アンスロポス連合-冥府の島へ - 4/5

建物は、霧の奥からゆっくりと輪郭を現した。
近づくにつれ、その異質さがはっきりしてくる。
石造りの外壁は、風雨ではなく“意図的に削られた”ような傷を帯びている。
滑らかな曲線と鋭い直線が混ざり合い、祈りの場にも、処刑場にも見える不気味な均衡を保っていた。

中東風の意匠を思わせるアーチと尖塔が並び、だがどこか歪んでいる。
美しいはずの構造が、微妙に狂っている。
正面の広場には、朽ちたベンチと、倒れかけた遊具が放置されていた。
錆びついた鉄のブランコは、風もないのにわずかに揺れている。
そこに、ひとつの看板が掲げられていた。
石に刻まれた文字。
だが、それは見慣れた言語ではない。
曲線が絡み合い、蛇のようにうねる線が連なっている。
読むというより、眺めるしかない文字。

「このグネグネしたの……メキア文字だ!」
声には確信がある。
メルクリウスが肩を竦める。
「君たち、砂漠にも居たのかい?」
ヴィヌスは軽くため息をつきながら言う。
「相変わらず読めない……サータ、読みなさい」

サタヌスは一歩前に出て、視線を上げる。
石に刻まれたメキア文字は、ただの装飾ではない。
線は均一ではなく、ところどころ深さが違う。
勢いで抉ったような箇所と、やけに丁寧に撫でた部分が混在している。
宗教的荘厳さというより癖だ、書き慣れた人間の癖。

「……ارفعِ السيفَ، واقطعْ نورَ اللعنةِ」
低い声だった。
だが、音の響きが明らかに違う。
子音が喉の奥で擦れる。母音が短く、鋭く区切られる。言葉が“前に出る”のではなく、“内側で鳴る”。
聞いたことのないはずの言語なのに、意味だけが先に落ちてくる。
サタヌスは続ける。
「دارُ السيف」
最後の音だけ、わずかに柔らかく落とした。
沈黙。
ヴィヌスが、ほんの少しだけ眉を上げる。
「アル……なんですって?」
サタヌスは肩を軽く鳴らす。
さっきの空気が嘘のように、いつもの調子に戻る。

「剣を掲げ、厄ある灯を断て……“ダール・アル=サイーフ”」
顎で看板を指す。
「剣の館、って意味だ」
ヴィヌスは視線を看板から建物へ移す。

「趣味のいい名前じゃないわね」
皮肉にもならない言葉だった。
「間違いねぇ、ここが総本山だ」
その言葉が落ちた瞬間。
入口の奥から、わずかに冷たい風が流れ出てくる。
まるで、建物そのものが呼吸をしているかのように。

総本山の内部は、拍子抜けするほど静かだった。
足を踏み入れた瞬間、外の霧の気配がすっと消える。
代わりに、乾いた空気と石の冷たさだけが残る。
音が吸われる。靴底の接地音すら、どこか遠くへ逃げていくような感覚。
本来なら、ここは戦場になっているはずだった。
伏兵。奇襲。毒。罠。

暗殺教団の総本山に足を踏み入れるということは、そういう“歓迎”を受けることを意味する。
だが——そこにいたのは、整列だった。

奥へと続く一直線の空間の左右に、アサシンたちが一列に並んでいる。
全員、膝をついていた。
頭を垂れ、視線を上げない。
その姿は、戦士というより何かに“服従している者”のそれだった。
さらに異様なのは、その後ろ。
数人のアサシンは、両腕を腰の後ろで縛られている。

抜剣を封じられているのだ。
縄は粗い。実用性だけを重視した拘束。
抵抗すればすぐに擦り切れるだろう。
だが、誰も動かない。
まるで、自分たちが咎人であることを理解しているかのように。

その光景の中央にただ一人、立っている。
空気の中心が、そこにあった。
サタヌスが、躊躇なく口を開く。

「教祖様、ガキどもはぶっ殺してきてやったぜ」
軽口のような調子。
だが、その声は空間に吸われることなく、まっすぐ届く。
「教皇庁以来だな」
プルトは、すぐには答えなかった。
ほんの一拍、わずかな沈黙、それから静かに口を開く。
「……知っていますよ。あの子たちは止められなかったようですね」
声は低い、柔らかくもなく冷たいわけでもない。ただ、“温度がない”。

「ようこそ暗殺教団へ」
一歩、わずかに前へ出る。
足音はしない。
「彼岸は来るものを拒まない」
その言葉には、歓迎の響きがあるはずだった。
だが、そこにあるのは“受け入れ”ではない。
そして真正面に立った瞬間、サタヌスの思考がほんの一瞬だけ止まる。
(……でけぇ)
視線が、わずかに上へ動く。
想定よりも、明らかに高い。

(女なのに、俺より背高くね……?)
一瞬だけ、喉が詰まるがすぐに視線を戻す。
表情は変えない。
だが、ほんの一瞬だけ、“距離感”を測り損ねた。

不自然ではない、だが自然でもない。
人間として成立しているのに、微妙にずれている。
そのズレが、言葉にできない違和感となって積み重なっていく。
プルトは、そんな視線すら気に留めない。

