アンスロポス連合-冥府の島へ - 3/5

ポータルの光は、通過する瞬間だけは確かに温かかった。
まるで誰かに背を押されるような、あるいは柔らかな膜を破るような感触。
しかしそれが途切れた瞬間、空気は一転して重く、湿り気を帯びた冷たさへと変わる。
その先に広がっていたのは、見覚えのない色彩だった。

空は、曇りというにはあまりに濃く、灰というには黒すぎる。
影だけが存在し、光源は存在しない、そんな歪な明るさ。
足元に視線を落とせば、地面は赤に染まっていた。
葉を持たない細い茎が、地面から無数に伸びている。
その先端で、花弁が強く反り返り、まるで炎の舌のように空へと向かっている。
ヴィヌスが、わずかに眉を寄せる。

「彼岸花?」
その声は、いつもより少しだけ低く、そして慎重だった。
彼女は花の一輪を見つめる。触れはしない。ただ観察する。
どれもが“知っているもの”と一致しているのに、決定的な何かが異なっている。
「おかしいわ……この時期に咲くわけない」
誰も答えない。
答えられるような場所ではなかった。

ガイウスは、ひとりで立っていた。
いや、立っている“感覚”があった。
足の裏に地面の感触はある。空気の重さも感じている。
だが、周囲の気配が極端に希薄だった。
空も、霧も、島も、すべてが遠い。
そして何より——誰も、いない。
だが、奇妙なことに恐怖はなかった。

“声”が、どこかから滲み出してくる。
外からではない、内側からでもない、境界の曖昧な場所から囁く。
——ようこそ、選ばれし者よ。
ガイウスは眉をわずかに動かした。

この島は理解している、孤独というものを。
そして同時に、人がそれに耐えきれず求めるもの——“特別”という甘美な毒を。
孤独と特別。
その二つを同時に与えられたとき、人はどちらを選ぶのか。
あるいは、そのどちらにも溺れるのか。
島は、それを試している。

灰色の空の下。
勇者ズは、赤い花の海をひたひたと進んでいた。
花弁が触れ合う音が、微かに衣擦れのように鳴る。
その音が、やけに耳に残る。風はほとんどないのに、花だけが揺れているようにも見える。
メルクリウスがゆっくりと顔を上げる。
その動作はいつも通り滑らかで、理性的で、感情を抑えたものだった。
だが、ほんの一瞬だけ、彼の瞳の奥に警戒が灯る。

「この島、海からは近づけないと聞いていたが……」
その言葉に、他の三人も自然と空を仰ぐ。
視界いっぱいに広がるのは、厚く重なった雷雲。
ただの曇天ではない。層を成した雲が、島全体を包み込むように覆っている。
内部で閃光が走る。遅れて、低く唸るような雷鳴が響く。
メルクリウスの瞳が、ほんのわずかに細められる。

「空路からも侵入は絶望的だね……」
サタヌスが眉をひそめる。
「わかんのか?」
メルクリウスは肩をすくめるように、しかし視線は空から逸らさない。
「見たまえ、あれは雷雲だ。島全体を分厚く覆っている」
「ペガサスが飛び込めば、容赦なく翼を焼かれるだろう」
「“空も塞がれてる”ってことか……」
ヴィヌスがふっと息を吐き、視線を遠くへやる。
赤い花の向こう。見えないはずの地平線の、そのさらに先を見透かすように。

「あの黒柴——ノア君の言う通りだわ」
その名が出た瞬間、サタヌスの表情がわずかに変わる。
無口で、感情をあまり表に出さない少年。だがその目だけは、いつも妙に鋭かった。
ヴィヌスは続ける。
「私たち、ただじゃ帰れそうにないわね」
軽く言ったつもりだったのかもしれない。
だがその言葉は、この島の空気に触れた瞬間、やけに重く沈んだ。
サタヌスは「まじかよ……」とぼやく。
軽口のようでいて、その声にはわずかな緊張が混じっている。
無意識に、ノアの無表情な横顔が脳裏をよぎる。
警告は、もう受け取っていたのだ。

「なぁこの島……既に空気最悪なんだが……」
誰も笑わない。
その沈黙が、この島の答えだった。
ヴィヌスは足を止めない。
視線も前に向けたまま、淡々と告げる。
「あれだけ盛大に見送ってもらって、帰れるわけないわ」
振り返らない。
振り返る理由が、もうない。
赤い花の海を進みながら、彼女は言う。
「行きましょう」
その言葉だけが、唯一の前進だった。

音が遠い。
耳に入ってくるはずの足音も、衣擦れも、呼吸の気配も、どこか一拍遅れて届く。
まるで厚い水の中を歩いているような感覚。現実と自分の間に、見えない膜が一枚挟まっている。
仲間の気配が、さっきよりも薄い。
すぐ隣にいるはずなのに、輪郭だけが曖昧になっていく。
存在そのものが霧に溶けていくように、確かに“いる”はずのものが、指の隙間から零れ落ちていく。
視界に映っているのに、実感が伴わない。

「……あの黒い女、マジでいんのかよ」
声は荒い。苛立ちを隠そうともしない。
胸の奥に溜まっていく違和感を、何かにぶつけなければいられなかった。
ここにいると、感情の輪郭が歪む。
怒りが、理由を持たずに膨らむ。
メルクリウスは、少し遅れて答えた。

「確定はしていないよ……ただ」
その言葉の途中で、彼は足を止める。
視線を落とす先には、一本の彼岸花。
葉もない。根も見えない。土に刺さっているはずなのに、どこにも“繋がり”が感じられない。
まるで、地面に置かれているだけのような、不自然な存在。

