アンスロポス連合編-神の国 - 3/6

湿地帯に入り、足音がぬかるみに沈んでいく。
リプカ修道院の裏手に広がるその地には、祈りの鐘の音も届かない。
「……いたぞ」
ガイウスがぽつりと呟いた。
水辺の中央、一本の古木のそばに、ひとりの青年が背を向けて立っていた。
青い神官服が風に揺れ、腰まで届く長い三つ編みが、朝の光を滑らせる。
「メルクリウス……」
ヴィヌスが名を呼んだその声に、青年は静かに立ち上がった。
三つ編みがふわりと舞い、彼はゆっくりとこちらに振り向く。
その目は眼鏡越しに細められ、微笑みもせず、ただ淡々とした口調で言い放つ。

「懺悔なら修道院で言ってくれないかね?」
湿地の風が、ひゅう、と吹き抜けた。
ヴィヌスたちの足が、自然と止まる。
「……へ?」
サタヌスがぽかんと口を開ける。
だがメルクリウスは気にも留めず。
ロザリオを指先で弄びながら、冷ややかに続けた。

「君たちが“例の三人”ってことでいいのかな。神の使いとしては、ずいぶん賑やかだ」
この瞬間、第四の勇者——最も神に近く、最も信仰から遠い男が。
静かに、舞台へ姿を現した。

湿地の空気は重く、ぬかるんだ足元に誰も声をかけなかった。
最初に沈黙を破ったのは、ヴィヌスだった。
「……あんた、神官?」
先ほど修道院の顔ぶれから聞いた、神官は頭に金属製の輪をつけるのだと。
天使の光輪を模した銀色のそれが、確かにメルクリウスの頭にはあった。
メルクリウスは視線だけ向けて、眼鏡の奥で目を細め——それでも笑わずに答える。
「そうだよ。“見かけ”はね」
「修道院の裏まで出張って御祈り?あんたへ会いに来てる人、いたけど?」
その言葉に、メルクリウスはわずかに肩をすくめた。
そして、何でもないことのように、さらりと告げる。
「—聖教は、お布施を積まない人間を救わないよ」
一拍の沈黙。
サタヌスが素で声を上げた。

「神官がカネの話していーのかよ……」
「僕は事実を言っただけだよ」
メルクリウスは振り返ることなく、静かに微笑むでもなく。
ただ淡々と告げる。
「……フフフ……まぁ、いい。
“神の代行者”として、彼らの祈りには応えなきゃね」
白いロザリオが音もなく揺れ、青の背中が霧の中に消えていった。
残された三人のうち、最初に言葉を発したのはガイウスだった。

「……アイツ、腹黒いな」
「黒すぎだろ……」
サタヌスが額を押さえる。
だがヴィヌスだけは、黙ったまま。
霧の向こうへ歩いていくその背に、何かを感じていた。
—これで、四人目が揃った。

メルクリウスを見送った後、勇者たちは木陰で小休止を取っていた。
サタヌスが、ふと空を見上げながらぼやく。
「なぁ。……俺がジャックラッセルテリアならさ、あのメガネは何だ?」
ヴィヌスが髪をいじりながら答える。
「うーん……見た目の優雅さだけで選んじゃダメなタイプよ。上級者向け」
「なんだそりゃ。犬にも“玄人枠”とかあんのかよ」
「あるわよ。“サルーキ”っていうの。繊細でエレガントで、プライドが高くて……扱いにくいの」
「は〜」
一人沈黙していたガイウスがぼそっと言った。
「……俺、まだシェパード扱いなん?」
「諦めなさい」
即答だった。

再びリプカの街へ足を踏み入れた三人は、空気の異変に気付いていた。
霧は薄れ、静けさがやけに際立つ。
「……本当に、この国。魔族、いねぇんだな……」
サタヌスがぽつりと漏らした。
見慣れた光景のはずが、どこか“空っぽ”に感じる。
「何処にも……黒ベレー、いねぇし」
彼の言う“黒ベレー”とは、魔王軍の一般兵—陰に潜む存在たちの象徴だ。

「いないといないで、寂しいわね」
ヴィヌスが柔らかく言った。
「……ビーグルちゃん達みたいだったのに」
「え、あいつらまで犬扱い?」
ガイウスが思わずツッコミを入れる。
「だって似てるじゃない。賑やかで、鼻が利いて、よく吠えるでしょ?」
「……吠えるし、尻尾も振ってくるしな……あと、やたら群れる」
「ほら、もうビーグル以外の何物でもないわ」
ヴィヌスがさらりと決めつけると、サタヌスがククッと笑った。
「じゃあ次遭ったら、犬用おやつでも投げてみっか」
「絶対余計なことになるからやめとけ」

—–

夕方の礼拝を終えたあとの時間、修道院の一室では。
数人の信徒が順番に“神官様”の前に座り、日々の悩みや祈りを静かに打ち明けていた。
青い神官服を身に纏い、穏やかに座る青年。
その手元にはロザリオと、一冊の開かれた聖典。
微笑みはないが、声は柔らかい。

「……魔族兵の目撃情報があったそうです、神官様……。
私、もしかしたら、何か神を怒らせるような罪を……」
年配の女性が震える声でそう言った。
メルクリウスは、一瞬だけ目を伏せる。
(はいはい、“いつもの”不安相談ね……)
だがそんな内心は表に出さず、視線を上げて、落ち着いた声で返す。
「大丈夫。君はこうして、毎日修道院に足を運んでいるだろう?」
女性がはっとして顔を上げる。

