「レベッカ、話がある」
「え……どうしたんですか?2人とも……」
宿に戻ったガイウスは早速レベッカに問いただす。
彼女は少し動揺した様子で、目を泳がせた。
「さっきポーション買ってただろ?」
「……はい」
「なんでだ?お前、病気じゃないんだろ?」
「……それは……」
レベッカは口ごもると俯いてしまう。
ヴィヌスが彼女の手を取ると、優しく語りかける。
言い触らしたり責め立てたりする気はないと、その瞳を暫く見つめ。怯える少女は小さく頷いた。
「……私は、幸せになりたかったんです」
「幸せ……」
「この宿屋の受付もお父さんやお母さんがやれというからやってるんです。
でも私は……自分の意思でこの仕事をやりたい。だから……」
レベッカはぽつりぽつりと語り始める、宿屋の受付嬢が板についた彼女だが、自身の夢は違うものだった。
あれは、レベッカがまだ“夢”を信じていた頃のことだった。
街角で回る、ハンドオルガンの音色。
金属がこすれる乾いた音に、木製の弁が震える柔らかい旋律。
それが、リプカの空気をふわりと揺らしていた。
広場の真ん中で、旅芸人の一座が踊っていた。
リズムに合わせてステップを踏む道化。
空を舞うカラフルなスカーフ。
照れたように笑いながら、しかし確かな手つきでオルガンを回す若者。
その手元には、小さな子供たちが集まり、拍手を送っていた。
レベッカは、その光景を路地の影から見ていた。
足を止めることもできず、声をかける勇気もなく。
ただ、じっと。
まるで異世界を見るように、旅芸人たちの姿を目で追っていた。
「ああなりたい」と、ただ一言、心の中で呟いた。
華やかな衣装。
自由な旅。
拍手を受け、笑い合う仲間たち。
彼女にとって、それは“決して触れられない世界の光”だった。
ふと、彼女の視線が動いた。
宿の一角、誰も使っていない空間の奥。
埃をかぶった布が一枚、何かを隠すように覆っていた。
レベッカは静かに歩み寄り、それをそっと捲った。
現れたのは、木製のピアノだった。
「あれは、母さんが買ったんです。
音楽が好きな冒険者のためにって。
旅の人たちが、弾いてましたよ。
悲しい音色も、楽しい音色も、イライラをぶつけるみたいな怒った音色も」
指先で鍵盤に触れる。音は鳴らなかった。
けれど、その沈黙さえ、なぜか懐かしかった。
「……もう音は出ないけど。でも、ここにはちゃんと“音”があったんです」
彼女の声は小さな音で、でもちゃんと聞こえた。
二度と音が出ないピアノ-しかし確かにそこにある、記憶。
「……だから麻薬に手を染めたのか」
「はい」
ついにバレた、終わったという顔でポケットから注射器を出す。
あの薬物中毒者たちが勧めてきたものとまったく同じ、使い込まれた注射器だった。
「でもな……やっぱりそれは違うと思うぜ」
「え?」
「お前はさ、自分の力で幸せになりたいんだろ?
