「メルクリウス、ガイウスに加勢しなくていいのかよ?」
「いい。彼は強い、それに蛇が逃げるぞ」
「ん。そうだな」
メルクリウスとサタヌスは夜の闇を駆けていた。
違法ポーションを流通させる闇ギルド-蛇骨。
そのギルドマスターを討たない限りリプカへ安息は訪れずヤク中が蔓延るだけだ。
-蛇が逃げるぞ。とメルクリウスが言ったのは、蛇骨のギルドマスターが逃げるという意味だ。
「で?どうすんの?」
「決まっているだろう、蛇を捕まえて殺すんだ」
「……お前ってホントおっかねぇな」
サタヌスは呆れたように言うと、二人はさらに速度を上げて闇夜を駆けた。
-サタヌスとメルクリウスは走る。
闇夜を照らす月すらも欺くように、二人は息を潜め影を追う。
そして居た、蛇が居た。
まさに今キャラバン隊に紛れ、逃げ出そうとしている。
「その男を乗せるなああああああッ!!」
広場に、雷のような怒声が響き渡った。
それは、この国の誰もが一度も聞いたことのない音だった。
怒声が広場に響き渡った瞬間——
御者がビクリと肩を震わせ、反射的に手綱を引いた。
「う、うおっ!?」
前足を上げて嘶いた馬が、慌てて停止する。
車輪の軋む音だけが静かに残った。
沈黙。
一拍遅れて——広場の隅から、女性の声が震え混じりに上がった。
「あ、あれ……神官様……!?」
手を胸元で合わせ、呆然と見上げていたのは、
品の良い布を身に纏った信心深そうな年配の女だった。
視線が、広がる。
ざわ……と音にならない声が生まれる。
「神官……?」
「本物の……?」
その中で、商人風の男が顔色を変えた。
顔が、見る間に青ざめる。
「あれ……マズい、あれは神官だ。銀輪つけてやがる……」
「……クソ、しくじったか……」
その隣。
“荷物扱い”されていたジョンが、声を出せずに震えていた。
顔には脂汗。
肩が細かく震え、目は逃げ場を探して泳いでいた。
まるで“自分が切り捨てられたことを、ようやく理解した捨て犬”のように。
それでも、誰一人として、もう彼を馬車に乗せようとはしなかった。
“神官の声”が響いたという、ただそれだけの理由で。
商隊の者たちは一斉にビクリと体をこわばらせる。
荷を運ぶ手を止め、目を見開いたまま動けなくなる。
一人の男が、メルクリウスの叫びに思わず顔を上げた。
サタヌスだった。
「……な、なんだよ、今の……」
軽口を叩く余裕もない。
本気で怒鳴った神官の声に、サタヌスの肩がわずかに震えていた。
当のメルクリウスはというと、その場に立ち尽くしたまま、肩で大きく息をしていた。
怒鳴り慣れていない。
それどころか、あの声は魂ごと吐き出したような叫びだった。
目は据わり、瞼の奥が微かに揺れていた。
その姿はまるで、「神の理性」が一瞬だけ人間の感情に侵食された瞬間のようだった。
「……乗せるな……頼むから……」
次の言葉は、静かだった。
でも、その小さな言葉が誰よりも重く、誰よりも悲しげだった。
「良いからその男は乗せるな……!僕の言う事が聞けないなら……ッ!」
「わ、わかりました!おい、お前降りろ」
「あっ……!?」
彼がロザリオを掲げながら叫ぶと、キャラバン隊の人間達は困惑しながらも従う。
キャラバンの隊長が慌てて御者へ指示し、男-商人に化けたジョン・ ドゥを降ろし遠ざかる。
見上げる先にはロザリオを握り締め見下ろすメルクリウス、普段閉じている青い目は開き。
ハイライトの消えた目でジョン・ドゥを見下ろす。
ジョンは膝をついたまま、震えていた。
手を合わせ、歯の根が合わず、か細い声で何かを呟いている。
その前に立つメルクリウスは、ただ静かに手元を見下ろしていた。
右手には、白銀のガントレット。
神官の証でもあるそれは、指先までびっしりと金属で覆われた重装甲だった。
一つ一つの関節に細工が施され、
「握るため」ではなく、「赦すため」に作られた聖なる構造物。
だが——その形状は「殴るため」に使えば間違いなく凶器だった。
ジョンがわずかに視線を上げ、メルクリウスの目とぶつかった。
「し、神官様……っ、審問ですか……?ぼ、僕は、ただ……言われたとおりに……」
メルクリウスは口を開いた。
「では、誰に言われたのかを教えてもらおうか」
