教皇庁──崩れた天井から差し込む光が、床にこびりついた血の湖を照らす。
もうここは、かつて勇者たちが知っていた荘厳な聖域じゃない。
神聖も、清浄も、すべてが踏みにじられている。
誰よりも先に、リュコスが鋭く息を呑んだ。
――この空気、ただ事じゃねぇ。
五感が告げる「死」の匂いに、背筋が冷たくなる。
ヴィヌスがブーツの踵で血溜まりを避けるように歩き、顔をしかめた。
「臭いわね……これ、血よ」
その声すら、やけに響く。
すかさずシルヴァが肩をすくめ、半分呆れたように、けれど目は鋭く現場を見回す。
「あらぁ、お行儀が悪いですわ。こんなに汚して……誰のお仕置きかしら?」
壁も、天井も、白いはずの石はどす黒く染まっていた。
血、血、血――どこを見ても惨劇の残り香。
すみっこの影に転がっている銀色の輪っかが、ぽつりと孤独に輝いてる。
サタヌスが足を止めて、ちらりと振り返る。
「メルクリ」
「お前の頭のそれ、神官の正装って聞いたがマジなんだな」
空気が一瞬だけ、ゆっくりと流れた。
メルクリウスは何も言わずに頷き、ロザリオを指先で撫でる。
血の海の前で、ただ静かに、目を閉じた。
顔も知らぬ同胞たちの魂に、ひととき祈りを捧げるように。
……その所作すら、今はどこか異邦人めいて見える。
外ではまだ戦火の爆音が轟いている。
だけどこの教皇庁の中心部は、もう“死の館”だった。
そして、まだ誰も気づいていない。
本当の悪夢は、この先に待っていることを——。
ヴィヌスは眉をひそめ、床の鮮血を爪先でかき避けながら、声を張った。
「血ってぬめるのよ、滑るから気をつけなさい貴方たち」
現場慣れした調子。だが一瞬後、空気がグニャリと歪んだ。
「――ああ、気を付け……ッ!?」
サタヌスが反射的に叫ぶ。
その瞬間、世界に紫の稲妻が走る。
壁も床も、全てが千切れていくみたいに、光のカーテンがバサッと視界を裂く。
重力すら一瞬おかしくなる。“下”がどこかもわからなくなった。
ヴィヌスは瞳を見開き、咄嗟に振り向く。
あの色、あの舞い散る蝶――見覚えのある、フェイ系の幻術魔法だ。
紫の淡いチョウが空間の断面から、ぞろぞろと溢れ出す。
「フェイ系魔法!」
声が跳ね返った。
「お前ら、隣のやつの手を放すな!!」
ガイウスの叫び。
即座にノアの手首をガシッと掴み、他のメンバーにも合図を送る。
手を繋げ。意識をつなげ。ここでバラバラになったら終わりだ――そんな本能的な警告。
幻術の蝶たちは、指の隙間から滑り込むように、現実そのものを切り分けていく。
目を開けていても、瞼を閉じていても、光の断面が脳裏を焼く。
アサシンの策謀。
仲間たちの手は、容赦なく引き剥がされていく。
ヴィヌスの手からも、誰かの温もりがスルリと消えた。
重力がねじれる。空間が二重写しになる。
気づけば、そこに“自分”しかいない。
心臓が、ドクンと強く鳴る。
幻術の檻――孤独の闇に、勇者ズと仲間たちはそれぞれ引き裂かれていく。
サタヌスとネリアは肩を並べて、気付けば教皇庁の中庭に立っていた。
淡い紫とピンクが混ざり合い、空気そのものがファンタズムで塗りつぶされている。
現実のはずなのに、どこか玩具の箱みたいにやたら色彩が浮いている。
脳がじわじわバグってくる。
二人の距離がやたら近いのも、“意気投合した者同士”の証だった。
本能で惹かれ合う瞳のグルグル模様。
物心ついた時から“化け物”扱いされてきた同族、でも今はもう気にしない。
「……あぁ、ここ」
