アンスロポス連合-ふたつの聖 - 1/5

風呂場から「妾の子~♪」の余韻がまだ残っている中。
脱衣所の前で、ニコルはタオルを握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
「……兄上」
呼びかける声は、ふだんの整った敬語より少しだけ震えていた。
「何だい、君も風呂の順番を待ってるのかい」
メルクリウスが、背後から言う。
その声には、からかいも、怒気も、何もない。
ニコルは一瞬、言おうとして口をつぐんだ。
けれど――。

(たぶん、これが最後の夜になる。母上は兄上を許す気などない)
そう悟ったニコルは、唇をぎゅっと結び、言った。
「……兄上、一緒に、入ってもいいですか」
沈黙。
ほんの数秒の、永遠のような静けさ。
やがて――メルクリウスは小さく息を吐いて、肩をすくめた。

「……まぁ、いいさ。今夜だけだ」
ニコルの目がぱっと見開いた。
「ですが、僕は歌は歌いません!」
「当たり前だ。あんな歌、頭に残ったら夜中にうなされるよ」
ふたりの笑い声が、脱衣所に微かに響いた。

湯気が静かに立ち上る、広くて静かな浴場。
ふたりきりの時間に、言葉も少なく、湯音だけが響いていた。
湯船の中で、ニコルは髪をほどいた。
いつもきっちり整えていた前髪が水にふわりと浮く。
「……僕、毎日同じ時間に起きて、朝の祈りのあとに帝王学の授業が始まって。
それが終わったら戦略論の訓練室へ行って。夜は教義を暗記して寝ます」
湯の音とともに、ぽつりぽつりと語られる言葉。

「僕がしていることは、全部“期待に応えるため”です」
「……期待に?」
「……そうじゃなければ、“兄上の代わりに生まれた意味”がないと思って」
メルクリウスは、何も言わなかった。
ただ、湯に沈めていた顔を上げ、眼鏡を外したまま――うっすらと、目を開けた。
いつもは閉じているような、その切れ長の目に。
どこか疲れたような、けれどやわらかい光が宿っていた。

「……君も、地獄だったんだな」
ニコルがびくりと肩を揺らす。
けれど兄は、もう何も言わなかった。
ただ、湯の温度と、弟の吐息の音を感じながら、静かに目を閉じた。
それは、この日初めての本当のリラックスだった。

湯気が立ちこめる浴場。
メルクリウスが湯船の縁に腰掛けて、ゆっくりと眼鏡を外した。
ニコルは少し距離を取って湯船に入るが、時折ちらりと兄の横顔を盗み見ていた。
「……あの歌、まだ頭に残ってるよ」
メルクリウスがボソリと呟く。
「え……兄上もですか?」
「まぁね。まさか“妾の子”がリフレインするとは思わなかったけど。」
「サタヌスさんたち、楽しそうでしたね。」
「うん……あんなに無邪気に茶化すのは、あいつらぐらいだろう。」
メルクリウスが苦笑いを浮かべた。

湯船の中で、ニコルがふと口を開いた。
「……兄上、あの人たちと仲がいいのですね。」
「……そう見えるか?」
「はい。僕の知らない兄上が、たくさんいるようで。」
ニコルがそう言うと、メルクリウスは少しだけ肩をすくめた。
「彼らが……僕を、普通に扱ってくれるからね。」
「普通……ですか?」
「そうだ。身分も、血筋も関係なく、ただの“仲間”として。」

ニコルは少しだけ顔を伏せ「僕も……仲間になれますか?」と、静かに尋ねた。
その言葉に、メルクリウスは少し驚きながらも。
「ニコルは、もう仲間じゃないか」と、微笑みながら返した。
「でも……兄上と、僕は違う。」
「……そうだな。君は正統な後継者だから。」
その言葉に、ニコルは小さくため息をついた。

「……僕、いつも“兄上の代わり”だと思ってました。」
ニコルが水面を見つめながら呟く。
「何があっても、兄上の代わりに責任を取る。
それが僕の生まれた意味だと、ずっと思ってました。」
メルクリウスが目を細めて聞いていると、ニコルは、声を震わせながら続けた。
「だけど、兄上があんな風に笑っているのを見て……少しだけ、羨ましいと思ったんです。」
「羨ましい?」
「僕には、あんな無邪気に笑える仲間がいないから。」
メルクリウスが一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「僕だって、あんな風に笑ったのは久しぶりさ。」
「そうなんですか……?」
「普段は冷静でいるのが習慣だからね。でも、あいつらが勝手に笑わせてくれるんだ。」

少し黙っていたメルクリウスが、ふと湯に沈めていた手を持ち上げた。
「……ニコル、無理に期待に応えなくてもいいんだよ。」
「……無理なんかじゃありません。」
ニコルが少しだけ強がるように言い返す。
「そうかもしれない。でも、それが辛いなら……誰かに弱音を吐いても、いいんじゃないか?」
「……兄上には、そういう人がいるんですね。」
「……いるさ。今は、ね。」

ニコルが湯船の中で、小さな声で呟いた。
「……僕には、兄上が必要です。」
メルクリウスはその言葉に少しだけ目を見開いたが。
すぐに柔らかく笑って「それは困ったな」と呟いた。

ニコルが先に湯浴みを終え-着替えてから暫くして。
湯気が立ち込める浴室から、メルクリウスが出てきた。
長い青髪をタオルで拭きながら、湿った前髪をかき上げ、軽くため息をつく。
ニコルが控えめに声をかけた。
「兄上……髪、拭きましょうか?」
「……いや、自分でやるよ。」