だったらこんなことで幸せになってどうすんだよ、お前の夢は麻薬なんかで叶っていいのか?」
「それは……」
「教えてくれ。お前に麻薬勧めたヤク中どもはリプカの何処でキメてたんだ?」
ガイウスの瞳の色が万華鏡のようにまた変わった。
ヴィヌスはその色に思わず「あぁ……御愁傷様」と胸の内で呟く。
赤-一番危険な色だ。
「……リプカ旧修道院です」
「ヴィヌス!」
「了解」
-リプカ・旧修道院
旧修道院は今の修道院と全く異なる空気に満たされていた。
重い扉を押し開けた先。
かつて“神の家”と呼ばれた建物は、今では静かに朽ち果てていた。
床は黒ずみ、踏むたびに「ギィ……ッ」と呻くような音を立てる。
壁の彫像は顔が欠け、祭壇は崩れ、色褪せたステンドグラスには大きな穴が空いていた。
ガイウスが一歩踏み出し、足元の沈み込みに眉をひそめた。
「……チッ、床が腐ってやがる。踏み抜くなよ」
ヴィヌスは靴音を響かせながら、優雅な足取りで隣に並ぶ。
「腐ってるものは、何でも嫌よ。林檎も、肉も、男女のもつれも——ね」
「……なんか混ざってねぇか、それ」
「全部、匂いがキツいってことよ」
わずかに笑いながら、ヴィヌスは天井の穴から差し込む光に目を細めた。
そこには、祈りの音も、神の気配も、もうなかった。
ここは黒い少年-デクシアがいた場所。
だが少年はおらず、ただ注射器だけが転がっている。
「……やっぱりか」
いないのは予想通りだ、しかし予想していなかったのは-壁に刻まれた印だ。
床を踏みしめるたび、軋む音と共に埃が舞い。
一枚だけ残されたステンドグラスから、薄赤い光が差し込む。
そしてその先の壁に——“それ”は描かれていた。
血で塗られたような、不気味な黒の紋章。
蛇が円を噛み、星がひっくり返り、目のような断裂がこちらを睨んでいる。
ガイウスの眉間に汗が浮く。
ヴィヌスの視線が揺れる。
「……これ、冗談で済まされるやつじゃねぇな」
聖教のものではない、聖教のシンボルは十字を少し崩したものだからだ。
「宗教のシンボルっぽいわね」
「……連合にもう1つ、宗教がある?聖教以外の」
「暗殺教団だ」
「メルクリ!来てたのか」
「略すなっ!まだ君とはそんな仲じゃない」
「で?暗殺教団って?」
メルクリウスはさして仲良くもない相手に名前を略されたことに眉を寄せつつも。
模様を指でなぞりながら説明する。
暗殺教団、アンスロポス連合を蝕む癌にしてこの大陸に数多く存在する闇組織の中で。
最も大きく危険視されている組織だ。
「教団はアンスロポス連合でも活動してる、それはこの薬物が証拠だ。君はこれをどう思う?」
「多分……だがまだわからないな。レベッカにヤクを勧めた連中も構成員だったのか?そいつはどうしたんだ」
メルクリウスは小さく頷くと続ける。
レベッカが出会ったという、デクシア以外の薬をキメていた連中は路地裏で死んでいた。
死体は損傷が激しく、薬物によって死亡したように見えるが何か違和感があったらしい。
あの死体は「何か」によって殺された。
「……つまり、教団の誰かが殺したと?」
「そう考えるのが普通だ。そしてこの注射器……。
これは恐らくだが、暗殺教団の構成員に配られるものだと思う」
その刻印は暗殺教団の証。
崩れた梁の隙間から光が落ち、旧修道院の床に淡い三角形の影をつくっていた。
かつて祈りの場だったはずの空気は、今や湿りきった腐臭と黴の匂いに満ちている。
壁に刻まれた“蛇の紋章”を見つめながら、メルクリウスが低く言った。
「旧修道院が破棄された理由は簡単だ。……伝染病だよ」
「信者も司祭も、まとめて避難させられた。建物は数日で封鎖されたまま放置された。誰も戻りたがらない」
ガイウスが眉をひそめる。
“伝染病”という言葉に、空気がわずかに冷える。
メルクリウスは続けた。
「そして——こういう場所はね。寄り付きたいものにとって、絶対の隠れ蓑になるんだ」
「人が来ない、声が届かない、臭いも音も外に漏れない。暗殺教団が選ばない理由の方が少ない」
柱の影で、ヴィヌスが濡れた板を指先でなぞる。
