アンスロポス連合-冥府の島へ - 2/5

廊下に沈んだ足音。
リュコスは片手を挙げて聖女に声をかける。
「よぉ。顔合わせは久しぶりだね、聖女様」
シャルロッテは硬い笑みで振り返る。
「……アルネリオス団長」
「猊下は生きているかい?」
「生きてはいます、しかし――」
その「しかし」の後の沈黙が、嫌な空気を引き裂いた。
シャルロッテは視線を落とし、「こちらです」とだけ言って歩き出す。

メルクリウスも静かに続く。
「猊下……洗礼の時以来でございます」
薄暗い回廊を抜け、光の差さない教皇の間に入ると、空気が一変する。
玉座に座るのは、骸骨のように痩せた老いた教皇。
その目は虚空を泳ぎ、焦点を結ばない。
ただ、途切れがちな声で何度も同じ言葉を繰り返す。

「……7……41……E……7……41……E……」
ガイウスがひそひそと眉を寄せて囁く。
「……じいさん、算数か?」
サタヌスは肩をすくめて「ぶっ壊れてんな。まあそうなるか」と低く笑う。
ヴィヌスは指を折って数を数えた。
「待って、これ……3つの数字を繰り返してる?」
その場の空気が一瞬止まる。
メルクリウスが息を呑み、目を見開いた。

「……これ、何かに“打ち込む”ための数字列だ」
「緯度か座標系の可能性も……ある」
冷たい部屋の静寂、遠く響く数字のリフレイン。
何かが“終わり”、そして“始まる”気配だけが。
この場にいる全員の背筋を静かに、確かに冷やした。

玉座の老人は、ただ数字を繰り返しつぶやくだけ。
リュコスや勇者ズが顔を曇らせるなか。
トゥランがそっと教皇の手を取り、甲をじっと見つめる。
「おそらく、あの黒い少女に何かされた可能性がありますね」
トゥランは手袋を外し、教皇の手の甲を静かに指し示した。

「見てください、手の甲に……魔王軍の紋章が刻まれています」
指差された肌には、黒々とした紋章の焼き痕。
その異様な形が、この国の最高権力者すら“例外ではなかった”事実を突きつける。
シャルロッテの顔が真っ青になる。
「猊下は……お戻りになられますか?」
その問いに、ヘルメスは一切の情を見せず断言した。

「絶望的だな」
「ヘルメス様!!」
シャルロッテが悲鳴に近い声を上げる。
だがヘルメスは冷静に告げる。
「精神が“刻まれている”。それも、修復困難なほどに……」
「これを戻すには、神の奇跡ですら及ばない」
教皇は数字の羅列を繰り返し続けるだけ。
その姿が、これからの「アンスロポス連合」の行く末まで暗示するようだった。

沈黙が重く垂れこめる教皇の間。
シャルロッテは声を絞り出す。
「では……では、教皇には誰が……」
重い空気をぶち壊すように、サタヌスが不機嫌そうに数字をなぞる。
「おい、この数字なんなんだよ?」
全員、ハッと息を呑み、視線を数字の羅列へ向ける。
――そうだ。今、解くべき謎は「これ」だ。

リュコスが不敵に口角を上げる。
「おーおー、ありがてぇヒントじゃねぇか」
「壊れちまっても、猊下様は“お導き”をくれるらしい」
「お前らなら、わかるんじゃねぇかい?」
ガイウスが数字の並びに指を当てる。
「……これ、ポータルの座標……じゃねぇか?」
ヴィヌスが静かに続ける。
「……やっぱそこに、いるのね。プルトは」
サタヌスはニヤリと笑い「なら決まりだな。次の地獄は海の向こうかよ」と言い放つ。
第五師団の面々がそれぞれにエールを送る。

シルヴァは手袋を直しつつ、凛とした声で。
「ご武運を、勇者殿方」
ネリアはハンマーを肩に担ぎ、満面の笑みで。
「島でもぶっ壊してきなよ~♪」
トゥランはため息まじりにぼやく。
「この流れ……またお迎え行く羽目になる気がするなぁ」
バルコニー越し、朝日のオレンジ色が差し込む。
勇者ズは誰にも何も言わず、静かに背を向け歩き出す。
その視線の先――霧の海に浮かぶ“モナクス島”の幻影が、遠くうっすらと姿を現した。

物語は、次の地獄へ。
勇者ズの背中に新たな決意の影が差す。

白い霧と光が満ちるバルコニー。
決意の空気に包まれた勇者ズへ、ガイウスが振り返る。
「聖女様。近場のポータル装置はどこだい?」
シャルロッテは地図帳をぱらぱらとめくりながら。
「お待ちくださいね。ニア・アンスロポス傍に……ひとつございます」
「ただし、150年前、エイレーネ様が世界救済の旅へ旅立たれた時以来、起動しておりません」
「メンテナンスされているかも……起動するかは、正直……」
その不安な声に、メルクリウスが口角を上げる。

「曰くつきだね」
「でも、僕たちには曰く付きくらいがちょうどいいさ」
ほんの少しの緊張を、ひねりの効いた冗談で上書きする。
そこへ、ヘルメスが静かに告げる。

「シャルロッテ」
「聖女制度は形骸化した。君はもう、飾りではない」
その言葉に、シャルロッテの目が大きく見開かれる。
「新教皇就任の準備を執り行う。君も手伝ってくれ」
「……わかりました!」
振り向いたシャルロッテは、もう少女ではない。
「では勇者様、ご武運を!」
勇者ズが歩き出す瞬間、ヴィヌスがふっと微笑んで肩をすくめる。
「ラッキーね♪私たち、新教皇の誕生に立ち会えたみたいよ」
朝日の中、勇者たちは“次の地獄”へ向かって静かに歩き出す。
その背後で、シャルロッテとヘルメス。
「時代のバトン」をしっかりと受け取った新たな教皇と仲間たち。
崩壊した国をもう一度「自分たちの手」で支え直そうと、静かに動き始めていた。