そう言いながらも、髪を乾かすのに手間取っている兄の姿を見て。
ニコルが小さな櫛を差し出した。
「……梳いても、よろしいですか?」
その申し出に、メルクリウスが少しだけ驚いた表情を浮かべた。
「いいのか?面倒だろう?」
「いえ……その、たまには。」
少し躊躇しつつも、メルクリウスは椅子に腰を下ろし。
ニコルが背後に立って、そっと髪を梳き始めた。

櫛が長い髪を通るたびに、わずかな引っかかりが生じる。
「……リプカではね、髪に魔除けの力が宿るという言い伝えがあってね。
だから、自然と伸ばすようになったんだ。」
「魔除け……ですか?」
「そう。外の世界から邪悪なものを退けるために。
長い髪を持つことが大切だと言われているんだ。」

櫛を通しながら、ニコルが微かに微笑む。
「兄上が長髪なのには、そういう理由があったんですね。」
「まぁ、あいつ(ヘルメス)は風習に縋る未熟者の証だというけどな。」
「……そんなことはないです。兄上の髪はとてもきれいです。」
ニコルが少し強めに梳きながらそう告げ、メルクリウスが少しだけ目を伏せ。
「……そうか。」と短く答えた。

ニコルがふと、照れくさそうに呟いた。
「初めて見た時、その……女性かと思いました。」
「女性か、それは言い過ぎだよ。」
「ですが、本当にきれいで……少し、羨ましかったです。」
メルクリウスが微かに微笑みながら、女性に見えた?というように眉を軽く上げる。
「僕が……女性に見えた?」
「はい、横顔が綺麗で……だから、“兄上”だと聞いたとき、少しだけ戸惑いました。」
ニコルが照れながら言葉を続けると、メルクリウスは少しだけ困った顔をしながら。
「まぁ、確かに……こうして手入れしてると、時々そう言われることもあるけどね。」
その声には、どこか照れが混じっていた。

櫛が絡まりに引っかかった瞬間、メルクリウスが少し痛そうに顔をしかめた。
「……ニコル、そこ……絡まり易いんだ、しっかり頼むよ。」
「す、すみません!」
ニコルが少し焦って、慎重に櫛を通す。
「痛くないですか?」
「大丈夫だ。もう少し丁寧に梳いてくれたら、なおいいけどね。」
「はい……。」
ニコルが少し恥ずかしそうにしながら、それでも真剣に髪を整える。
湯気がまだ薄く漂う部屋で、兄弟の会話が静かに続いた。

「……ニコル。」
「はい。」
「たまには……こうやって誰かに髪を梳かれるのも、悪くないな。」
「そうですか?」
「うん、少し気が楽になる。」
「兄上の髪は、とても柔らかいです。」
ニコルが微かに微笑み、その言葉にメルクリウスが照れくさそうに頷いた。
髪がきれいに整ったところで、メルクリウスがふっと息を吐き出した。
「ありがとう。……少し眠くなってきた。」
「はい、おやすみなさい。」
ニコルが静かに礼をして部屋を出ていく。
一人残されたメルクリウスは、整った髪をそっと撫でながら。
「……久しぶりだな、こんなこと。」
小さく呟き、ベッドへ横になった。
夜の静けさの中で、わずかな安堵が心に広がっていた。

—–

夜更け。
全員が寝床へと静かに散っていったあと。
メルクリウスだけが一人、部屋の隅に跪いていた。
灯を落とした室内で、淡く揺れる蝋燭の炎の前に手を組む。

「主よ、今日も導きをありがとうございました」
静かな祈り。
それは神官である彼にとって、眠る前の務めのようなものだった。
けれど、祈りの最後-ふと、彼の口から、聞き慣れない一節が零れた。
「……阿那 八娃灌娩(あなや ばんじょうかいまん)」
その音を自分の口が発した瞬間、メルクリウスの眉が微かに動いた。
(……これは?)
どこかで聞いた。そう、今日――ニコルが話していた。
“転校生たち”が唱える、奇妙な祈りのような言葉。
全く意味はわからない。
だが、神官としての本能が告げる。

(これは、“何かに祈っている句”だ)
けれど――“何に”祈っているのか、それが一切わからない。
言葉は、祈りであると同時に、鍵でもある。
その鍵が、何を開ける扉なのかを、彼はまだ知らなかった。
背中に、ほんの僅かに悪寒が走った時。

「なぁメルクリ!!」
不意に、扉越しに聞こえる声。
サタヌスだった。
「ん?」
メルクリウスは少しだけ驚いたが、表情は崩さず返す。
「カタパウシスてカフェのモーニングが旨いって、ニコルが教えてくれたぜ?何時に起きる?」
静寂は一瞬で破られた。
だが、それが少しだけ心を落ち着けた。

「……6時にしよう。ニコルは明日も学校だからね」
蝋燭を吹き消しながら、メルクリウスは、夜の静けさに背を向けた。

「……僕には兄上が必要です。」
その言葉が脳裏に浮かぶたび、
メルクリウスの胸には、ほんの僅かな温かさが残っていた。
「必要、か……」
思わず呟きながら、彼は少しだけ笑った。
やがて、静かな寝息が部屋に満ち、
長い夜がゆっくりと明けていった。