「私はマスターアサシン」
「この島で、この私に手を出せばどうなるか知っていますね」
言うが早く、空気が変わった。
どこに潜んでいたのか、あらゆる空間からアサシンが現れる
「ッ…やっぱり!」
「これがお前の答えか!?」
「答え?」
プルトは笑った、いや嗤った。
口を左右非対称に吊り上げ、目を眇め心底見下すように。
「私は最初から答えを出していた、お前たちが動くのを待っていただけ」
「彼岸に散れ!」
カスル・アル=アラムートは夜でも白かった。
月光を吸い込み、石壁が鈍く光る。
だがその白さの裏で、刃が走る音は途切れない。
屋根の上、回廊の影、階段の踊り場。
プルトの率いるアサシンたちが、音もなく襲いかかり、音もなく消える。
ガイウスの剣が火花を散らし、サタヌスが壁を蹴って着地する。
ヴィヌスの光が一瞬だけ回廊を昼に変え、また闇が戻る。
「退くぞ、右だ!」
メルクリウスの指示に従い、彼らは石造りの塔へ滑り込んだ。
偶然。あるいは誘導。
誰も確信を持てないまま、重い扉が閉じる。
中は静かだった。
戦場の外にあるはずのない静寂。
紙の匂い、古い革の匂い、壁一面に文字が刻まれている。
ガイウスが顔をしかめる。
「うへぇ……メキア文字がビッシリ、何度見ても頭いてぇ」
細く、鋭く、流れるような曲線。
紙にも壁にも、天井にも。
祈祷文のようでいて、どこか整いすぎている。
サタヌスが目を逸らした。
「……俺が読む流れ??宗教屋のノートとか読みたくないんだけど」
ヴィヌスが肩で息をしながら言う。
「頼むわ。アサシンどもが見失ってる今が読めるチャンスよ」
外では刃が一瞬触れ合い、すぐに遠ざかる。
時間は薄氷。
サタヌスが壁に触れる。
指先でなぞると、文字が微かに光る。
魔力に反応して、保存された音が空間へ溶け出す。
壁に刻まれたメキア文字を前に、サタヌスは舌打ちした。
だが視線は逸らさない。
「……方言混じりだな。古典寄り、面倒くせぇ」
指でなぞり、喉の奥で空気を震わせる。
サタヌスは、異界言語の再現ができる。
一度見た文字列を、発音記号のように分解し、声にできる。
低く、正確に。
بِسْمِ الْقَدِيرِ الَّذِي لَا تُدْرِكُهُ الْأَبْصَارُ وَلَا تُحِيطُ بِهِ الْأَفْكَارُ
أَمَّا بَعْدُ، فَإِنِّي مَا جِئْتُ لِأُفْسِدَ، وَلَا لِأَنْقُضَ، بَلْ لِأَنْظُرَ وَأَعْتَبِرَ
視線にも捉えられず、思惟にも囲われぬ全能者の名において。
さて——我は破壊のために来たのではない。崩すためでもない。
ただ観、そして省みんがために来た。
فَلَمَّا رَأَيْتُ قَوْمًا يَرْفَعُونَ فَتَاةً إِلٰى مَقَامِ السَّمَاءِ
تَعَجَّبْتُ، لَا سُخْرِيَةً بَلْ إِعْجَابًا بِجُرْأَتِهِمْ
されど一人の少女を天に掲げる民を見て、我は驚いた。
嘲りではない。むしろその大胆さへの感嘆である。
إِنَّ الْإِيمَانَ لَيْسَ كَلِمَةً تُقَالُ، بَلْ بِنْيَةٌ تُشَادُ
فَإِذَا ضُرِبَتْ أُسُسُهُ، ظَهَرَ مَا فِي الْقُلُوبِ مِنْ صِدْقٍ أَوْ وَهَنٍ
信仰とは語られる言葉にあらず、築かれる構造である。
その礎を打たれたとき、胸に宿る真実か虚弱かが顕れる。
فَقُلْتُ: لِنَخُضَّ الْبَحْرَ بِالرِّيحِ، وَلْنَهُزَّ الْأَرْضَ بِالسَّيْفِ
لِنَنْظُرَ أَيَبْقَى الْمِنَارُ قَائِمًا أَمْ يَتَدَاعَى
