アンスロポス連合-ふたつの聖 - 2/5

夕食の片付けが終わる頃には、離宮は再び静寂に包まれる。
銀食器は一つ残らず磨かれ、床には埃ひとつない。
浴槽も同じだ。湯の名残を残さぬよう、丁寧に、念入りに。
エリスは最後に、部屋を一度だけ見回した。

「では、わたくしはこれで」
その声は、いつも通り柔らかく、感情の揺らぎはない。
扉に手をかけ、振り返る。
「翌朝六時に戻ります。おやすみなさい、聖女様」
シャルロッテは微笑んで頷く。
それ以上、何も言わない。言えない。

扉が閉じる。
足音は廊下の角で、すぐに消えた。
そして今日も、シャルロッテは一人で眠る。
勇者四人を追い出したのは、エリスが冷たいからではない。
離宮には、彼女が眠るためのベッドしかない。
客人用の寝台も、侍女用の簡易寝具も、最初から存在しない。

部屋の中央には、最高級の素材で作られた天蓋付きのベッド。
白く、清らかで、完璧で――けれどそれはどこか、
眠るための場所というより、閉じ込めるための檻に見えた。
エリスは侍女だ。
主人のいる部屋で寝食を共にしない。
それは誰にでも理解できる、納得のいく理由。

……だが、それだけではない。
彼女が夜の離宮から姿を消す本当の理由は“エリス”を脱ぎ捨てるため。
あの穏やかな微笑みも、母のような声音も、従順な侍女という役割も。
すべてを置いていき、彼女は“本性”に戻る。
闇の中で、冥王は再び、祈りを唱える。
聖女は白い天蓋の下、一人きりで目を閉じる。

同じ夜に、誰かは守られ、誰かは縛られ。
誰かは“狩る側”へと戻っていく。
静かな夜だ。
だからこそ、この世界は、確実に壊れ始めている。

-暗殺教団 総本山
静寂の地下聖堂。
蝋燭の炎が、円陣を描くように並べられている。
そこに集ったのは十数名の信徒たち。
全員、顔を伏せ、声を揃えて詠じていた。

「降魔散界」
「闇是隷光魔奉懺」
「闇是淫祈帝法」
「賦阡覇羅蜜陀」
「妙楽加持祈祷」
「天座旬皇尊」
「大明呪言」
「無上霊宝印」
「――阿那 八娃灌娩」
声が止む。
その場に満ちたのは、祈りの“余韻”ではなく、呪詛の“澱(おり)”だった。
沈黙を破ったのは、祭壇の前に立つ少年のような少女。

その者の手が、ゆっくりと宙を切るようにして動いた。
細く白い指が交差し、絡み合い――。
まるで「子を宿す器」のように、両手が神聖とも、淫靡ともつかぬ円環を描く。
胸元に露わとなった黒い核(コア)の前で。
それは“生命を捧げる契約”にも、“呪いを産み落とす儀式”にも見えた。
「――阿那 八娃灌娩(あなや ばんじょうかいまん)」
唇から紡がれるその言葉と同時に。
指先はそのまま”子宮”にも似た祈りの印(いん)を描いた。
暗殺教団の礼拝堂。灯火は揺れ、影が幾重にも重なってゆく。
少年少女の信徒たちが一斉に唱える、恐ろしき“祈りの句”。

ゾルクォーデ邸の夜は、音がない。
聖地特有の静けさ――いや、歓迎されていない家の沈黙だった。
メルクリウスは、まだ暗いうちに目を覚ましていた。
隣でガイウスは相変わらず、死んだように眠っている。
戦いの後でも、旅の途中でも、彼は一度眠ると驚くほど無防備だ。
――だからこそ。

メルクリウスは、足音を立てずに近づき。
ベッド脇に置かれたバックパックに手を伸ばした。
罪悪感はない、あるのは確認だ。
留め具を外すと、中は拍子抜けするほど雑然としている。
替えの服、乾いたパン、使いかけのポーション。
そして――あった。

掌に収まる、円盤状のそれ-アストラ・コンパス。
アルキード王国の国宝。
数々の英雄譚を生み、同時にいくつもの悲劇を記録してきた遺物。
近くで見るそれは、伝説に似つかわしくないほど静かだった。
派手な光も、脈動する魔力もない。
冷たい金属の重みと、精密すぎる刻印。
まるで――最初から感情など持たないことを前提に作られた道具。

メルクリウスは、両手でそれを包み込むように持ち、ゆっくりと視線を落とした。
針が、わずかに震える。
向こうを指そうとして止まり、別の方向へ傾きかけて迷う。
まるで「彼」を指すかどうか、考えているかのように。
急かす気はなかった。
問い詰めるつもりも、答えを引き出すつもりもない。

