静まり返った夜の裏通路。
その最奥、通信用の黒水晶板を囲んで、アリスとデクシアがしゃがみ込んでいた。
黒水晶に浮かび上がるのは――艶やかな黒と紫の衣をまとう教祖。
プルト・スキア。
その微笑みは、何も語らずともすでに知っている者の顔。
「お疲れ様です、マスター」
アリスが明るく一礼する。
「カフェ“カタパウシス”、作戦通り。四名、全員沈黙しました〜♪」
「ええ、確認済みですよ」
プルトの声はまるで讃美歌のように静か。
「ところで――神官。メルクリウス・ゾルクォーデ」
「はいはい、彼も無事に睡眠済みですよ?」
アリスが報告書のように返す。
「それがですね……聖痕、未覚醒だったんですよ」
「……未覚醒、ですか」
プルトの目が、わずかに細くなる。
「ということは、彼は――本当にアンスロポス連合の生まれなのですね」
アリスが片足を抱えながら聞き返す。
「ねぇマスター、アンスロポス連合に勇者が出るのって、何年ぶりなの?」
「……150年ぶりでしょうか」
プルトは微笑んだ。
「ふふふ……懐かしいですね。あのときも、よく燃えました」
「……わぁ。縁起悪ぅ〜♡」
アリスがにやり。
「始末できれば、ご褒美をあげますよ」
その声は甘く、けれど背後に“死の予感”を漂わせていた。
「やった〜!ねぇマスター、チョコの泉みたいなのがいい!」
デクシアが即答で乗る。
「チョコレートファウンテンね♡」
アリスが笑いながらツッコむ。
「じゃあ私、チョコとマカロンが飛んでくるやつがいい♡」
「お祭りですね。あの人たちが目を覚ます前に全部終われば、ですが」
「へぇ〜、それもまた楽しみ♡」
闇の中にだけ咲く、極彩色のご褒美と死の約束。
その夜、静かに、しかし確実に――すべては仕込まれていた。
通信が途切れる。
黒水晶の面が静かに闇へ沈んだ。
プルト・スキアは、誰もいない礼拝堂に立ち尽くしていた。
淡く照らすのは、頭上から差し込む夜のステンドグラス。
そのガラスに描かれた図像――かつての教祖、エレボス。
闇を象徴する男。
“信仰の破壊者”と呼ばれた異端者。
――そして、プルトの父。
彼女は指先を伸ばし、そっとガラスの輪郭をなぞった。
「……エレボス様」
その声は、敬意と恋慕と、すべての感情を混ぜたもの。
「貴方に愛された記憶はなかった。
振り向かれることも、抱きしめられることもなかった。けれど」
ステンドグラスに差し込む月光が、
彼女の白い頬をほんのりと照らす。
「ここで、あの神官を消せば――きっと、貴方は笑いかけてくれる」
淡く、微笑む。
それはどこまでも歪んでいて、どこまでも真っ直ぐだった。
「……私は、貴方の娘として生まれてきた」
「その意味を、誰よりも綺麗に見せてあげますね」
静かな夜に、狂気と信仰の祈りが重なって――
ステンドグラスの影が、ゆらりと揺れた。
—–
「…………ここは……」
ぼんやりと霞んだ意識の中、メルクリウスはゆっくりと瞼を開けた。
鈍い頭痛、唇の乾き。
そして、冷たい床の感触。
棚には粉まみれの小麦袋。
ガラス瓶、調味料、空になった木箱。
「……倉庫か」
直感で、そう思った。
暗い。けれど完全な密室ではない。
わずかに差し込む換気孔の明かりが、影を落としていた。
「……懐かしいね」
メルクリウスは、静かに言葉をこぼした。
「神像を破壊して押し込められた修道院の部屋……あれに、よく似てる」
記憶の奥、誰にも会いたくなかった頃。
会う者すべてに怒りをぶつけていた頃。
(罰として閉じ込められたあの部屋。違いがあるとすれば……)
両手を少し動かすと、金属音が響いた。
鉄の輪、繋がれた鎖。
「……これの有無だね」
そう言って、メルクリウスは首を上げる。
目の前に広がるのは、明らかに“処分”のために用意された空間。
ここから逃げることは、想定されていない。
それでも彼は、笑っていた。
「……さて。推理の続きを、しようか」
暗い、石造りの狭い部屋。
冷たい床、隙間風の吹く壁。
扉の小窓の向こうに立つ、年老いたシスターの影。
