような、強引な動き。
「保険って……」
歯が鳴るのを抑える。
怒りか、寒気か、自分でも分からない。
「お前、それでも教祖か?」
問いは鋭い、だが刺さる場所がない。
プルトは、否定しなかった。
立ち止まらな、歩みを止めない。

「それが、やれている」
事実だけを置く。
評価も弁明もない、ただの結果。
「私は、あの子たちを愛していた」
その一言が、ほんの一瞬だけ形を変える。
柔らかく聞こえる、人間らしく、救いのように……だが。

「駒として」
すべてが、反転する。
その言葉には、躊躇がなかった。
言い換えも誤魔化しもない、ただ正確な定義。
その沈黙の中で、全員が理解してしまう。

この理屈は、成立している。
彼女の中では、完結している。
だからこそ崩せない、怒りで覆せるものではない。
感情で揺らぐものではない。

誰も口に出さないまま、同じ結論に辿り着く。
この人は怒らない、泣かない、叫ばない、必要がないからだ。
愛を語りながら、人を道具として扱う。
そこに矛盾はない、なぜなら最初から同じ地平にないからだ。

屋外に出ても、空は変わらなかった。
彼岸花の海がどこまでも続く、赤だけがやけに鮮やかだった。
「……“聖女”って言葉、嫌いです」
視線は何も映さないガラス玉。
声だけが、異様なほど落ち着いて響く。

「都合よく持ち上げられ、都合よく沈められる飾り物」
「救いの象徴なんて、“作れる”ものだって——子供の時から知っていました」
「だから、潰す」
「聖教を、母を救わなかった偽りの神を——私は全部、潰す」
ガイウスが歯噛みする。
サタヌスが苛立って拳を鳴らす。
でも、プルトは勇者ズの顔を真っ正面から見る。

「……ピンと来ないの?こんなに分かりやすく説明してるのに」
口元に、嘲りが浮かぶ。
「やっぱり勇者って、力だけ強い“バカ”なんだね〜」
ガイウスが怒りを露わに、「何やるつもりだ!?」と声を荒げる。
「おい、メルクリもなんか言えよ!メルクリ?」
けれどメルクリウスだけが、静かに立ち尽くしている。
頬は青ざめ、拳が僅かに震えている。

その沈黙が、“信仰の死”の恐ろしさを、勇者ズ全員に伝えていた。
一番“恐ろしいもの”を、唯一分かってしまった現役神官——メルクリウス。
その顔だけが、この場で最も重い答えになっていた。
ガイウス、サタヌス、ヴィヌス。
誰も軽口を叩かない。メルクリウスの顔色が、明確に“青い”からだ。

「君たちは、人の強さを買い被る傾向がある」
一瞬、ガイウスが眉を動かす。
否定はしないが、納得もしていない顔。
「それは美点だ。希望を信じる態度だからね」
「でも同時に、致命的な欠点でもある」
立ち止まる。
ステンドグラスの影が床に落ちる。天使の翼が、踏まれて歪む。

「君たち、勘違いしている」
声は穏やかで怒りも諦めもない、ただ事実を並べる時の口調。
「“無宗教”って言葉を、軽く扱いすぎだ」
ガイウスが眉を動かす。
サタヌスは鼻で息を吐きかけて、やめる。
ヴィヌスは黙ったまま、視線だけで続きを促す。
メルクリウスは一拍置く。
それは言葉を選ぶ沈黙ではなく、相手の想像が勝手に走るのを待つ沈黙だった。

「君たちが思っている“無宗教”は、たぶん」
彼は視線を落とし、地面の彼岸花を一輪、靴先で避ける。
だが、避けるという行為そのものが、ここでは祈りに近い。
「“信じなくても普通に暮らせる”って感覚だろう」
ガイウスが口を開きかける、だが言葉は出ない。否定できないからだ。
「でも、本当の無宗教は違う」
声が低くなる、冷たくなるのではない。
“正確”になる。

「縋る場所がない。祈る言葉がない。弔う形式がない」
彼はひとつずつ、ゆっくり並べる。
それは説明ではなく、解体だった。
三人の中にある「なんとなく平気そう」という幻想を、分解していく。

「君たちが軽く言う“無宗教”は」
「僕が想像する“無宗教”とは、たぶん別物だ」
言葉は柔らかい、だが内容は骨が折れるほど硬い。
「自由じゃない剥き出しの現実だ」
沈黙が落ちる。
罠よりも怖い、“答えが出てしまった”沈黙だ。

サタヌスが、ようやく低く呟く。
「……つまり、祈りってのは」
「弱さのための道具だよ」
そして、目の端だけでプルトを見る。
プルトは笑っていない、どこか満足そうでもある。
メルクリウスは続けた。

「だから彼女がやろうとしているのは、宗教の否定じゃない」
「弱い人間の“手すり”を、世界中から引っこ抜くことだ」
言い切った瞬間、空気がまた一段沈む。
誰も言い返せない。
メルクリウスは指先で冷たい汗をぬぐいながら、静かに語り始める。

「誰かが死んだ時、人は…聖教式の葬儀で送り出す。
“安らかに”と祈って、決まった手順で土に還すよね?」
一拍置いて、ガイウスの目を見る。
「聖教が消えたら、その死体は……誰が葬送すると思う…?」
「……!」
ガイウスの息が止まる。
想像してしまったからだ。
「ただの肉塊として、そこに放置される」
「“どう弔えばいいのか”“祈るべき言葉は何か”——全部、わからなくなる」
サタヌスが、唾を呑む。
その音だけが、妙に大きく響く。