「神は、毎日の祈りを見ておられる。何も後ろめたいことなどないよ」
それから一拍おいて、少し声を和らげた。
「……今夜は冷える。無理せず、体を温めて、よく眠りなさい」
女性は涙ぐみながら、何度も頭を下げた。
「ありがとう……ございます、神官様……!」
彼女が去っていったあと。
メルクリウスはロザリオをくるくると指で回し、低くつぶやく。
「……さて、あと何人だったかな」
“神の代行者”としての仮面をつけながら、静かに別のものを見ていた。

礼拝後の静かな回廊に、小さな子どもの泣き声が響いた。
「神官さま〜……ケガ、したぁ……っ」
年端もいかぬ男の子が、膝を押さえてしゃがみ込んでいる。
石畳で転んだのか、血がにじみ、服の裾が泥で汚れていた。
すぐに、青い神官服の青年がその前にひざまずいた。

「どこをケガした?……見せてごらん」
子どもが小さく手をどけると、メルクリウスは静かに手を翳す。
その右腕には、銀と白の魔術装置を組み込んだようなガントレット。
手のひらを傷口の上にかざすと、淡い光が朝靄のようにじわりと広がった。
ぴたり、と血が止まり、傷がふさがっていく。
「……もう、大丈夫だよ」
その声は、どこまでも穏やかで、優しいものだった。
泣き止んだ子どもが、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「すごい……!ありがと、神官さま!」
「うん。あまり走り回るなよ?ここは石が硬いからね」
「は〜い!」
子どもが駆けていくのを見送りながら、
メルクリウスはふぅっと小さく息をついた。
(……子どもには、こういうのが一番効くんだよね)

夕方、修道院の礼拝堂。
勇者三人は、その外側の回廊の窓から中を覗いていた。
堂内には十数人の信者たち。
その中心に、清楚な青い神官服の青年が立っている。
「……メルクリウス、仕事はしてるみたいだな」
ガイウスが小声で言う。
「っていうか、さっきの腹黒っぷりどこいったんだよ?めちゃくちゃ神官してんじゃん」
サタヌスがぼやく。

堂内のメルクリウスは、まるで別人だった。
柔らかく礼をし、落ち着いた声で祈りの言葉を紡ぎ、子どもの頭に手を添えて祝福の印を描く。
信者たちは静かに目を閉じ、その言葉に心を預けていた。

静かな礼拝堂。
信者たちの祈りの声と、神官の落ち着いた声だけが、穏やかに響いていた。
窓の外、回廊の柱の影に、三人の勇者が身を寄せてこっそり覗いている。
「……まるで別人だな」
「どの顔が本性なんだか……」
サタヌスが苦笑交じりにそう呟いた瞬間—。
メルクリウスが、ぴたりと動きを止めた。
目を閉じたまま微動だにしなかった彼が視線だけを、窓の向こうへと向ける。

そして右目を、ほんの少しだけ開いた。
蒼い瞳。けれど光はない。
ハイライトを欠いたその目は、無言で彼らを見据えていた。
表情は変わらない、口も閉ざしたまま。
怒りも苛立ちも、何1つ読み取れない。
—なのに、背筋が、ぞくりと凍る。

一秒にも満たない、その視線のあと。
再びメルクリウスは目を閉じ、神官としての表情に戻る。
「……あいつ……目、開くじゃん」
その瞬間を見逃さなかったサタヌスが、ぽつりと呟いた。
「開くけど……開けた時の方が怖くね?」
ガイウスが冷静に返す。
「……なんなのあいつ……」
ヴィヌスの声には、もう呆れと興味が半々だった。
風が、柱の間を吹き抜けた。

祈りの空気は変わらず清らかなのに。
窓の外だけ、妙な緊張が張り詰めていた。
—この第四の勇者、何かと厄介そうだ。

礼拝が終わるのを、待ち続ける三人の姿はどう見ても不審だった。
「……ねぇ、私たち、今何やってんの?」
ヴィヌスが呆れたように、けれど声を潜めて問いかける。
「神官の仕事終わるの待ってんだろ」
「いやそれ、“出待ち”ってやつじゃない?」
ヴィヌスの返しにサタヌスが吹き出す。
「おいおい……ハチ公じゃねぇんだからさ」
「むしろ、出てこなかったらどうすんのさ」
「神官様ァ……神官様ァ……って泣きながら礼拝堂の前で座る?」
そのやり取りの中、ガイウスがぽつりと。

「……カリストも、こうやってユピテルの出待ちしてんのかな」
「……っあ〜〜それっぽい!想像できるわ!」
とノリノリで乗ってきたのはサタヌスだった。
「ユピテル様……ユピテル様ぁ……」
頬に両手を添え、目を細めて恍惚の表情。
その視線は虚空を見つめ、肩が内に入る独特のポーズ。
そして甘ったるいトーンで、まるで恋文でも読むように続ける。

「副官のカリストでありますぅ……本日も、麗しいお姿……」
ユピテル様の前なら、私は……地べたに伏すだけの虫で……!」
その横で、ヴィヌスとガイウスが、完全に固まっていた。
「……完成度高ぇな」
「……キモいけど、否定できねぇのが腹立つわ……」
しばしの沈黙。
サタヌスだけが、カリストになりきったまま、空を見ていた。
こうして勝手に出待ちしつつ副官をいじる勇者たち。
修道士たちはますます“危ない連中”を見る目を強めていったのであった。