メルクリウスはただ、静かに見下ろしていた。
脳裏をよぎるのは、150年前の記録。
光に満ちた言葉。正しさに満ちた声。
剣を握り、民に叫ぶ女の姿。
――エイレーネ。

針の揺れが、ほんの一瞬だけ止まる。
メルクリウスは、ほとんど独り言のように、呟いた。
「人は、過ちを繰り返す生き物……というわけか」
針は決めきれないまま、沈黙を保っている。
それでいい。今は、まだ。
メルクリウスはコンパスを元の場所に戻し。
バックパックの留め具を閉じた。

この男が何を壊し、何を救うのか。
その答えを、アストラ・コンパスは、まだ保留している。

地下聖堂の祈りは、最後の一句とともに静かに溶けた。
蝋燭の炎が揺れる。
煙が、天井へゆっくり昇る。
呪詛は終わった。
暗殺教団の夜は、いつも通り、粛々と閉じる。

ローブを脱いだアサシンたちが散っていく中、デクシアだけが立ち止まった。
「ねぇマスター」
少しだけ、躊躇うように。
「マスター、なにかほしい物ってある?俺買ってくるよ、なんでも!」
周囲の信徒が一瞬、息を止める。
“欲しい”などという言葉は、ここでは軽すぎる。
プルトは、ゆっくりと振り向いた。

いつもの柔らかな笑み、母のような声音。
「私ですか?特にありませんよ」
さらりと返す。
「強いて言うなら、勇者の首でもいただければ十分です」
くすり、と笑う。
信徒たちが安堵と緊張の混じった息を吐く。
それはいつもの冥王、冗談めかした、冷たい本音。

「わかったマスター!あの三勇者をなるべく早くぶっ殺すね!!」
デクシアは自身に気合を入れるように、拳をぐっと握る。
足音が遠ざかり、灯が一つ、また一つと消されていく。
やがて地下聖堂は闇に沈む。

プルトは、ゆっくりと胸元に手を当てた。
そこにある黒い核ではない。
もっと奥、もっと深い場所。

エレボスが、数度だけ話してくれた。
「お前の母はな」
珍しく、酒に酔っていなかった夜。
「……あの石。ルーメン・エルと同じ色の瞳だ」
それ以上は語らなかった。
名前も、死因も、どこにいるのかも。
ただ、青だった、と。

地下の闇の中で、プルトは目を閉じる。
冥王の顔が、ほんの少しだけ崩れる。
「……お母さん」
声は、子どものそれに近い。
「お母さんが、ほしい」
冥王が欲しがるのは兵器ではない、象徴でもない。
“母”だ。

炎はまだ遠くで揺れている。
だが、この記憶の中では、まだ燃えていない。

シャルロッテは白い礼装のまま、少し不器用に鎖を持ち上げていた。
朝の光が、窓から差し込む。石造りの回廊はまだ静かだ。
隣に立つエイレーネは、剣を背に、どこか居心地悪そうに笑っている。
「どう、エイレーネ?せっかくだから、貴女の色に合わせたのよ」
手のひらに揺れる雫型の宝石、深く澄んだ青。
海でもなく、空でもない、誰かの瞳の色。
エイレーネは目を丸くした。

「私に!?聖教のシンボルになるんだよ。金色にしなくちゃ!」
笑いながら、しかし半分は本気で言う。
金は栄光、勝利、神の光。
だが、シャルロッテは首を横に振る。
「いいえ、この色がいいわ」
彼女の指が、青い宝石を胸元へと留める。
金糸の縁取りの中で、その青は静かに呼吸している。

「私たちはどんなに離れても、互いを思いあえる」
その声は、祈りではなく、約束だった。
「そして、この青はいつか……私たちが、道をたがえたときも」
遠くで鐘が鳴る。
訓練場から兵士の掛け声が聞こえる。
世界はまだ壊れていない。
エイレーネは、冗談めかして肩をすくめた。

「道を違える?そんな日来ないって」
でもその言葉の奥に、わずかな不安があった。
勇者は前に進む者、聖女は国に留まる者。
進む者と守る者、その差はやがて溝になる。
シャルロッテは、ただ静かに微笑んだ。

「もし来ても、これがあるわ」
青い宝石が、朝の光を受ける。
それは“信仰の色”ではなかった。
“勝利の色”でもない、それは赦しの色。
だからルーメン・エルは青い。

それは聖女の象徴ではない、勇者との友情の色。
互いが敵になったとしても、殺しきれない想いの色。