アンスロポス連合-ふたつの聖 - 3/5

午前六時三十分。ゾルクォーデ邸・客室。
窓の向こうはまだ薄闇に沈んでいたが、聖都の空気は澄みきっていて、遠くから鐘の音が微かに届く。
そんな静けさの中、布団からひょこっと顔を出したのは、メガネを外した長髪の美青年。
普段はきっちり束ねている髪を解き、白シャツのままのその姿は――まるで別人だった。
「……ガイウスくん」
小声で囁く。
「んあ……?」
寝ぼけた声で振り向いた赤髪の剣士が、目を凝らす。
「ニコルが起きる。出よう」
そこには、夜の間に変身を遂げた。
というか、髪を下ろしメガネを外しただけのメルクリウスが立っていた。
肩口から流れる水色の髪、シャツの胸元、そして相変わらずの知的な雰囲気。
しかし何より目を引くのは――とんでもない美人具合だった。

「……何この長髪男」
「メルクリウスだよ」
「うっっっっそだろ!?」
寝起きのテンションでは処理しきれなかった。
「お前、髪下ろすと誰? 美人過ぎない!?」
「普段もしてるけどね」
「いや、なんかこう……あれ、雰囲気変わりすぎじゃない? もしかして裏の顔ある系?」
「あるよ? 変態神官ってよく言われる」
「自己申告!?」
そんなやりとりをしているうちに、部屋の奥でニコルがごそ、と寝返りを打つ。
メルクリウスは相変わらず糸目のまま、表情は読めない。
だが読めないなりにも分かった。
-弟が起きる、早く出るぞ。と言っている。

「……行こう」
「りょ、了解……長髪神官さん……」
メルクリウスの静かなプレッシャーに押されるように。
ガイウスもベッドから這い出し、寝癖を手で整えるのだった。

「君たち、朝だよ。朝までって約束だったろ」
メルクリウスが静かに告げると、奥のベッドの下で何かがぴくりと動いた。
否、それは“ぴくり”というより、“でろり”と、重量物が崩れた音に近い。
「……って、サタ!?」
そこには、ベッドから落ちたまま、うつ伏せで爆睡しているサタヌスの姿があった。
腕と足が変な角度で投げ出され、顔は床にめり込み、かすかに寝息を立てている。

「こいつ寝相悪すぎない?」
ヴィヌスが眉をひそめながら、ベッドの端から覗き込む。
「てか……」
隣にいたガイウスの目が、ヴィヌスへと移る。
「お前のすっぴん、初めて見た」
その一言に、ヴィヌスの眉がぴくりと動いた。

「……言い触らしたら、メギ・ドラ撃つよ」
「脅しのレベル高ぇな!? ってか朝から魔法やめて!死ぬ!!」
「大丈夫。直撃させなきゃ合法よ」
「合法じゃないからね!? それ殺意の塊だからね!?」
その頃、メルクリウスはというと。
床に転がるサタヌスの頭をつま先でちょん、とつついていた。

「……起きて。ほら、ニコルが起きる」
「……ふご……ごぅ……」
「ダメだこの人」
サタヌスは起きなかった。
メルクリウスの指先による優しい“つつき”も虚しく。
彼は床と同化するかのように熟睡し続けている。

「こいつ、一度寝付くとマジで起きねぇんだよな……」
ガイウスがため息をついて頭をかいた。
「彼が絶対に反応する音って……なんだい?」
ガイウスが突然閃いた顔をする。
「そうだ、サタが絶対起きる方法があった!」
「何?」
「スラムの親分の声だよ!
あいつ、寝てるときに“ボス”の声聞くと絶対跳ね起きるから!」
ヴィヌスが驚いた顔で振り向く。
朝からあの荒くれ没落騎士の声を出せって言うのか、という顔だ。

「はぁ!? 朝からそんな声出せって?」
「いや、お前ならできるだろ? 女優だし。」
「はあ!? 朝からそんなのやるの? 私が!?」
「いやでも、このバカ起こすためにはさ……」
「……くっだらない。でもまあ……仕方ないか」
ヴィヌスが深呼吸した。
銀髪をかき上げ、腰に手を当てた瞬間、声が男のように低くなり。
その口から放たれたのは――スラム親分そのものの声だった。

「サータぁ!! いつまで俺のベッドで寝てる気だぁ!? コラァッ!!」
部屋中に轟く怒声。
その瞬間、床に倒れていたサタヌスが。
「ッ……ッッッッ!?!?」
跳ね起きて、目をギンギンに見開いた。
「ボスぅううう!? 俺、昨日はちゃんとしてたじゃん!?
挨拶もしたし掃除もしたしご飯も残してないしぃ!!」
完全に“怒られたガキ”そのものの反応。

ガイウスが腹を抱えて大笑いし、
「うわっ、マジで似てるし、超ビビってんじゃん!」
ヴィヌスが少しだけ良心の呵責を覚え「……なんか、ごめん」と呟いた。
サタヌスはまだ現実を理解できず。
「ボスじゃねぇ……? え? ここどこ? 邸宅?」
完全に混乱している。