声は低い。
だがその低さが、心に響いた。
ジョンの肩がピクリと跳ねる。
「い、言えません……言ったら殺され……」
「今ここで黙っていれば、処される」
「言えば、救われるかもしれない」
言いながら、メルクリウスは手袋の甲でジョンの顔を軽く撫でた。
それだけで、ジョンは身を硬直させる。
「この手で癒すことも、殴ることもできる」
それが“神官の手”だった。
「君が信じるものは何か、見せてくれ」
ジョンは必死に言葉を捻り出すように口を開いた。
「わ、私は……リプカへの供給が絶たれたポーションを。
正規の手段で運ぶ仕事を……ただ、それだけの……」
その声音には震えがあった。
だが、対するメルクリウスの顔には、微動だにしない静けさがあった。
彼は一歩、前に出た。
ガントレットを組み、静かに告げる。
「リプカに流通するポーションの、九割以上にはハシーシュが含まれている。」
ジョンが言葉を飲む。
「つまり、君が運んでいたのは“薬”ではなく、“麻薬”だ。違うかね?」
ジョンの肩が震えた。
それは寒さでも怒りでもなく、暴かれたことへの恐怖だった。
「そ、それは……私は、それを知らな……」
「知らなかった?」
メルクリの目が細くなる。
「神の名の下に運んでいたのか? それとも金の名の下にか?」
ジョンは、黙った。
そしてその沈黙こそが、答えだった。
メルクリウスの問いに沈黙していたジョンの前へ、一人の少年が無造作に割って入ってきた。
サタヌスだった。
「……なあ、俺。変装のやり方、スラムのボスに教わったんだわ」
ジョンが顔を上げる。
サタは腕を組んだまま、ジョンを上から見下ろして続ける。
「ボスがさ、言ってたぜ。変装ってのは、目鼻のパーツは化粧じゃどうにもなんねぇからさ……」
「“雰囲気を変えろ”って。其処にいても不思議じゃねぇ奴に化けろってな」
メルクリウスがそれに頷く。
「TPOだね。」
サタがジト目で見上げる。
「難しい言葉使うな。俺バカだぞ」
それでもジョンの顔色は、見る間に青くなっていった。
“本物”たちに囲まれている。
言葉を選ぶ隙も、嘘を挟む余地も、もうどこにもなかった。
「……や、やめてください……私、本当にただの……!」
サタヌスが首を振る。
「本当に“ただの商人”なら、そんな汗かかねぇよな。」
ジョンの手がわずかに動いた。
何かを、懐に—しかし、その先の動きはもう許されなかった。
「な、なんで俺が闇ギルドだって分かったんだ……」
「もう言ったろう、僕は神官。リプカで知らぬことはない」
「……クソッ!俺が何をしたってんだよ!?」
「お前が知る必要はない。ただ-お前を審問にかけよう」
「な、何を……!?」
-審問。
アンスロポス連合の人間が死かそれ以上に恐れるものだ。
そのものが犯した罪を、隠してきた罪を神官は洗いざらい吐かせ-処刑する。
「なに、審問なら慣れているよ……人の苦しむ顔なら数えきれないほど見た」
「ひっ……!」
メルクリウスウスの口角が釣り上がる。
その瞳に光は無く、ただ闇が広がっていた。
「や、やめてくれ……俺は何もしてない!た、頼むから……」
「いいや-お前は罪を重ね過ぎた」
メルクリウスはロザリオを彼の首に掛けると、そのままガントレットで絞め上げる。
-審問は死かそれ以上の苦しみを伴う。
故に神官は拷問のプロである。その知識も、経験も豊富だった。
ジョン・ドゥは必死に抵抗するが、彼はすでに抵抗できるほどの体力など残されていない。
「供述に、矛盾が多すぎる。口にする言葉の中に、真実が1つもない」
メルクリウスの声は穏やかだった。
それでも、ジョンの目は恐怖に染まっていく。
「な、なんで……助けてくれたじゃないか……神官様……っ」
「君の魂を救うために、だよ。」
そして—メルクリウスの右手が、ゆっくりとジョンの首筋に触れた。
金属の冷たさが、肌に触れる。
ジョンは反射的に逃げようとするが、指先が1本だけ、喉元に留まっていた。
「……!」
次の瞬間、2本目の指が添えられる。
押さえつけるような力ではない。
ただ、置かれるだけの“重さ”。
3本目。4本目。
そして——ゆっくりと、5本目が並ぶ。
“全ての指が揃った”瞬間、神官の手はただの手ではなくなった。