「どうぞ」
軽く手を差し出す、まるで客人を案内するような仕草。
「あの子たちとの戦いを終えたばかりでお疲れでしょう?」
労いの言葉だが、感情は乗っていない。
「……今夜はゆっくりお休みください」
静かに確定事項として告げ、わずかに視線が深くなる。
「ただし、“朝までに”こちらの望む答えを用意していただきます」
その一文だけが、わずかに重い。
命令ではない、強制でもない、ただ“条件”として提示される。
「“帰る者”もまた拒みませんので」
逃げ道はある。
だが、それを選ぶかどうかは——すでに問われている。

ダール・アル=サイーフの廊下は、異様に静かだった。
石造りの床は足音を吸い、天井の高い回廊には風もない。
先頭を歩くプルトのローブの裾だけが、ギザギザと幽霊のように揺れている。
誰も、それを指摘しない。
サタヌスが、退屈を紛らわすように口を開いた。
「なぁ、聖職者ってさ。十人同時に話しかけられても全部聞き取れんの?」
ガイウスが即座に鼻で笑う。
「聖徳太子じゃねぇんだから」
だがメルクリウスは否定しない。肩をすくめる。

「慣れるよ。説法中は祈りと罵声と質問が一度に来る。いちいち驚いていたら務まらない」
ヴィヌスが半眼になる。
「今さらっと言ったけど、“慣れる”って言葉で片付けるラインじゃないわよ、それ」
メルクリウスは淡々と続けた。まるで今朝の天気の話でもするみたいに。
「君たちがリプカにやってくる数日前は」
「結婚詐欺、ギャンブルで失敗、家族と喧嘩した話を同時に聞いた」

教会の長椅子。昼下がりの光が差し込む中、メルクリウスは静かに座っている。
その前に、三方向から感情の洪水。
「運命の人だって思ったんです……! 指輪も送って、でもそれから音信不通で……っ」
女性は両手を握り締め、今にも崩れそう。声の震えが危うい。
これは最優先案件。放置すれば取り返しがつかない。

「あの馬は調子が最高だって念を押されたんだ……! 内輪情報だって……!」
顔色の悪い中年男性が、震える手に握られた紙切れを見せてくる。
借用書だ。これは止血は急務だが、今すぐ命が消える類ではない。
足元にはぬいぐるみを抱えた少女。
「ママの顔みたくない! 今日ここで寝る!」
怒りと寂しさが混ざっている。
これは拗ねているが、甘え先を探している状態。

「私、もう生きてる意味が――」
「次で取り返せば――」
「帰らないもん!」
サタヌスなら耳を塞ぐ、ガイウスなら一人ずつ並べと言う。
ヴィヌスなら笑って場を制圧する。
だがメルクリウスは、微動だにしない。

眼鏡の奥の瞳が、静かに動く。
優先順位が組まれる。
「……指輪は、どんなものを?」
質問は“感情”ではなく“具体”へ。
女性の呼吸が、ほんのわずか整う。
右へ視線を移さないまま言う。

「競馬は、余剰資金で楽しむものです。今は“次”を考えないでください」
言葉は短く、そして強制的に流れを止める。
最後は足元へ、柔らかく。
「今日はここで寝てもいい。ただし、朝ごはんは一緒に食べる約束だ」
少女の指がぬいぐるみを握り直す。涙が止まる。
三人とも、自分が“ちゃんと聞いてもらっている”と錯覚する。
錯覚ではない、事実だ。だが処理は同時進行。

「結婚詐欺の女性は最優先だった、自殺リスクが高い」
サタヌスが目を剥く。
「優先順位とかあんのかよ……」
「あるよ。常に」
ヴィヌスが微笑む。甘く、だが本質を刺す。
「神官様、勇者よりいつもの仕事の方が地獄じゃない?♡」
メルクリウスは一瞬だけ考え、静かに言う。

「地獄というより、修羅場かな」
その横で、プルトが振り返りもせずに呟く。
「……可能ですよ。特に、勇者の声は聞き取りやすい」
サタヌスがぼそり。
「地獄の管理職、増えたな……」
廊下は静かだが、どう考えてもこのメンバーの精神耐久値が一番高いのは神官だった。

部屋は静かだった。
食事の準備が進み、焼けたパンの匂いが漂っている。
プルトは、特に誰を見るでもなく言った。
「トーストには……ジャムとバターで、いいですか」
言い方は丁寧。
提案というより、確認に近い。
だが――その視線だけが、明確にサタヌスを捉えていた。
サタヌスが眉をひそめる。

「……は? なんで俺?」
プルトは首を傾げない。
表情も変えない。
「前に、宿屋で言っていましたよね」
「“金持ちは毎日、パンにジャムとバターを塗るらしい”って」
一瞬、空気が止まる。
サタヌスの脳裏に浮かぶのは、誰に聞かせるでもなく、笑い話にするでもなく。
ただぽろっと零した言葉。
「……それ、誰に話した覚えもねぇんだけど」
プルトは、パンを皿に置きながら答える。

「ええ」
「あなたは、私に話していません」
言い切り。
「“毎日”って言い方が、現実的だったから」
サタヌスの背中に、じわりと汗が滲む。
「……盗み聞きしてたってことか?」
「いいえ」
プルトは、ようやく小さく微笑んだ。
「聞こえるところに、いただけです」
「あなたは、隠していなかった」
その言葉が、なぜか一番怖い。

サタヌスは、しばらく黙っていたが、乱暴に椅子に腰を下ろした。
「……じゃあ、両方で」
プルトは、何も言わずに頷く。
「そう言うと思っていました」
ただ、“もう知っている”前提で話す。
それが、どんな脅しよりも、どんな力よりも、圧倒的だった。