ゆえに言った。風にて海を荒らし、剣にて地を揺らさんと。
その灯台がなお立つか、あるいは崩れ落ちるかを見んがために。
لَوْ شِئْتُ لَقَطَعْتُ الشَّجَرَةَ مِنْ جِذْرِهَا
وَلٰكِنِّي أَبْقَيْتُ غُصْنًا، لِيَجْرِيَ فِيهِ الْقَدَرُ
望めばその樹を根より断てた。
だが我は一枝を残した。そこに運命を流すために。
فَلَمَّا سَالَتِ الدِّمَاءُ، وَارْتَجَفَتِ الْقُلُوبُ
لَمْ يَطْفَأِ النُّورُ، بَلْ طَالَبُوا بِدِرْعٍ لَا يَنْطَفِئُ أَبَدًا
血が流れ、心が震えたとき。
光は消えなかった。彼らは“決して消えぬ盾”を求めた。
وَهٰذَا هُوَ الْعَجَبُ: كُلَّمَا ضُرِبُوا، ازْدَادُوا تَعَلُّقًا
وَكُلَّمَا خَافُوا، اشْتَدَّ إِيمَانُهُمْ
これこそ驚嘆すべきこと。
打たれるほど彼らは結びつきを強め、恐れるほど信仰は強固となる。
مَا قَصَدْتُ إِطْفَاءَ النُّورِ، بَلِ اخْتِبَارَ سَرَاجِهِ
فَالْإِنْسَانُ أَجْمَلُ مَا يَكُونُ إِذَا ابْتُلِيَ
我が意は光を消すことにあらず、その灯の強さを試すことにある。
人間は、試練に置かれたとき最も美しい。
署名:
إِرِيبُوسُ بْنُ سْكِيَا
エレボス・スキアの子
部屋が静まり返り、外から黒衣の気配が近づく。
メルクリウスが低く呟く。
「宗教好きの悪魔、か……」
サタヌスが壁から手を離す。
「違うな」
彼は喉を震わせたまま言う。
「信仰そのものを、観察対象にした変人だ」
塔の外に足音が近づき、影が扉の下を横切る。
そして屋根の上、黒い外套がひるがえる。
プルトは知っているのか。
それとも知らずに、父の実験の頂点に立っているのか?
信仰は壊されたのではない、試されたのだ。
そして合格してしまった。
カスル・アル=アラムートの夜は、まだ終わらない。
石の回廊に、まだチョークの粉が舞っている。
サタヌスの声が消えたあとも、壁に刻まれたアラビアの一節だけが微かに光っていた。
その沈黙を破るのは足音ではない、金属音だ。
軽く、乾いた音にガイウスが反射的に振り向く。
プルトの手には、短剣ではない。
見慣れない武器。黒鉄の塊。引き金。銃口。
彼女はそれを、迷いなくガイウスへ向けていた。
「銃そのものは昔からありました」
ガイウスが眉を動かし、プルトは視線を外さないまま続ける。
「火縄銃。黒色火薬。導火線に火をつけ、引き金を引く」
淡々と、教科書のように。
「マルスが教えてくれました。あの男は、戦場の歴史を無駄に詳しい」
一瞬だけ鼻で笑う、ほんのわずか。
自分より年上の兄の話をする時の調子。
「当時は、扱える者が限られていた。訓練がいる。火の管理がいる。天候に左右される」
銃口が、わずかに揺れる。
「誰でも引ける殺意になったのは、最近のことです」
塔の空気が冷える。
「火もいらない。体力もいらない。筋力もいらない」
「指一本で、英雄を殺せる」
ガイウスの喉が鳴り、プルトは肩をすくめる。
その仕草だけ、妙に年相応だ。
「マルスは言っていました。“戦争は平等になる”と」
わずかな皮肉。
「私は思いました。“殺意が平等になった”のだと」
銃口が、ほんのわずかに下がる。
完全には下げない。だが、揺れる。
「……便利ですよ?」
小さく付け足す。
どこか、褒められた道具を自慢する末っ子みたいに。
マルスから聞いた知識を、そのまま披露するような口ぶり。
誇示ではない、共有だ。
だが次の言葉で、空気が締まる。
「勇者ども。剣の時代は終わったぞ」
六将の末っ子ではない、冥王の声だった。