ジョンの呼吸が止まる。
自ら吸うことすら、許されないような緊張に、喉が詰まる。
「君は……神の名を借りて、罪を重ねた。
だから僕は——神の名のもとに、君を赦さない。」
次の瞬間—ガントレットが一気に締まった。
「が……っ」
「苦しいか?だが、お前の罪はこんなものじゃないだろう?」
メルクリウスは首を絞める力を強める。
-審問に慈悲はない。
「あ……ぁ……マス……ター……アサシッ……ン……あの雌狐がぁ……っ」
最期の言葉はデクシアがマスターと呼ぶ存在こと、暗殺教団の頂・マスターアサシン。
彼は最期まで「雌狐」に恨み言を呟きながら息絶えた。
「……マスターアサシン」
「そいつが元凶ってことか?」
「らしいね。しかし情報がない……女ということ以外」
事切れたジョン・ ドゥを今一度見やる。
彼の顔は絞殺される苦痛よりも、自分を利用した存在への怨嗟に満ちていた。
「悪いな、邪魔して」
サタヌスはそう言うとキャラバン隊が去った方へ軽く会釈し、再びメルクリウスウスと走り出す。
プカの夜は更けていく。
闇ギルド・蛇骨は壊滅した。
まだ残党がいるかもしれないが、残党潰しはリプカのギルドや。
懸賞金目当てのハンターに任せるとしよう。
「で?結局あの雌狐って誰なんだよ?」
「……知らないよ。ただ、この男より邪悪な存在だ。いやこの国の誰よりも」
-リプカの夜が明ける- 朝が来た。
だがそれは安らかなものではないだろう。
これからアンスロポス連合は新たな脅威と向き合い。
そして乗り越えて行かなければならないのだから。
まだ空が黒から群青へ変わる途中。
誰もが口を閉ざしたまま、夜が息を潜めていた。
サタヌスがぽつりと呟く。
「……なんか、空気が重てぇな……雌狐の気配ってやつか?」
誰かの笑い声のような風が、どこかから吹き抜ける。
それが幻だったのか、本物だったのか、誰も確かめられない。
その中で、メルクリウスが小さくため息を吐いた。
「……夜ふかしは……神官には辛いよ……」
そう呟いて、目を閉じる。
まるで祈るように、静かに。
沈黙が数秒。
「おいおい神官様……ここで寝るなんて冗だ……マジで寝た!?おい!?」
サタヌスが目を丸くし、目の前で完全に脱力した神官の肩を軽く揺らす。
その横顔はどこか穏やかで、朝の光がその輪郭を照らしていた。
「まったく……お坊ちゃんかよ……」
そう呟きながら、サタヌスは肩で眠る神官をそっと背中へと担ぎ上げた。
リプカの町並みに、朝の光が差し込みはじめた。
淡い陽が石畳を照らし、街はまだ静かな眠気を引きずっている。
朝焼けの屋根の上。
石瓦に夜露が残り、足元がわずかに滑る。
サタヌスは背中の重みを確認して、眉をひそめた。
「……軽」
本気で言った。
クードスでの記憶が蘇る。
ずぶ濡れのガイウス、鎧と剣と濡れたマントで実質120キロ。
「うおおおおお重てぇぇ!!」と叫びながら、それでも担いだ。
何度も、本当に何度も。
肩に食い込む体重、息が切れる、膝が笑う。
だから今、背中にいる青髪は——背負った感覚が、ない。
あるにはある、でも軽い。軽すぎる。
腹黒神官の仮面も、理屈も、毒舌もない。細身の青年がそこにいるだけ。
「……寝やがって」
軽すぎると、逆にバランスが取りづらい。
「……お前ちゃんと食ってんのか?」
返事はなく、空は紫から橙へ変わっていく。
軽いからって、守らなくていいわけじゃない。
むしろ軽いから、壊れそうで。
サタヌスは歩き出す、背中に眠る神官を乗せて。
クードスの嵐も、暗殺教団も、聖女制度も、全部まだ続いている。
でも今だけは腹黒神官ではなく「眠るおぼっちゃま」だ。
そして担ぐ男は、120キロを知っている。
だからこそ、この軽さが妙に怖い。
運ぶサタヌスの姿を、通りかかった老婦人が目を細めて見つめていた。
「……まぁ……まるで救世主を運ぶクリストフォロスのよう……神々しい……」
サタヌスはちょっとだけ目を伏せた。
「やめろって……そういうの、苦手なんだよ……」
メルクリウスの寝顔を崩さぬように歩幅を落とし石畳を一歩ずつ、宿屋へと戻っていく。
その背中には夜を背負い、夜を越えた者の静かな誇りが宿っていた。