アンスロポス連合-教皇庁、突入 - 1/5

世界を引き裂いていた震動が、ゆっくりと収まる。
耳鳴りだけが残り、粉塵が、重力に従って落ちていく。
ガイウスの視界が、ようやく“現実”に戻った、そのとき。
目の前にあったのは、形を失った二つの影だった。
ユピテルとカリスト。
いや、もう「身体」と呼べるものではない。

そこにあるのは、押し潰され、引き延ばされた血の湖。
赤黒い液体が、瓦礫の間に広がっている。
次の瞬間、血だまりが、蠢いた。
ぐずり、と不快な音を立てて。

逆再生のように、液体が盛り上がり、骨が組み上がり、肉が貼り付いていく。
潰されたはずの身体が“なかったこと”のように再構築される。
何事もなかったかのように、二人は立ち上がっていた。
ユピテルが、肩を叩きながら笑う。

「はははッ!すげぇなぁカリスト!ペシャンコになったぜ?」
カリストも、にこりと笑った。
だがその目には、一切の温度がない。
「ええ。ここまで破壊されると、壮観ですね……」
一拍置いて、言葉を選ぶように。
「……取り返しつきませんよ?勇者」

ユピテルが、瓦礫を踏み鳴らしながら近づく。
ズカズカとまるで散歩でもするように。
「なぁ、ガイウス。今どんな気分だ?」
薄ら笑いを、ぐっと近づけて覗き込む。

「“守りたかった街”をさ」
「全部、自分の手で潰しちまった気分はよォ?」
その言葉が、刃物のように突き刺さる。
ガイウスの手が、震えた。
剣を握っていないのに、指が勝手に、何かを掴もうとする。
「俺が……?俺が……!!」
崩壊したリプカ旧市街の中心で、ガイウスはそのまま膝をつく。
守るはずだった街。守れなかった人々。そして——自分の手。

その両脇にユピテルとカリストが、異様なほど近い距離で顔を寄せる。
ユピテルは、楽しそうに、薄く笑い。
カリストは、底意地の悪い、甘い笑みを浮かべる。
逃げ場を失った子供を囲んで煽る、二人の子供。
その構図は、あまりにも歪で、あまりにも残酷だった。

世界は壊れた、だが、彼らは無傷だ。
壊れたのはガイウスだけ。
この瞬間、勇者は初めて理解する。
敵は、自分より強い存在ではない。
「壊した後の自分を、笑って見せてくる存在」なのだと。

瓦礫が落ちきったあとも、旧市街の空気は重かった。
ガイウスは膝をついたまま、呼吸の仕方すら忘れたように固まっている。
その両脇で、ユピテルとカリストが顔を寄せ、笑っていた。
息の温度が触れる距離。
逃げ道など最初からないと言わんばかりの距離。

静かな声が、二人の間にすっと刃を差し込んだ。
「それで?」
振り向いたユピテルの視界に、メルクリウスが立っていた。
「いつまで居るつもりだい」
声は抑揚がない、怒鳴りもしない、威圧もしない。
ただ「立ち去れ」という意志だけが明確だった。
「負け犬たちは、さっさと立ち去ってくれないかな」
ユピテルの笑みが、一瞬だけ止まる。
メルクリウスは続ける。
指先で、潰れた旧市街の先を示した。

「見ての通り、数キロ先はリプカなんだよ?」
そこで初めて、声が僅かに低くなる。
「僕の故郷」
言葉は短い。
だがその一言が“これ以上一歩も近づけるな”という線を引いた。
カリストの眉が跳ねる。

「……負け犬だとっ……!」
歯ぎしり混じりの声。
殺意が、そのまま言葉になった。
「神官ごときが!!」
一歩踏み出そうとしたカリストの肩を、ユピテルが指一本で押さえた。
「カリスト、退くぞ」
いつもの、やや気だるげな声。
あくび混じりにすら聞こえる。
「舞雷(ぶらい)、超重力にビビっちまってるわ」
その言葉は軽い。
だが“本気で危険だ”という判断だけは、微塵も揺れていなかった。
カリストが唇を噛む。

「しかし……!」
引けない、引きたくない、目の前の“侮辱”を許せない。
ユピテルが短く息を吐いた次の瞬間、煙管が、振り抜かれる。
「躾ェ!!!!!!」
鈍い音。
カリストの身体が横へ弾かれ、壁面にめり込むように叩きつけられる。
瓦礫が落ち、氷の粉が舞う。
ユピテルは、何事もなかったように煙管を戻し。
キセルをくゆらせながら、淡々と言う。
「お前はホント、バカ犬だな」
「俺が退けつったら、退くンだよ」
壁にめり込んだまま、カリストが小さく呻く。

メルクリウスは、表情を変えない。
ただ、目だけで二人を見ている。
ユピテルは、その視線を正面から受け止め、一瞬だけ口角を上げる。
「じゃあな、神官サマ」
軽口に見せたまま、足だけは確実に後ろへ引く。
“負け”ではないと言い張るように。

