「……ここ、冒険者向けの宿って書いてある」
ヴィヌスが看板を指差した。
夜のリプカをぐるりと回った末、ようやく見つけたのは通りの外れにある宿だった。
外観は古めかしいが、灯りの色はあたたかい。
サタヌスが勢いよく扉を押すと。
中からふわりと、パンとスープの匂いが漂ってきた。
「いらっしゃいませっ」
受付カウンターの奥から、ぱたぱたと小さな足音。
現れたのはそばかすの浮いた頬と、きっちり結ばれた三つ編みの女の子だった。
年の頃は十代半ば。
派手さはないが、柔らかい笑顔が印象的だった。
「ご宿泊ですか? お部屋、空いてますよ」
「空いてる……よかった……」
ガイウスが本気で安堵の息を吐く。
「レベッカ、鍵お願い!」
奥から女将の声が飛び、女の子が「はい!」と元気よく返す。
鍵束を持って戻ってきたレベッカは。
どこか年齢よりしっかりした空気をまとっていた。
「ご案内しますね。お湯、ちゃんと出ますから安心してください」
“美少女”ではない。
けれど、確かに「可愛い」と言われる子。
ここでは、それだけで十分だった。
「じゃ、明日に備えて寝るぞ」
ガイウスがそう言って部屋の扉を開けると、
ヴィヌスがすぐ後ろを歩き、サタヌスは両手をぶんぶん振って抗議する。
「ちょっと待て! あれで“飯済ませた”ことにすんのかよ!」
「ホットドッグ三本食ったじゃない」
「“あんなの”はなぁ、前菜だ! 前座! お通し!」
「もう夜中よ。あんたの胃袋は常に成長期なの?」
三人部屋は、無駄に広かった。
壁際に並ぶシンプルな木製ベッド。毛布と水差し、そして蝋燭の光。
「……まぁ、文句は明日に取っとけ」
ガイウスがコートを脱ぎ、ブーツを脱ぎ。
一番奥のダブルベッドにどかりと腰を下ろす。
—そして、そのまま斜めに倒れた。
「……寝るぞ」
ガイウスはダブルベッドにどっかり横たわる。
そして何の迷いもなく、斜めに。
「……おい、なんで斜めだよ!?」
サタヌスが即座にツッコむ。
「……足出るから……」
寝ぼけた声でガイウスがもぞもぞ答える。
「出るな! せめて曲げてくれ、家具泣いてるぞ!」
「……おれが……泣いてるわ……腹が……」
そのまま、ガイウスは寝息を立て始める」
「ちょっと待て、寝た!? 今このテンションで!?」
ヴィヌスがくすくす笑いながら毛布を引き上げる。
「明日は“神の国”の本番なのよ。あんたも寝なさい」
「……あーくそ……ホットドッグ追加で五本はいけたのに……」
サタヌスがぼやきながら、ベッドに潜り込む。
石畳の街に、静かな夜が落ちていった。
リプカの夜は静かだ。
湿気を帯びた空気が石畳を包み、修道院の灯りもまばらに消えていく。
——
扉の向こう、ほんのりと青い光に染まった部屋。
神官の衣を脱ぎ、長い髪をほどいた青年が、手櫛で後ろ髪を流す。
銀の金属輪が、枕元の机に置かれたまま光を失っていた。
メルクリウスは、深くため息をつく。
そのまま静かに、閉じた扉の前へ歩み寄る。
格子窓の向こうには、まだうっすらと霧の残るリプカの街。
遠く、勇者たちが消えていった方角を、何の感情も浮かべずに見つめる。
「……彼等、諦めたかなぁ」
その声は小さく、誰にも届かない。
優しげに揺れる口元とは裏腹に、言葉の温度はひどく冷たい。
「ま、無理だろうけど」
再びひとつ、静かな息を吐く。
その右手は、扉の縁にそっと触れたまま。
「“勇者”だなんて、面倒な称号。僕に似合うわけがない」
彼の手の甲には、やはり——何も、浮かんではいなかった。
月明かりだけが、部屋の隅に落ちる。
もう誰も訪れない夜。
彼は音も立てず、ベッドへと向かう。
聖職者の顔を外し、ひとりの“人間”として眠るために。
—–
リプカの街が、赤く焼けていた。
夜の帳を裂くように火の粉が舞い、白壁の修道院すら黒煙に包まれる。
ガイウスは、焦げた石畳の上に立ち尽くしていた。
手の中には、返り血に染まった剣。
まるで何かを切り裂いた直後のように、まだ熱を帯びていた。
その足元に、青いベレー帽が転がっていた。
近くに倒れていたのはぱっつん前髪の少女兵。
高貴さすら感じる整った顔立ち。お嬢様風の制服。
それでも、その胸は魔弾によって大きく抉れていた。
彼女の体を、誰かが必死に揺さぶっている。
「……やだ……っ、嘘でしょ……?」
それは一人のブラックベレーの少年兵だった。
モブ顔。どこにでもいそうな、あまり印象に残らない顔。
けれど今は、その表情が涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。
「ブルー!まだ話の途中だったじゃん……!」
通信、途中で切ったら怒るって言ったじゃん……!なんで……」
彼は泣きながら、血のついた制服の裾にすがり続けている。
ガイウスは、剣を持ったまま、動けなかった。
その光景が、あまりに“違った”。
これが、魔族?
これが、殺して当然の、敵?