「宗教が消えるというのは“天国がなくなる”という話じゃない」
風が吹き、赤い花が揺れる。
「“死者に意味を与える方法”が……この世界から、全部消えるということだ」
その言葉が、地面に落ちる。

プルトは何も言わない、ただ聞いている。
その表情は、変わらない。
だが目の奥でほんのわずかに、何かが揺れた。
メルクリウスは、薄く微笑んだ。
形だけの笑みだった。
唇は柔らかく弧を描いているのに、目だけがまったく動かない。
光を反射しない硝子のように、ただそこにあるだけの瞳。

「……聖教が消えた後に起きることは、秩序の崩壊じゃない」
ガイウスが、息を詰める。
予想していた答えと違ったからだ。
もっと単純な破綻を想像していた。暴動、略奪、統治の崩壊。
だが、メルクリウスは首を振る。

「葬送の消失だ」
彼は足元に視線を落とす、地面に落ちた彼岸花。
赤い花弁が、靴先に触れかける。
「弔いが行われない死は、冥界に届かない」
声は淡々としている。
だが、言っていることは、あまりにも重い。

「祈られない魂は“行き先”を失う」
風は冷たくはない、それでも肌が粟立つ。
「結果、死者は“死ねない”」
目に見えない何かが、肩に乗る。

「未練、恐怖、怒り、後悔が“人格を保ったまま”世界に残留する」
サタヌスが、思わず口を開く。
「……待て。それって」
言い切る前に、理解してしまう。
メルクリウスは目を伏せる、肯定するように。

「“連続殺人鬼”“戦災孤児”“見捨てられた病死者”……」
言葉の並びが生々しい、何れも現実の延長線だった。
「個体ではなく、“現象”として固定化した怨霊が、各地で発生する」
誰も、口を挟めない。
それはもう、想像の範囲を越えている。

「君たちが想像している“幽霊”とは違う」
「止めても、殺しても、意味がない」
「それは人類が生み出した未処理の死だから」
背後から軽い拍手がした。
場違いなほど軽やかで、だからこそ異様。
その先でプルトが、笑っている。
「正解〜」
楽しそうに、本当に嬉しそうに。
その反応が、何よりも恐ろしい。

「だからね、勇者さん」
頬杖をついて首を、わずかに傾ける。
「聖教を消すっていうのは、死を回収不能にするってこと」
ガイウスの喉が、詰まる。
「……!」
「世界中で、行き場を失った死が溢れる」
淡々と、盤面を説明するように。

「怨霊は増える。概念は濃くなる。止められない」
赤い瞳が細くなる、獲物を見つけた獣ではない。
完成図を見ている設計者の目。
「そして私は冥王ですから」
静かな宣言、ただの役割確認。

「冥界に行けなかった魂は、誰に従うと思います?」
問いかける。
だが、答えは最初から決まっている。
「祈りを捨てられ、裁きを失い、救済もない」
彼女の視線は遠くを見ている。
この場ではない、もっと広い全体だ。
「“受け入れてくれる場所”に、集まるに決まってるじゃないですか」
「プルト……君は……」
メルクリウスの声が震える、理解してしまったからだ。
その先を。

「うん。聖教を潰すのは、準備運動」
プルトは指を組んで笑う、年相応の少女のように。
「その後に生まれる“死に損ねた概念”たち」
期待を含んだ間。
「全部、私の軍勢です」
沈黙が重い、逃げ場がない。

これは神殺しではない。
もっと根本的なものだ、冥界という“仕組み”を壊し。
死そのものを兵器に変えるのが目的。
「それが六将最弱と言われ続けた私の、逆襲」
その言葉は、静かだった。

ヴィヌスが、ゆっくりと息を吐いて髪をかき上げる。
視線を横に流し、プルトを見る。
「——あぁ。そういうことねッ…舞台でも観てきたわ」
皮肉だが、完全な否定ではない。
理解してしまった側の声音だ。
「いじめられっ子の復讐って、下手な悪魔よりえげつないのよね」
軽く言うが、その奥にわずかな震えがある。

「誰にも愛されなかった子供が、“見返してやる”って願った瞬間」
言葉が、ゆっくりと重くなる。
「その痛みが世界を壊すエネルギーに転じるなら」
視線を外さない。
「“悪意”よりも“哀しみ”のほうが、よほど始末が悪い」
風が止む、一瞬だけ。

「“正義”も“情け”も要らないもの」
ヴィヌスは小さく笑う、乾いた笑みだった。
かつての自分も抱いた感情を思い出すように、見上げる。
「“私を見下した世界そのもの”が、復讐の相手なんだから」
プルトは、それを聞いていた。
満足そうに、王のように、ゆっくりと横目でヴィヌスを見る。
「“見返してやる”——それだけで、世界は壊せますよ」
その言葉はあまりにも軽く、あまりにも現実的だった。
「いじめっこって、自分がやられる側にならないと分かりませんから」

祈りを抜かれた世界、弔いを失った社会。
死者の行き場が消えた国。
それが“死者の王国”。

無宗教は、君たちの想像する「信じない自由」ではない。
祈りを失った死が、地上に残り続ける世界のことだ。