アンスロポス連合編-神の国 - 5/6

夜の闇が、修道院の裏口を包み込んでいた。
薄い月光だけが、湿地帯の泥に反射してちらちらと光る。
そこに、三人の勇者がひっそりと集まっている。
何気ない雑談を交わしながらも、どこか緊張感が漂っていた。
—その時、足音が近づく。

メルクリウスが、やや遅れて裏口の扉を開けて現れる。
その視線は、最初に窓から見かけた時のような冷徹さではなく。
どこか面倒くささと優しさが混じったものだった。
「……まだいたのか」
彼は三人を見て一度だけため息をつき、そしてゆっくりと声を落とす。
「もう寝なさい。お子様じゃないんだから」
その声は、怒っているわけでもなく、ただ“諭すような口調で。
どこか、子どもに言い聞かせるような響きがあった。
ガイウスが少しだけ口角を上げる。
「神官らしいな、とは思ったけど」
「……だからこそ、こうして言うんだよ」
メルクリウスが返す。

「夜更かしは身体に良くない、ね?」
メルクリウスは背を向けかけた。
その一言で終わるはずだった、静かな夜の会話。
だが。

「……お前、勇者だろう?」
ガイウスがぽつりと呟く。
メルクリウスは歩みを止めた。
背中を向けたまま、肩がわずかに揺れる。
「——勘違いだよ」
「おい、ガイウス。神官にちゃんと見せてやれよ」
サタヌスがニヤつく。
ガイウスは少し肩をすくめて、ため息混じりに応じる。
「……ったく、いちいち証明とか……」
手の甲を掲げた瞬間——七芒星の紋様が脈動し、夜を裂くような光を放った。
続けてヴィヌスが柔らかなピンクの聖痕を、
サタヌスが跳ねるようなオレンジの聖痕を、それぞれ見せる。
三つの光が並んだ。
メルクリウスは、微笑んでいた。

「……なるほど。これが“勇者の証”か」
カスタネットのような指先拍手。
上品な所作に、少しだけ冷気が混じる。
「聖女たちが言ってた通りだ。確かに、美しいね」
「お見事。“選ばれし者たち”に、拍手を」

「さ。お前も見せろよ、あるんだろ?」
サタヌスに促されるまま。彼は右手のガントレットを外し。
月光の下に白い手の甲をさらした——そこには、何もなかった。
ガイウスが絶句する。
「……え?」
サタヌスも首を傾げる。
「ちょ、待て、え? 冗談だよな?」
ヴィヌスが眉をひそめ、わずかに声を落とす。
「あなた……聖痕が……?」

メルクリウスは、ほんの一瞬だけ、視線を三人に向けた。
その瞳に、感情はなかった。
ヴィヌスが目を細める。
「……ない、ほんとに」
サタヌスが声を詰まらせる。
「え? 勇者には……痕が、あるんだろ?」
メルクリウスは振り向かず、淡々と答えた。
「うん。あるって、君たちは思ってた。
僕もね、昔はそう思ってたよ」

「でも、僕にはなかった」
ロザリオが静かに揺れる。
「だから、僕は“勇者じゃない”んだ。この国の人間は、そう言うよ」
沈黙。
夜風が、そっと濡れた地面を撫でた。
「おやすみ。勇者様たち」
バタン。
木扉の閉まる音が、やけに乾いていた。
三人は動けずに立ち尽くしていた。

「……俺たち、振られた……?」
と、サタヌスがぼそっと呟く。
その隣で、ガイウスの頭の“あの2本の触覚毛”がしなしな……と萎びて下を向いた。
ヴィヌスが一歩引いて、無慈悲なコメントを投げる。
「……それ、感情出るの?」
「うるせぇ……!」
「神官って夜も慈悲深いもんじゃなかったっけ……?」
「慈悲の代わりに皮肉と冷気くれたな」
サタヌスが肩をすくめる。

石畳の冷たさが、靴裏からじんわり伝わってくる。
月の光は白く、灯火の残る通りを、三人は並んで歩いていた。
「……何がおやすみよ」
ヴィヌスがふんっと鼻を鳴らす。
「“アルルカン”じゃ7時からが本番なのよ。劇場も、ナイトバザールも、祈りすらも」
サタヌスが軽く肩を回して笑う。
「へぇ~お上品なとこの文化だな。俺の育ったスラムなんて7時に寝てたぜ」
「何その貧乏マウント、早寝自慢?」
ヴィヌスが苦笑いしつつ髪をかき上げる。
その横で、ひときわ大きな背が、ずっと無言で歩いていた。

ガイウス。
視線は地面。表情は読めないが頭頂部のあの二本の触覚毛が、しなびたまま微動だにしない。
完全に、曇り犬だった。
「……ガイウス?」
声をかけても、反応なし。
「……聞いてないな」
「聞いてても、たぶんシェパード語で再生されてるだけだな」
サタヌスがわざとらしく尻尾を揺らすフリをして笑った。
三人の足音が、夜の街路に静かに響いた。
“本物の四人目”は、まだ彼らの隣にはいない。

先頭を歩くガイウスは、やけに元気がなかった。
背を丸め、手をポケットに突っ込み、耳まで隠れそうなぐらい襟を立てている。
その姿は、普段の“最強の勇者”ではなく“しょぼくれた大型犬”だった。
「……ガイウス、元気ないじゃん」
サタヌスが少しからかうように言うと、
彼はもぞもぞと襟の中でぼやいた。
「……聖痕、なかったんだぞ。
あれ、勇者の絶対条件じゃなかったのかよ……」
「まぁな……しかもあの態度だし……」
「なんなら“おやすみ”って言われたの、地味に一番ダメージでけぇ……」
その後、三人はしばらく無言で歩いた。
でもその静けさは嫌な沈黙ではなく、なんとなく落ち着いた静けさだった。