火の粉が風に舞い、遠くから声が聞こえる。
「魔族なら、殺していいのか?」
—マルスの声だった。
「その“目”で、何を見た?」
剣が、重い。吐き気がするほどに。
斬ったのは、自分だ。
“魔族だから”。
だから殺した。そのはずだった。
燃える街がゆっくりと滲み、視界が暗転する。
ガイウスの胸に、なにか重く、形をもたないものだけが残った。
泣き続けるブラックベレーの少年兵。
手の中でブルーベレーの遺体はすでに冷たく、返事など返ってこない。
「返せよ……お前が殺したんだろ……!」
ガイウスは剣を握り締めたまま動けなかった。
でも——少年兵は、立ち上がった。
「返せって言ってんだろがあああああああああああ!!」
黒いベレーを飛ばし、その顔が怒りと涙で歪む。
普段の「であります!」口調も忘れ。
剥き出しの咆哮と共に、銃剣を構えて突撃してくる。
「俺の仲間を返せエエエ!!」
刃が振り下ろされる直前—視界が一気に歪んだ。
「そうですよねぇ」
女の声がする。
甘くて、冷たくて、どこか愉快そうな。
「魔族だから死ぬべきなら……泣こうが、叫ぼうが、斬るべきですよねぇ……フヘヘへ」
ガイウスの視界の端で、黒と紫の何かが笑っていた気がした。
そして、目が覚めた。
寝汗まみれの寝台。
息が荒い。
剣を探して手を伸ばしたが、そこにあるのはただの枕だった。
ガイウスは震える手で額を押さえながら、静かに呟いた。
「……今の、誰だ……?」
朝のリプカ、宿屋の食堂。
3人の勇者はパンも齧らず、ただどんよりと座っていた。
目の下にクマ。
テンションは地に落ち、空気は最悪。
「……俺さ」
サタヌスがぽつりと切り出す。
「鉄の箱みたいなとこに詰め込まれてたんだよ、人間がさ。すっげぇ数」
「はあ?」
ガイウスが眉をひそめる。
「んでさ……隣が、カリストだった」
ヴィヌスの手がピクッと止まる。
「で、そいつが俺の肩に手置いて……『可愛いね♡』とか言ってきてな」
「やめなさい」
ヴィヌスが食い気味に突っ込んだ。
「なんで?」
サタヌスがややキレ気味に返す。
「それ、別ベクトルで洒落にならない奴よ」
「……え、俺、なんかされたん?」
そしてその横で、ガイウスは黙ってコーヒーをすする。
「お前も……何か見た?」
「……夢の中で街が燃えてた。
ブルーベレーが死んで、黒いのが泣いて、俺が……剣、持ってた」
サタヌスとヴィヌスが目を合わせる。
ヴィヌスが低く呟く。
「やっぱり……全員、やられてるわね」
朝の宿屋、食堂。
ぼーっと紅茶をすするヴィヌスに、サタヌスが小声で尋ねる。
「お前も、ヤベぇ夢だった口か?」
ヴィヌスは目元を押さえながら呟く。
「……なんなの、私、ブラックベレーになってて……」
「ええっ」
—–
乾いた軍靴の音が、鉄床のような通路に響いていた。
走っている。
息を切らして、振り返る余裕もなく。
がむしゃらに、ただただ逃げている。
自分の姿は——ブラックベレーの制服。
そして、追ってくるのは。
「……見つけた」
聞き覚えのある声。
そして、冷たい薄笑いを浮かべた“赤い目”のガイウスだった。
ヴィヌスは絶叫した。
「軍曹ォオオ!!こんなのマニュアルにないでありますぅうぅ!!」
逃げて、転んで、立ち上がってまた逃げて。
どこまでも無限に続く金属の廊下。
曲がっても曲がっても、背後にいるのは同じ足音と、同じ声。
「逃げてどうする。お前は“魔族”だろ?」
「うわああああああああ!!!誰か止めてェ!!でありますぅ!!」
—–
「赤眼のガイウスに追われてさ、
軍曹ぉぉ!って泣き叫んでるの。完全に人格破壊コースだったわ……」
ガイウスが紅茶を飲みながら、横目でチラッと彼女を見る。
「……は?」
「ついでに言うと、鬼ごっこのとき、笑うのやめて。怖いわ」
「俺、笑ってたか……?」
触覚が、ぴくっと揺れた。
三人揃って寝不足の勇者パーティ。
今朝も平和とは程遠かった。
ヴィヌスは紅茶をすすりながら未だ目が死んでおり。
サタヌスはパンを握ったまま半分寝ている。
ガイウスだけは姿勢こそ真面目だが、触覚毛が二本とも下がったままだった。
テーブルの上に、ため息が3つ。
「……俺等の朝、終わってんな……」
ガイウスがぽつりとこぼす。
そのとき、宿屋の給仕をしていた少女、レベッカが心配そうに近づいてきた。
「だ、大丈夫ですか……? お顔、みんなすごくお疲れで……」
三人はゆっくり彼女を見た。
誰かが“俺の仲間を返せ”と叫び。
誰かが“ユピテル様ぁ♡”とささやき。
誰かが“軍曹ぉお!!”と号泣していたあの悪夢の名残が、全身から滲み出ている。
「……悩み事があったら、神官様に話しましょう?」
レベッカが優しく促す。
サタヌスが横目でガイウスを見て言った。
「なぁ……アイツに?」
ヴィヌスが顔を伏せて、低く呟いた。
「……いや……余計、悪夢が増えそうよ……」
それでも、今朝だけはまだ“現実”の方が優しかった。
少なくとも、追いかけてくる鬼はいないのだから。