舞台女優の観察眼が光る。
「……ここでハシーシュがポーションに混ぜられていた、そういう線もあるわね」
「見なさい、この木の腐り方。水をこぼしたあと、ちゃんと乾かさなかった舞台の床と似てる」
木目が黒く沈み、部分的に柔らかい。
人の往来ではなく、“液体を扱った作業”が頻繁に行われた痕跡。
旧修道院の静けさに、別の意味が生まれる。
この場所は、伝染病で見捨てられたんじゃない。
“闇の作業場”として生かされていた。
三人は息を潜め、腐った板の下の闇をじっと見つめた。
腐った空気がこもる旧修道院の中央あたり。
足元だけやけに板の色が違うことに、誰もまだ気づいていなかった。
ヴィヌスがふとガイウスの背を押すように言う。
「シェパード、気をつけなさいよ。あんた、デカいぶん重たいんだから」
「誰が重いんだよ。踏み抜くわけ──って、うわっ!!」
バキン、と乾いた破裂音。
ガイウスの足元の板が、まるで“誰かが切込みを入れておいたかのように”簡単に割れた。
彼の片脚がズボッと抜け、膝まで穴に落ちる。
「ほら見なさいって言ったじゃない」
ヴィヌスは呆れながらも、わずかに面白そう。
メルクリウスだけが眉を寄せ、割れた穴の縁に手を添えた。
「……ん? これ、意図的だ」
ガイウスが足を抜くと、床下に隠されていたものが露わになる。
埃と木片の下から、銀の器具、ガラス管、小さな木枠……
液体を調合するための“実験道具” が数点、整然と並んでいた。
ヴィヌスが息をひそめる。
「……ポーション用の器具じゃない?」
「ここで、混ぜてた……?」
メルクリウスは静かに頷く。
手袋越しに道具を取り上げ、光にかざしながら。
「恐らくね。液体の混合、攪拌、濾過……この材質は“薬液”相手じゃないと使わない」
そして、ガイウスへ向き直る。
その声は、珍しく評価のこもった柔らかさだった。
「よくやったよ、ガイウス君」
「審問の証拠はこれで十分だ」
ガイウスは穴の縁に手をついたまま、呆然と顔を上げた。
違法ポーション、暗殺教団、旧修道院。
三つの線が、いま初めて“ひとつの線”としてつながった瞬間だった。
メルクリウスはそこまで言うと、懐中時計を取り出して時間を確認し。
「……そろそろ戻らないとね、じゃあ僕は行くから!」
「あ!おい待てよ!!」
彼はそそくさとその場を後にする、残された2人は旧修道院の景色を見遣る。
何年も前に廃墟となった修道院は、不気味なほど静まり返っていた。
—
「ねぇリーダー……あのデクシアって子」
「ああ、サタヌスが言ってたな」
ヴィヌスの言うように、彼はリプカで出会った少年だ。
暗殺教団-アンスロポス連合を蝕む癌であり、その構成員は薬物中毒者が多い。
そしてこの旧修道院にいたのは恐らく、薬物を勧めた連中だろう。
しかし何故?暗殺教団構成員と思わしき人物がこのリプカにいるのか。
「ガイウス」
「おいデコ助!また居なくなりやがって、何してた」
「あの黒いガキ追ってたんだよ」
サタヌスは器用に、建物の間から突き出た配管にしがみついていた。
「何かわかったか?」と問うと彼は首を横に振る、しかしサタヌスは途中まで黒い少年。
デクシアを追っていた。そしてこの旧修道院で足取りは消えた。
「俺が追い回してると気付いて転移しやがった、悪賢いガキ。ありゃスラムでも生き残れるぜ」
「聖女様にお話するんでしょ?第四の勇者のお話」
シャルロッテは聖教でも最上層に位置する聖女、勇者の事情は知っているはずだ。
メルクリウスに聖痕が出ない理由も、なのに第四の勇者だと羅針盤が告げている理由も……。
「行くか。メルクリのやつ神官だからな、聖女様は当然知ってるだろ」
「あら?さっきメルクリって言うなとか怒られなかった」
「メルクリウスって長いだろ」
彼の中でメルクリウス=メルクリと決定仕切ったらしい。
今後どんなに彼が訂正を求めようがメルクリと言い続けるだろう。
勇者ってやつは……と思わず言いそうになるが、直ぐ自分もその勇者の一人だと思い直す。
「じゃあ、行くか」