サタヌスがぽつりと呟く。
「司祭のじーさんたちに、ぐるぐる目がキモいって言われて。拗ねて来たとこなんだ」
思い出に滲む、ちょっとだけ苦いトーン。
ネリアは隣でニヤッと笑い「サータも?」と肩をすくめる。
「ほんと身勝手だよね~あのじーさんたち、目の整形はできるかっての」
豪快な笑い方。だけど、どこか寂しさが混じる。
二人とも、幻術だと理解している。
景色の鮮やかさも、妙に澄んだ空気も――全部“現実じゃない”と知っている。
それでも、油断だけはできない。
気を抜けば“心”ごと飲み込まれる、アサシンの罠のただ中だ。
互いに、肩を寄せ合う。
けれど、瞳はギラリと冴えていた。
次の瞬間。“現実”の皮をベリッと剥ぐように、別の足音が響く。
「やっぱり来たな、デクシア」
淡紫の蝶が、二人の間をすり抜ける。
現れるは、サタヌスと“同じくらい幼さ”を残した――
だけど、どこか壊れた笑顔のデクシア。
「──あー!!ようやく来た!!この(ピー)勇者どもがッ!」
中庭の空気が一瞬でギラつく。
石畳を蹴り飛ばし、デクシアが両手を大きく振り回しながら突撃してくる。
声がでかすぎて幻術の蝶までびびって散っていくレベル。
「お前らのせいでな、マスターの機嫌が悪いんだよ!!」
全身から“マスター信者”オーラがだだ漏れ。
サタヌスは肩をすくめてあくび混じりに返す。
「知らねぇよ、ハゲ坊主。おまえ口開けばマスターしか言わないな」
斧のグリップをゆるく握り、視線は鋭いまま。
ネリアも「やば、このタイプ…爆薬より面倒くさいわ」とボヤきつつ身構える。
デクシアは顔を真っ赤にして吠える。
「当たり前だろ、マスター(プルト)はすべてなんだよ!」
「僕は彼女に“名”を与えられ、“居場所”をもらった」
「忠義じゃねえ、生きる理由だ!」
叫びながら、眼がギラギラに光る。“執着”と“崇拝”がごちゃまぜになった危うい輝き。
その言葉の重みは冗談でも演技でもない、本物の“依存”。
あらゆる価値観がプルトを軸に回ってる狂信者の目だ。
一瞬、サタヌスの口元が引きつる。
自分にも覚えのある、あの“誰かにすがるしかない時代”の空っぽな焦燥。
ネリアがサタヌスの肩を小突きながら、声を上げる。
「ねぇねぇ~マスターって、さっきの片目隠してた女の子?」
「どう見てもアレ、大人のおねーさんじゃないじゃん、ママごっこってやつぅ?」
あまりにもド直球な物言い。
ネリアの目には、幻術越しにバルコニーから見た“プルト”の顔が焼き付いていた。
確かに落ち着いた雰囲気で大人びてるけど。
あの横顔は、どう贔屓目に見ても“少女”のあどけなさが滲んでいた。
サタヌスも小声で「まあ確かに、年上感はねぇ」とボソリ。
二人の視線はどこか醒めていて、マスター崇拝ぶりにツッコミ入れる気満々。
デクシアは、案の定ブチ切れる。
「うるせぇな!!マスターはマスターなんだよ!年は関係ねぇ!!」
「しかもその目、そのぐるぐる!お前ら……お前ら!」
「マスターの目に時々浮かぶ模様してるくせに!なんでそんな優しくねぇんだよ!!」
同心円模様の目――それは半魔・半人だけに現れる証。
けど、サタヌスもネリアも気にした様子は全くない。
というか、デクシアの言葉なんてどこ吹く風、二人とも完全に会話泥棒状態。
「……あー、うん。お前の“ぐるぐる目”はマスター譲りなのか?」
「えー、てことは“親子ごっこ”じゃん!」
またもネリアが爆弾発言をブッ込む。
場の空気が、緊張とコメディの狭間でグラグラ揺れる。