今向けられているこれはただの武器の違いじゃない。
時代が変わったとという証明だ。
「950年前。聖教ができたばかりのころなら、お前たちは崇められただろうな」
ガイウスが眉を動かす。崇められる。勇者が、聖女が、神の器が。
そういう語彙に慣れきった世界に居た。
だが、今ここで言われると、まるで化石の話に聞こえる。
プルトは続ける。視線は勇者ズの顔を見ているのに、どこか“時間の外側”にいる目だ。
「奇跡を齎す個人は確かにいた。だがもう“古い”」
サタヌスが口を開きかけてやめる。ヴィヌスは笑いもしない。
メルクリウスだけが、わずかに表情の筋肉を動かして、痛みに耐えるような顔をした。
神官にとって、信仰の崩壊は恐怖ではなく“機能停止”だ。
祈りが消えるという話の続きが、ここに繋がっていると理解してしまう。
プルトは顎で窓の外を指す。空は鈍く光り、影がない。
だが彼女が指しているのは空ではない。地上の未来だ。
「見ろ。直に魔導エンジンが大陸中に普及するぞ」
その単語が落ちた瞬間、ガイウスの胸の奥がひくりと痙攣した。
魔導エンジン。
どこかで聞いた言葉、いつかアルルカンで。
市場の喧騒。油の匂いと、鉄の匂い。子供の弾む声。
『馬よりも速いんだ』
『しかも、どんなに走っても疲れない、みんな導入しだしてるよ』
あの時は、ただの新しい乗り物の話だと思っていた。
便利。速い。夢がある。未来が来る。笑いながら語られる未来。
だが今、プルトの声で同じ言葉を思い出すと、意味が反転する。
夢じゃない、淘汰だ。
馬がいらなくなる。馬方がいらなくなる。街道が変わる。
物流が変わる。戦が変わる。国境の概念が変わる。
何より、人の価値が変わる。筋力や剣技ではない。
技術と燃料と、回路と、供給網と、誰でも扱える効率が世界を動かす。
そして、誰でも扱えるものは、誰にでも殺せるものにもなる。
銃の話が、ここで繋がる。
火縄銃は覚悟の武器だった。
だが近代の銃は“誰でも引ける殺意”になった。
魔導エンジンも同じだ。誰でも走れる。
誰でも運べる。誰でも戦える。
誰でも上に行ける。あるいは、誰でも落ちる。
プルトの口元が、わずかに緩む。笑いではない。理解してしまった者の薄い弧。
「超人が世界を動かす時代じゃない」
その言葉を“勇者の娘”が言うのだ。
勇者の証が、神の器が、聖痕が。
それらが“古い”と切り捨てられる声が、最もそれに近い血を持つ者の口から出る。
「お前たちは、強い。眩しい。だから人は崇めたがる」
プルトは淡々と言う。
「でも崇められるものは、いつも更新される」
「信仰も、武力も、技術も」
彼女の瞳が赤く光るわけではない。
光らないからこそ怖い。
ただ、次の盤面を読んでいる目。
「魔導エンジンが普及すれば、祈りの盾より早く“便利”が人を従わせる」
メルクリウスの指が、無意識に握られる。拳が白くなる。
信仰国家アンスロポス連合は“神聖さ”を演出し続けることで成立してきた国だ。
だがその内部は祈りではなく排除で守られる構造へ変質している。
ここに“便利”が入り込めば、神聖の演出は一気に陳腐化する。
聖女制度の象徴性すら、ただの古い装置になる。
ガイウスは、アルルカンの子供の声をもう一度思い出す。
弾んだ声、未来を語る声。
あれが、淘汰の始まりだったのだと、今になって理解する。
「……じゃあ、俺たちは」
ガイウスの声が掠れる。
「俺たちは、何なんだ」
プルトは、すぐには答えない。
引き金に置いた指は、動かない。
一拍。二拍。あまりに正確な間。
「過渡期の遺物」
淡々と、残酷に。
「そして、その遺物の力を使って」
銃口がわずかに上がる。視線が刺さる。
「私は“新しい地獄”を作る」
空には太陽がない。
だが地上には、もう“エンジンの火”が点き始めている。
それを止める方法を、勇者はまだ知らない。
「それでもさ」
一歩、踏み出す。
銃口が胸に触れる距離。
「終わらせるのは俺たちだろ」
プルトの目が、わずかに細くなった。