「……あの子は、絶対に何か知っている」
声は低く、静かで、だが確信を帯びていた。
「百五十年に渡る呪縛も」
一瞬、空気が沈む。
「エイレーネの娘のことも」
その名が落ちた瞬間、空間の密度が変わる。
見えない重さが、肩に乗る。
呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。

言葉そのものが、この島に触れたようだった。
ガイウスは、何も言えなかった。
誰かに置いていかれたわけでも、裏切られたわけでもない。ただ、自分だけが切り離されていく感覚。

理由がないからこそ、それはよく知っている感覚だった。
どこにいても、ふとした瞬間に訪れるもの。
人の中にいるのに、自分だけが外側にいるようなあの感覚。
それが、ここでは“常にある”。
ヴィヌスだけが、ほんのわずかに眉を上げる。
目を細めるでもなく、笑うでもなく、ただ観察するように。

(なるほど……)
思考が、冷静に組み立てられていく。
(今日の演目は、心を剥がすタイプ)
舞台装置としては完璧だった。
孤独を与え、特別を囁き、他者の存在を希薄にする。
そうして最後に残るのは、自分と、そこに差し込まれる“選ばれた者”という甘い毒。
その構造を理解した瞬間、ヴィヌスの中で恐怖は消えた。

それでも彼岸花だけが、ざわめいている。
葉を持たない花弁が、互いに触れ合い、擦れ合い。
まるで囁き合っているかのように微かな音を立てる。

この島は、歓迎している。
だがそれは歓迎という名の選別。
“ひとりで立てる者だけを”という残酷な条件が、静かに提示されている。
四人は黙って歩き続ける。

言葉を交わせば、何かが壊れそうだった。
誰も振り返らない、振り返った瞬間、誰かがいなくなっている気がしてしまうから。
サタヌスが、不意に顔を上げる。
赤い花の海の向こうに、ぼんやりとした影が浮かんでいる。

「……あの建物にいるんじゃねぇの?」
指差す。
その先に、かすかに見える輪郭。
石造りの、異国めいた建造物。尖塔のような影と、緩やかな曲線を描く屋根。
距離はあるはずなのに、不思議と近く感じる。
あるいは、向こうから近づいてきているのか。

——あそこだ。
言葉にしなくても、四人の中で同じ認識が共有される。
あそこに、“誰か”いる。
敵か味方かはどうでもいい。
そんな分類は、この島では意味を持たない。
ただ。
“自分以外の存在が、確かにある”
その事実だけが、今は何よりも重要だった。

霧が、わずかに濃くなる。
赤い花の海を抜けるにつれ、視界の奥に“人工物”の気配が混じり始めていた。
自然のものではない直線。整えられたはずの形が、時間と放棄によって歪み、崩れかけている。
サタヌスが足を止める。
「……なんだ、あれ」
指差した先。
朽ちた木製の看板が、斜めに傾いて立っている。
文字はかろうじて読めるが、風化して削れ、半分以上が判別不能になっている。
——訓練所。
その二文字だけが、異様にくっきりと残っていた。
周囲には建物の残骸らしきものが散らばっている。
壁だったもの。柵だったもの。
すべてが崩れ、形を失い、ただ“ここに何かがあった”という痕跡だけを残している。

半ば土に埋もれた場所に、小さな骸骨が、いくつも積み重なっている。
成人のものではない、手の骨も肋骨も、頭蓋も、すべてが未完成なサイズ。
整然とはしていない。ただ、無造作に積まれている。廃棄されたように、忘れ去られたように。
「……趣味が悪いわね」
感情を抑えた声だったが、その言葉の奥には明確な嫌悪があった。
メルクリウスは何も言わない。
ただ、目を細めてその光景を観察している。
分析しているのではない。

「訓練所、ねぇ……」
その言葉の意味を、誰も口にしない。
言葉にすれば、それは確定してしまうから。

赤い花が、再び足元を覆う。
骸骨はすぐに視界から消える。
だが、消えたのは“見えなくなった”だけで、存在そのものが消えたわけではない。
この島は隠さない、ただ見せ方を選んでいる。

霧が、ふと揺れた。
その向こうに、何かが立っている。
ガイウスが、無意識に足を止める。
——子供だ。
黒いワンピース、白いヘッドバンド。腕の中にぬいぐるみを抱えている。
その姿は、異様なほど鮮明だった。
周囲の霧がぼやけているのに、その子供だけが、輪郭をはっきりと持っている。

ただ、こちらを見ている。
子供は、ふっと霧の奥へと下がった。
消えた、というより“向こう側に移動した”。
その背中を見失ってはいけないと、直感が告げた。

あの子供は、偶然ではない。
この島が用意した“道標”、あるいは“誰か”の記憶の残滓。
追えば近づく、追わなければ、辿り着けない。

遠くに、また一瞬だけ、子供の姿が見える。
ぬいぐるみを抱いたまま、振り返ることもなく。
距離は縮まらないが、確実に“近づいている”。
周囲の空気が変わり重さが増す、何かの“中心”へ向かっている感覚。
建物の影が、先ほどよりもはっきりと見えてくる。

「……誘われてんじゃねぇの、これ」
誰も否定しない、否定できない。
それでも足は止まらない、止める理由が、もうない。

ぬいぐるみを抱いた子供の背中が、最後にもう一度だけ見える。
その先に島の中心、暗殺教団総本山が口を開けていた。