ガイウスがヴィヌスを見ながら、アルルカンで出会ったあの荒くれ騎士を思い出す。
声のトーンだけじゃない、腰に手を当てる動作までそっくりだ。
「いやお前、マジでスラムの親分そのものだったぞ。
声真似の才能あるんじゃねぇ?」
「……演技力ならあるけど、あんな怖い声出すの疲れるわ。」
メルクリウスが紅茶を啜りながら一言。
「演目タイトルは“起こしてはいけない男を起こす方法”だね。」
「やかましい!」
サタヌスが怒りながらも。
「でも、似てた……マジでボスかと思った……」
とぼんやり呟いた。

その時、廊下から犬がやってきて、メルクリウスにすり寄った。
「おはよう……君も起きたんだね。」
メルクリウスが優しく撫でると、犬はくぅんと甘えた声を出す。
「……お前もボスにビビってたのか?」
サタヌスが犬に問いかけると、犬は尻尾を振った。
「……動物もビビるレベルの声真似かよ。」
ガイウスがまた大笑いする。確かにあの怒声は凄まじかったなと。
「ヴィヌス、最高だな!」
「はいはい、もう勘弁してよ。」
ヴィヌスが少しだけ恥ずかしそうに言いながら。
朝のゾルクォーデ邸には再び穏やかな空気が戻った。

サタヌスの騒動もひと段落し、再び邸内に静けさが戻った。
廊下には柔らかな朝日が差し込み、白亜の壁を仄かに照らしている。
その光の中、メルクリウスは青い神官服を纏って戻ってきた。
髪は再び丁寧に束ねられ、頭には銀の輪――あの神官の正装が輝いている。
「……いつものメルクリに戻ったな」
ガイウスがぼそりと呟くと、メルクリウスは眼鏡の奥で小さく笑った。
「そう見えるように、ちゃんと整えてるからね」
その足元には、一匹の犬がいた。
賢く優しい目をしたその犬は、彼を見上げ――くぅん、と小さく鳴いた。

「……ありがとう」
メルクリウスはしゃがみ込み、そっとその頭を撫でた。
「僕を……覚えていてくれて」
犬は尻尾をゆっくり振る。懐かしい匂いと、安心する気配。
それはきっと何年も前に、一緒に過ごした短い日々の記憶だった。
「ニコルをよろしく頼むよ。あの子は、強がるから……君が傍にいてくれると、助かる」
そう言って、優しく微笑む。
犬はその言葉に応えるように、彼の手に鼻をすり寄せ――ふたたび、くぅんと鳴いた。

「……行こうか」
メルクリウスは立ち上がり、背筋を伸ばした。
邸宅の扉が、静かに音を立てて開かれる。
彼の後ろを、ガイウス、サタヌス、ヴィヌスが順に続く。
扉の外には、聖都の朝が広がっていた。

—教皇庁・離宮

「シャルロッテ様、今日は勇者様がいらっしゃるので、朝食はいつもより少し早めです」
柔らかな声でそう告げたのは、侍女のエリスだった。
銀の食器が丁寧に並べられ、テーブルクロスには教皇庁の紋章が刺繍されている。
整えられた空間。磨き上げられた窓。どこまでも完璧な、絵に描いたような朝の食卓。
けれど――そこに、心の温度は感じられなかった。

シャルロッテは微笑みで礼を返し、ナイフとフォークを手に取る。
皿の上には、いつものように焼き立てのパンと、上品なローストビーフ。
しかし彼女はそれを見つめたまま、ふと――ナイフを横に動かした。
パンに、切れ込みを入れる。
無意識のうちに、その中へレタスを挟み、ローストビーフを重ねる。

それは格式ある教皇庁のメニューとはほど遠い。
だが、あの時勇者たちと一緒に屋台で食べた。
素朴であたたかな“ホットドッグ”のかたちだった。
「……勇者さま……」
ぽつりとこぼれた声は、誰に届くこともない。
けれど、確かにそこには――“寂しい”という感情があった。

パンにレタスとローストビーフを挟んだ“即席ホットドッグ”を前に。
シャルロッテがぼんやりと目を落としていると。
その背後から、すぅ、と気配が滑り込んだ。
「いけませんよ。そんな下品な食べ方」
柔らかく、優しい声だった。
けれど、その言葉の端々には、どこか母親のような“絶対性”が滲んでいた。

「お食事は正式な作法でいただきましょう?
今日はいよいよ、勇者様方が公式にお越しになる日です」
エリスは微笑んでいる。
いつもの通りの、静かな侍女の顔。
けれどその目は、シャルロッテの手元をぴたりと見つめていた。

「……ええ。ごめんなさい」
シャルロッテは気まずそうに、パンに添えていたナプキンを外した。
そこには、少女のような無邪気な失敗と、誰かに“見られていた”ことへの居心地の悪さがあった。
「お母様みたいね、あなた」
思わずこぼれたその言葉に、エリスは少しだけ首を傾げる。

「まあ。それは光栄です。聖女様はまだ、お若いのですから」
その声色は変わらず柔らかい。
だが、それは“導き”というより“誘導”に近いものだった。
シャルロッテの表情が少し曇る。
それでも彼女は、再び姿勢を正して食器を手に取った。

「……行きましょう。民が、待っていますわ」
「はい。いつものように、美しくお振る舞いくださいね、聖女様」
そして、控えめな微笑を浮かべたまま、エリスはシャルロッテの背へと寄り添うように立つ。
その仕草は、忠義にも見える。
だが、角度によっては――操り手が、人形の背中に手を差し込むようにも見えた。