パンの焼ける香りと紅茶の湯気。
テーブルに運ばれてきたモーニングは、思った以上に“普通”だった。
目玉焼きにサラダ、パンはほんのりバターが香る。
「……うん、ちゃんとうまいな」
ガイウスが頷く。
「Aセット、完璧に朝って感じ」
サタヌスは大口でパンをかじる。
「案外……まともね」
ヴィヌスも表情を崩さないまま紅茶をひと口。
そこへ、ひときわ慎重に運ばれてくる一皿ずつ。
「はいは〜い♡ お待たせっ!」
アリスが運んできたのは――主役とも言えるケーキたちだった。
「まずは“シャルロッテ”!」
透明感のある紅茶のジュレ、白金のようなミルクティームース。
その上には小さな金箔の十字が乗っていた。
「“女神の盾”をイメージしてるの♡
気品と祈り、誰にでも優しくて、でも決して触れられない――そんな存在をね♡」
次に、“エイレーネ”。
黒いグラサージュで飾られた、シンプルで重厚なチョコレートケーキ。
中には白系のバター生地が覗き、間にサンドされた薄いパンケーキには蜂蜜とバターの香り。
「こっちは“エイレーネ”♡」
アリスは笑顔のまま、少し声を落とす。
「純粋だったのに、ひとりで背負って堕ちちゃった。
ビターで、でもどこか幼くて優しい味……禁忌の名にピッタリでしょ♡」
言葉の最後に、ほんの僅かな“愉悦”が混じった。
「……わりとストレートなコンセプトじゃね?」
サタヌスが小声で突っ込む。
「この教皇庁の近くでこの名前は……」
ヴィヌスが紅茶をすすりながら遠い目をした。
「……この店、やっぱり普通じゃないかもな」
ガイウスはフォークを持ちつつも、ちょっと構えた表情になる。
アリスは笑った。まるで何も知らない少女のように。
「そういえばぁ」
アリスはケーキワゴンを押しながら、くるっと振り返った。
声はいつも通り、砂糖多め。
「勇者さまがニア・アンスロポスに来た!って、街じゅう大騒ぎだったんだよね~」
「それでさ。ダークエルフの勇者がいる!って」
「教会のお偉いさんたちがザワついてるんだって♪」
ケーキの銀皿が、ちいさく鳴る。
ヴィヌスは紅茶を置いた。
表情は変えない。声も、感情の温度を落としたまま。
「そりゃ驚くでしょうね」
「ダークエルフなんて、この国じゃ禁忌の象徴だもの」
視線だけで、窓の外を示す。
白い尖塔、天使像、完璧な聖都。
「大方、宗教屋のおじさまたちは“どう説明するか”で頭を抱えてるわ」
「奇跡にするか、例外にするか……それとも、見なかったことにするか」
アリスは「だよね~♡」と軽く笑い、
そのまま何事もなかったかのように、ワゴンを押して奥へ向かっていった。
――その背中を見送りながら。
ヴィヌスとサタヌスは、ほんの一瞬だけ目を合わせた。
言葉は出さない。
今ここで声を出すのは、よくない。
理由は分からない。ただ、直感がそう告げていた。
サタヌスが、テーブルの端に置かれたレシートを引き寄せる。
ペン先が、紙の上を一瞬だけ走った。
《あの子、メキア系? それとも日焼け?どう思う》
それを、そっとヴィヌスの方へ滑らせる。
ヴィヌスは一瞥したあと、何も言わずに受け取った。
ほんの数秒、視線を落とし――今度は彼女が、短く書き足す。
《……どっちでもない可能性もある》
紙を返す。
サタヌスが眉をひそめる。
《血?》
ヴィヌスは首を横に振った。
ペンを取らず、今度はただ、レシートの端を指で軽く叩く。
《染まった色》
二人の視線が、同時に厨房の方へ向く。
甘い匂い。
楽しげな声。
砂糖菓子みたいな笑顔の奥で、何かを量っている気配。
サタヌスが、喉の奥で小さく息を吐いた。
「……触らない方がいいタイプだな」
ヴィヌスは、答えなかった。
ただ静かに、冷めかけた紅茶を一口飲む。
その向こうで、アリスの声がまた弾む。
「は~い♡ 次はどのケーキにする~?」
――日焼けか。
――血か。
――それとも、もっと別の何かか。
誰も、答えを口にしなかった。
そしてそれが、このカフェで一番賢い選択だった。
厨房の奥。パンが焼ける香ばしい匂いと、チョコレートを湯煎する甘い湯気が漂う空間。
その中心で、アリスはくるくると軽やかに動いていた。
手際よく卵を割り、泡立て器を回しながら。
「うーん、勇者ズって……カリスト様を退けたって聞いたのよねぇ〜」
鼻歌まじりの声は、まるで朝の平和な調理風景。
だが、その口調には確かな興味と、薄い“狂気”が滲んでいた。
「つまり、超強いじゃん? 無理♡」
泡立て器がピタリと止まる。