「……で?」
「だから、あの神官に追い返された時点で、今夜の寝床はパアってこと」
「予約してなかったの?」
「そりゃ、ワンチャン修道院泊あるかもと思って……」
サタヌスとヴィヌスのやり取りを聞きながら、ガイウスは肩をすくめて歩いていた。
街は静かだが、明かりはまだあちこちに灯っている。
リプカの夜は、白と金の石造りが月光を反射して妙に清らかだった。

「……なあ、ヴィヌス」
ガイウスが、何気なく指をさす。
「この薬屋、棚スカスカじゃねぇか?」
並ぶポーション瓶の数が、明らかに少ない。
というより、ほぼ空だった。
「昼間なら売り切れてることもあるけど……」
ヴィヌスが目を細める。
「——夜に補充がないってのは、珍しいわね」
「ポーションって、普通常備されてんだろ」
「戦争中だし、まして聖域ならなおさらね」
一瞬だけ、三人の足が止まる。
「ま、考えても仕方ないだろ」
サタヌスが腹を押さえて言った。

「とりあえず腹減った。なんか食わせろ。甘いの」
「贅沢言うな、神官様から宿蹴られた罰だと思いなさい」
「納得いかねぇ〜」
そう言い合いながら、三人は再び歩き出した。
けれど、どこか、胸の奥に小さな違和感が残っていた。
—この国は、綺麗すぎる。
そして綺麗なものは、得てして嘘をつく。
「いらっしゃい、夜にしては勇ましい顔ぶれだな」
石畳の通りにぽつんと出ていた、ホットドッグの屋台。
鍋からは湯気が立ち上り、肉の匂いが腹を刺激する。
「3つくれ」
ガイウスが短く言うと、手際よくソーセージが焼かれていく。

「観光か?」
「いや……勇者一行だ」
「へぇ、それはまた」
おじさんはくるくるとパンを回しながら、笑いもせずにぽつりとつぶやいた。
「……外のヤツら、まだ言ってんのか?」
「え?」
「“エデン”だよ。あの国は理想郷だ、楽園だってさ」
肉をパンに押し込んで、マスタードをかけながら言う。

「知らなきゃ、何とでも言えるな。……ま、どこでも同じだろうがね」
ホットドッグが3つ、無言で差し出された。
ヴィヌスは迷いなくチリドッグを選ぶ。
「……これ、唐辛子入ってるやつよね? いい匂い」
「そっち好きなんだなお前」
サタヌスは迷うことなく、ホットドッグにケチャップのボトルを握りしめた。
「……いくぜ、ケチャドッグ最強伝説」
勢いよくケチャップが溢れ出し、マスタードまで追加で追い打ち。
パンが赤と黄色に完全に覆われ、もはや“原型”を保っていなかった。

「……うわっ」
ガイウスが思わず顔をしかめる。
「パン、見えねぇじゃねぇか……」
だがサタヌスはガン無視。
そのまま豪快にかぶりついて、
口の端からケチャップを垂らしながら言った。

「うめーぞオッサン!! テイクアウトくれ!!」
屋台の親父が軽く肩をすくめる。
「……若いってのは、胃袋の化け物だな」
ガイウスは無言でプレーンを一口。
美味いときは咀嚼が早くなるのでわかりやすい。

三人が口を動かしてる間も、おじさんは手元の鍋を混ぜながらぽつりと言った。
「……理想郷、か」
「中にいりゃわかるさ。誰が“本当に”救われていて、誰が黙ってるかってのは」
その言葉には熱くも、冷たくもない、ただの現実が混ざっていた。

夜のリプカ。
白い通りは冷えきっているのに、屋台のランタンだけはぽつりと温かかった。
サタヌスがケチャップをドバドバやりながら、ふと首を傾げる。
「なぁ、オッサン。なんでこんな時間までやってんの?」
店主は鉄板を押さえたまま、へっ、と短い笑いをこぼす。

「そりゃ……“お客様”のためさ」
「お客様?」
ガイウスが眉を上げる。
店主は周囲を確認し、声を少しだけ落とした。

「……シスターたちだよ。
昼間は“清く正しく戒律を守ってます”って顔してるが、
夜は腹も減るし、愚痴も言いたくなる」
サタヌスが噴きそうになりながらホットドッグを握りしめた。
「シスター、夜食いに来んの!?」
「来るとも。こないだなんざ——」
店主はパンを切りながら続ける。

「“あの白ヘアバンドの気難しい神官がさぁ〜”
って、愚痴り倒してったよ」
ガイウスとヴィヌスが固まる。
「あの白ヘアバンド……メルクリウスじゃねぇか」
「あの気難しさ、世界共通なのね……」
店主は肩をすくめた。

「シスターたちだって人間さ。
完璧な信仰者なんて、ニア・アンスロポスの上の人間だけの幻想だよ。
ここは田舎町だ、中枢の目も届かない」
「……だから夜だけは、気を抜けるのさ」
サタヌスがホットドッグを頬張りながら、笑い混じりに言う。
「聖職者様って、案外生臭いんだな」
店主は鉄板を拭きながら、静かに返す。

「そんなもんだ。
全員が聖句を唱えるだけの人形じゃない。
結局あいつらは——」
屋台の灯が風に揺れた。
「——ちょっと天使のフリが上手い“人間”なんだ」
サタヌスは手を止め、
ガイウスは思わず目を細め、
ヴィヌスはゆっくりとチリドッグをかじりながら呟く。

「……それ、妙に納得するわね」
そして勇者三人は、
“清潔すぎる国の裏側”を、初めて少しだけ理解したのだった。