だが旧市街の空気は知っている。
あの超重力がもう一度来たら。
不死身の怪物ですら“遊び”では済まないことを。

そして、ガイウスは膝をついたまま、まだ動けない。
この場を救ったのは、優しさでも、正義でもない。
メルクリウスの、冷たい現実だった。

氷雷の怪物が去ると、旧市街には奇妙な静けさが戻った。
あれほど空間を押し潰していた“重さ”だけが、嘘みたいに引いていた。
ガイウスは膝をついたまま、動けなかった。
落とした剣に手を伸ばす気力もない。
その隣に、メルクリウスが立つ。
いつもの穏やかな声。
だが目線は伏せられ、表情の奥に重いものが沈んでいる。

「ガイウス君」
呼びかけは優しい。
責める響きが一切ないのが、逆に刺さる。
「さっき君が圧し潰した存在は、全員“魔王軍”だよ」
ガイウスの肩が、わずかに震えた。

「民間人を巻き込んだわけじゃない……」
一拍。
「……すまない。殺めたという事実は覆せないが」
許してはいない、慰めもしていない。
ただ、現実を正しく並べて“君は一人じゃない”と言っている。
ガイウスは、かすかに笑った。
笑とか呼んでいいのか分からないほど弱い表情で。

「……ありがとう」
「少しだけ、気楽になった」
その言葉は救いというより、崩壊を止めるための小さな楔だった。
ヴィヌスが瓦礫を見回し、興味と困惑が混ざった顔で言う。
「でも、すごいわね……さっきの」
「本当に地属性魔法なの?」
サタヌスが即座に切り返す。

「ちげぇ~だろ!!」
勢いが、ようやく“いつものテンポ”を連れてくる。
「大地魔法ならさ、“地割れドーン!”とか“地震ドカーン!”だろ」
「今のは“世界ごと圧し潰しに来てた”んだぞ!?」
指を突きつける。
「グラビトンだよ、グラビトン!!」
その一言で、空気の温度が一段、落ちる。
メルクリウスが静かに目を細め、遠いものを見るように呟いた。

「……テラ・グラビトン」
「世界ごと“殺し”に来る呪文か。」
言葉が、冷たい、だが声は柔らかい。
サタヌスは、場が沈みすぎるのを嫌って。
メルクリウスの肩をぽん、と叩いた。
「な?マジで洒落になってねぇから、次は絶対に予告しろよガイ!」
ヴィヌスも、笑っていいのか迷いながら、小声で付け足す。

「“許可制超重力”ね……物騒すぎて笑えないんだけど」
サタヌスは瓦礫の“平面”を見下ろして、急にテンションを戻す。
「それより見ろよこれ、ペシャンコだぜ!」
ヴィヌスが、半笑いで頷く。
「ふふ……芸術的なレベルで平らね。何も残らないなんて」
ガイウスは答えない。
膝をついたまま、ただ静かに、そこにいる。
言葉が戻るには、まだ時間がかかる。
取り返しがつかないものを、取り返せたわけじゃない。

メルクリウスは何も言わず、そっと手を伸ばして、ガイウスの背に触れた。
世界には再び“人間”の空気が戻った。
痛みを知る者だけが持つ優しさが、メルクリウスの沈黙に滲んでいる。
サタヌスとヴィヌスの、いつもの掛け合い。
その雑さが、逆に救いだった。
それが、ガイウスを救い、勇者ズを“ただの仲間”に戻してくれた。
ヴィヌスが、ふっと空気を切り替えるみたいに言った。

「それより」
軽く指を立てて。
「用が済み次第、ニア・アンスロポスに戻って来いって」
「……あの眼帯さん、言ってたわよ?」
その一言で、ガイウスの背筋が跳ね上がる。
「ッ……!そうだ! 戻らねぇと!」
切り替えが、あまりにも早い。
サタヌスが思わず声を上げた。

「切り替えはや!!?」
「今の今まで世界ぺっちゃんこにしてた人の反応じゃねぇだろ!!」
ガイウスは答えない。
ただ、地面に落ちていた剣を拾い上げる。
震えはもうない、あるのは焦りだ。
その横で、メルクリウスが一歩、前に出た。

「ガイウス君」
声は柔らかい。
だが、逃げ道を作らない声でもある。
「無理して戦っちゃいけないよ」
「君が指揮をとれないときは」
一拍、間を置いて。

「僕が、代理をやる」
それは“提案”の形をした、支えだった。
ガイウスは、少しだけ黙る。
自分の手を見て、次に、仲間たちを見る。
そして、短く。
「……わかった」
拒否もしない、強がりもしない。
その返事が、彼がまだ“戻ってこられている”証だった。
転移石を、再び握り込む。

四人は、同時に駆けだした。
足元に広がる感触は、前よりも涼しい。
あのときの、粘つくような重さはない。
空間は静かで、どこか澄んでいる。

ガイウスは走りながら、それに気づく。
さっきより、軽いなと。

理由は分からない、分からないままでいい。
ただ一つ確かなのは、彼らはまだ走れているということ。
そして、この先にもまだ選択が残っているということだった。

勇者ズは止まらない。
次に待つのが“救い”か“さらなる地獄”かは、まだ誰も知らないまま。