——

冬の雪涯村は、クリスマス直前。
極寒のオーゼ領の端、村全体がふんわり白い雪に包まれている。
家々の窓には松葉と赤いリボン、灯るランタン。
どこか懐かしくて温かい“冬の祝祭”の空気が広がっていた。

ヴィヌスは一歩、雪の坂道を踏みしめる。
銀色の大地と凍った空気。
その景色に目を細め、ふっと微笑む。
「やっぱり雪の子なのね、私」
「雪景色を見ると、帰ってきたって錯覚しちゃう」
メルクリウスも足元の雪を払いながら、静かに言う。

「聖女様が言われていたポータル門は……」
案内もいらなかった。
村はずれの丘、その先に“異質な静けさ”があった。

クリスマスの華やぎに包まれる村の片隅、ただそこだけが。
一切の飾りも、祝福も拒むような石造りのアーチ。
その額に、古代ギリシャ文字で「別れの門」
雪が、ゆっくりと降り続けている。
サタヌスが、しんと静まった空気の中でぽつりと呟く。

「……別れ、か」
その一言が、村の静寂に深く沈んでいく。
“この門をくぐる者”だけには、別の世界の重みがある。
そんな予感が胸に残る。

ポータル装置の前で、メルクリウスは淡々と座標を打ち込んでいた。
魔導盤に走る光の線は正確で、迷いがない。
その背中は静かだが、張り詰めている。

勇者たちはそれぞれ、言葉もなく装備を整えていた。
剣の位置を確かめ、マントを留め直し、呼吸を整える。
誰も視線を交わさない。ただ、それぞれの内側で気持ちを固めている。
その静寂を、ひとつの声が、そっと切った。

「エイレーネは……」
四人が一斉に振り向く。
ノアだった。
彼は誰とも目を合わせていない。
視線は、ポータルの向こう――まだ見えぬ海の彼方を見ている。

「エイレーネは、苦しんでいました。とても」
声は低く、震えていない。
怒りでも告発でもない。
それは、記憶の底から引き上げられた祈りのような響きだった。

「……ノア、お前……」
ガイウスの言葉は、途中で止まる。

ヴィヌスは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……知ってるのね。あの人のこと」
メルクリウスの手が、一瞬止まる。
瞳がわずかに揺れた。
「……それを、“語ること”すら許されなかったのかい……」
サタヌスは拳を握りしめる。
その指が白くなるほど強く。

「じゃあ、俺らが“言い返し”に行くってことだな」
ノアの言葉は、教皇庁によって黙殺された真実だった。
雪涯村とエイレーネ、その縁は深い。
自らの足で世界を歩くようになったエイレーネが、救ったのが、あの村だった。
オーゼに近い辺境の集落。
神の名よりも、生き延びることを選んだ人々。

だからこそ、彼女が「聖女殺し」という。
大罪を背負わされたとき、村は彼女を擁護した。
結果は――弾圧。
記録から消され、地図から外され「知る人ぞ知る」集落になった。

ノアの家は、その中心だった。
祈ることが許されなかった子。
少年は、静かに続ける。

「誰かが、言わなきゃいけなかった」
ポータルの光が、ゆっくりと立ち上がり始める。
「彼女のことを。ちゃんと」
それは告発ではなく、復讐でもない。
人間たちが、ようやく始める贖罪行動だった。
メルクリウスは最後の入力を終え、静かに立ち上がる。
勇者たちは、もう迷っていない。

この旅は、誰かを裁くためじゃない。
――黙らされてきた声に、ようやく「応答する」ための旅だ。
ポータルが、開く。
暗殺教団総本山、モナクス島へ。
人間たちは今、遅すぎた一歩を、確かに踏み出した。

ポータル門の魔導光が静かに脈打つ。
第五師団の面々は、旅立つ勇者ズを見送りながら。
それぞれ不器用なやり方で別れの言葉を探していた。
リュコスが肩を竦めて笑う。

「んじゃな。いってこいよ、マーク」
メルクリウスは、いつもより素直な声で返す。
「うん、団長。死んだときは墓でも立ててくれよ」
リュコスはニヤリと笑い返す。
「おう、湿地帯が見える丘に十字架ぶっさしてやるぜ」
そのやりとりに第五師団がドッと湧き。
ネリアは「ちゃんと爆竹供えに来るから!」
シルヴァは「危ない橋は、少しは慎みなさい」と涼やかに手を振る。

一人、また一人――勇者ズは光に包まれて消えていく。
最後にヴィヌスがポータルへ足を向け、メルクリウスにだけ小声で囁いた。
「ねぇ、メルクリ。私のカンだけど――」
少し離れても、声は凛としていた。
「勇者エイレーネには娘がいたって、聖女様が言ってたわよね」
メルクリウスは一瞬、動きを止める。

「……うん」
ヴィヌスは雪の反射で瞳をきらめかせる。
「連合のどこを探しても、そんな“最重要存在”がいないって――できすぎてない?」
その声に、空気がピンと張る。
既に目ざとい妖精は、“物語の穴”を嗅ぎ取りはじめていた。
ポータルの光が、ヴィヌスの後ろ姿を包み込み。
また一人、世界の謎に踏み込む勇者が消えていった――。

「真実を見抜く者」と「黙して送り出す者」
それぞれの背中が、湿地の朝日に照らされる。
次なる地獄、モナクス島へ。