けれど、その緩いノリの奥で、三人の“傷”と“渇き”だけはハッキリと交錯していた。
——それぞれが、誰かに救われたくて、誰かに居場所をもらいたくて。
必死に足掻きながら、今この中庭で向き合っている。
幻術の蝶がまた一匹、フワリと三人の間をすり抜けていった。
デクシアは、がむしゃらに歯を食いしばった。
震える手が袖を握り、まるで自分を縛りつけるかのように拳を作る。
「お前らを殺すしかない……殺さなきゃ。マスターが怒る」
「そしたら……俺は捨てられる……」
声がだんだん小さく、かすれていく。
まるで自分に言い聞かせる呪文みたいに。
ネリアはちらりとサタヌスに目配せして、
「来るっぽいよサータ!」と小声で呟いた。
サタヌスはデクシアに向かって、呼吸ひとつ分の静寂を挟んで。
「おい、ハゲ!!」と叫ぶ。
デクシアが思わず怒鳴り返す。
「なんだよハゲ勇者!!」
空気が、ピンと張り詰めた糸みたいに震える。
サタヌスは目を逸らさない。
その声は、冗談めかした響きを投げ捨てて、本音を突きつける。
「お前、マスター殺せるか!?」
その問いは鋭く、心臓を直撃する。
デクシアは一瞬呼吸が止まったみたいに固まり、すぐに激情で爆発する。
「はあああ!? 考えたらわかるだろぉ!?」
「俺にとってマスターは、お母さんであり師匠だぞ!?!?」
「この命ぜんぶ、捧げてんだよ!!」
声が、喉の奥で割れる。
——その叫びは、まるで何かに縋る子供のものだった。
一瞬、サタヌスの脳裏にフラッシュバックする。
メキア編――血の繋がった父を前に、膝が笑うほど震えた日。
手が震えて、歯を食いしばって、それでも最後は“自分の足”で踏み出した。
今のサタヌスは、違う。
過去の自分に背を向け「自分の人生のケツは、自分でつける」ことを選んだ者。
サタヌスはゆっくり、静かに息を吐いた。
斧の構えを低くし、筋肉に力を込める。
瞳の奥、炎がゆらぐ。
「俺が勝つ!!」
宣言と同時に、地面を蹴る。
デクシアの叫びはあまりに人間らしい。
だからこそ、同情がこみ上げてくる。
サタヌスの一歩は“勇者”のそれじゃない。
ただの“ひとりの人間”として踏み出す、
この物語で一番まっすぐな一歩だった。
——二人とも、間違っていない。
だからこそ、この戦いの決着は、残酷なほどに苦い。
「ネリー!お前、このチョウどもを散らせ!」
サタヌスが背後に声を飛ばす。
ネリアは笑顔で親指を立て、瞬時に反応した。
「りょーかいりょーかい!この手のは、デカい音に驚くモン♪」
言うが早いか、腰のポーチから爆竹を数本抜き出して、パチンと指ではじく。
火花が走り、パキパキ、バチバチ――耳をつんざく爆音が中庭に響く。
淡紫のチョウたちは怯え、幻術世界の光が一気にノイズでかき乱されていく。
視界がクリアになった瞬間、サタヌスとデクシアは真正面からぶつかる!
サタヌスは全身の力を込め、吠えるように叫ぶ。
「俺はクソ親父たたっ切って、この連合にやってきたんだよ!!」
叫びの熱が空間を割る。
「ママに甘やかされてるやつが!!」
「このサータ様に勝てるわけねぇだろおおおお!!」
斧を構え、前のめりで突進。
中庭の石畳を割って、力任せにデクシアへ肉薄する。
その声、その一歩、その眼差し――
全部、“依存”を断ち切った奴だけが持つ、生きるための叫びだ。
デクシアの目が揺れた。
でも、もう止まらない。
幻術の蝶たちは爆竹に追われ、
世界の色も、幻も、全部――“決着”の舞台を譲るしかなかった。