「直接狙うとか絶対ムリ〜♡……だから、狙うのは」
手を止め、彼女はそっと厨房の小窓から覗く。
カフェの向こう、窓辺の席に座る勇者たち。
その中の一人、眠そうにフォークを握り紅茶をすする男。
青い神官服。長い髪。眼鏡の奥の目は、閉じられていて――油断だらけ。
アリスの瞳が細まる。笑みのまま、何も言わず、ただじっと“彼”を見つめていた。
メルクリウス。
「……ねえ、マスター。あの人さ、すごくすごく“ちょうどいい”と思わない?」
ひとりごとのように呟き、手を動かし始める。
「でも、まだよね……まだ観察が足りない。せっかくの“未覚醒”なんだから、上手く使わなきゃ♡」
チョコのグラサージュをナイフでそっと整えながら、彼女は微笑んだ。
「だって“勇者”って……崩れると、ホント綺麗なんだもん♡」
その声は甘く、とろけるようで―まるでケーキの中に隠された、毒のようだった。
食後の紅茶が運ばれ、ひとしきり笑い声が満ちたカタパウシスの朝。
「は〜い、お会計はテーブルで大丈夫だよ〜♡」
アリスが笑顔でお盆を持ってやってくる。
メルクリウスが細かく仕分けた銀貨をさっと差し出すと、彼女はぱちんと指を鳴らした。
「また来てくれたら、次はオムライスに絵、描いてあげるね♡」
「え、マジで……」
ガイウスの目が一瞬キラッと光る。
「楽しみ……」
背後から凍てつくような視線が刺さった。
ゆっくりとガイが振り返ると、そこにはヴィヌス。
完璧に無表情で、完璧に引き攣った笑みを浮かべたヴィヌス。
「な、なんですか?」
「目が、とてもキラついてるのが……気になってね?」
「やばいって。目が冷気出してる」
サタヌスがそっと囁く。
「なぁ、ヴィヌス。おまえ今、軍帽かぶったら? 絶対似合うって」
ヴィヌスの目が見開かれた。
「……はあ!?」
「だってその目、完全にカリストだったぞ」
「カリストじゃないと言ってるでしょおおお!!」
拳を振り上げ、完全にフルボイスで怒鳴った。
ガイとサタは背筋を伸ばして同時に敬礼した。
「申し訳ありませんッ!!」
「行くわよバカ共!!会議遅れるでしょーが!!」
怒号と共に、ヴィヌスに首根っこを引っ張られるようにして、三人の男は店を出て行った。
アリスは笑顔のまま、指をくるんと回して手を振る。
朝の聖都は、まだ静かだった。
けれど、確実に何かが動き出している。
彼らの向かう先は――教皇庁。
その背後で、アリスは静かに手を振る。
「いってらっしゃ〜い♡」
けれどその笑顔の裏で、ふわりと呟いた。
「……“未覚醒の勇者”。やっぱり、いいねぇ♡」
店を出ると、聖都の朝の空気は思ったより冷たかった。
石畳に残る夜の名残。
パンと砂糖の匂いが、背後でふっと途切れる。
歩きながら、ヴィヌスは不意に昔のことを思い出した。
――吹雪の日。
外に出られず、暖炉の前で丸くなっていた幼い自分。
グランマは編み物を止めて、歌うみたいな調子で童話を読んでくれた。
男の子って、なんでできてる?
カエルに、カタツムリ、
それから――子犬のしっぽ。
そんなもので、男の子はできてるよ。
女の子って、なんでできてる?
お砂糖と、スパイス、それから――素敵なものすべて。
そんなもので、女の子はできてるよ。
当時は、ただ可愛い歌だと思っていた。
意味なんて考えなかった。
子どもだったし、寒かったし、グランマの声は優しかった。
……でもヴィヌスは歩きながら、ほんの少しだけ口角を下げる。
お砂糖。スパイス。素敵なもの。
今朝のカフェに、全部あった。
甘い笑顔、軽やかな声、丁寧に盛りつけられたケーキ。
――そして、その奥に隠された刃。
「……童話って、優しい顔してるくせに」
小さく呟く。
隣を歩くサタヌスが、首を傾げた。
「なに?」
「なんでもないわ」
ヴィヌスは前を向いたまま答える。
童話は嘘をつかない。
ただ、全部は言わないだけ。
お砂糖だけで出来てる女の子なんていない。
スパイスだけでも足りない。
“素敵なもの”の中には―ナイフも、毒も、計算も、全部含まれている。
“可愛い”という言葉で包んだだけ。
ヴィヌスの脳裏に、アリスの笑顔がよぎる。
ハート付きの声、無邪気なウインク、そして測るような視線。
(……なるほどね)
あの子は、童話の続きを知っている側だ。
お砂糖とスパイスで出来た女の子が、どうやって生き延びるかを。
「男って……」
さっきの言葉を、今度は心の中で繰り返す。
そして付け足す。
――女の子も、ね。
童話よりずっと、この世界はよく出来ているのだから。