「……マーキュリー」
それが、かつての名だった。
洗礼を受ける前の、まだ誰にも“神に愛される存在”と認められていなかった少年の名。
「反省……しましたか?」
その問いは警戒と義務感と、少しの哀れみで作られていた。
だが少年は、微動だにしなかった。
痩せた腕を組み、頬に傷をつけたまま、壁に背をもたれて座り込んだまま。
ただ、冷たい目でシスターを睨んだ。
「俺は悪くねぇ」
声に、怒りと乾いた自信がにじむ。
「神はいねぇ。いても黙ってるだけの臆病者だ。証明してやっただけだ」
シスターは言葉を失った、けれど少年は止まらない。
「……餓死したらしたでいい。“清貧”ってのはそういうことだろ?」
狂気ではない。
ただ、理屈と、反抗と、絶望だけで構成された言葉だった。
その瞳に、涙はなかった。
ただ、何もない空洞だけが、シスターの姿を透かしていた。
「……あの時の僕と、今の僕。違いがあるとすれば」
――今は、神像を壊さずに済む。
それだけだ。
静かな倉庫。
かすかな粉塵が舞い、足元には古びた布の切れ端が散らばっている。
メルクリウスは、冷たい床に腰を下ろしながら、
自分の両手に巻きついた鎖を引っ張ってみた。
「……困ったね」
ため息が漏れる。
「僕はあいにく、鎖を引きちぎれる腕力を持ち合わせていない」
そう呟きながら、手枷に触れる感覚を確かめる。
(ああ、そうだ。僕は未覚醒なんだ)
ガイウスが持つ、馬より速く駆ける足も。
サタヌスが持つ、素手で鉄を飴細工のごとく曲げる腕力も。
ヴィヌスが持つ、光の刃を生み出す魔力も。
何ひとつ、ない。
ただの人間として、心臓を穿たれれば、死ぬだけ。
(……芽は早いうちに摘め、というやつか)
静かに考え込む。
「未覚醒である以上、僕を始末する方が効率的として捉えられたか」
その可能性を反芻していると、倉庫の奥から――低く、硬質な足音が響いた。
メルクリウスは顔をしかめ、音のする方へとゆっくり首を向ける。
(……来る)
その歩調は、明らかに何かを持っている重さ。
足元で、金属のこすれる音。
「さて……どうしようか」
彼は冷静に、逃げ道を探すために視線を巡らせた。
倉庫の扉が軋みを上げて開いた。
足音が二つ。
不規則に響くステップと、軽やかなリズムが混ざり合う。
メルクリウスはその音だけで、誰が来たかを理解した。
「……僕への懺悔……じゃないようだね」
デクシアが笑う声がした。
「おいおい、神官ってば。寝起きにしちゃ賢いじゃねぇか」
「でも残念、私たちに懺悔する義務なんてないよ♡」
アリスが首を傾げて、にっこり笑う。
メルクリウスは静かに目を細め、二人の動きを冷静に見極めようとする。
デクシアが足を組んで、嘲笑うように言った。
「さぁて、ホンモノの勇者さま。どう?眠りから覚めた感想は?」
「……まぁ、それなりにすっきりしたよ」
メルクリウスは皮肉気味に応じた。
「君たちが、アサシンだったという事実もすっきり理解した」
「んふふ、賢いねぇ」
アリスが拍手をしながら言う。
「でもねぇ、ホンモノって言ったけどさ、実際どうなんだろうね?」
デクシアが手の甲を見せつけた。
「ほら、見てくれよ……これ」
メルクリウスはデクシアの手の甲を見つめた。
そこに浮かぶのは、魔法円のようでいてどこか歪んだ紋章。
周囲の円は勇者の聖痕と同じだが、中心――それは七芒星ではなく、逆さの五芒星。
しかも中央に、禍々しい“眼”の紋様。
そして、星全体が血のように赤く輝いている。
「ねぇ神官さん、知ってる?勇者ってさ、こういうの持ってるもんじゃん?」
「おかしいよねぇ、君にはないのにさ」
デクシアが肩を揺らして笑う。
「俺たちにはあるのにねー♪」
その言葉に、メルクリウスの瞳が冷たく光る。
「……偽りの勇者」
「いいじゃん、別に」
アリスが肩をすくめる。
「出来損ないのホンモノは、さっさと死んでくれた方が助かるし♡」
デクシアがポケットから取り出したのは、針と鉤爪が仕込まれた短剣だった。
「じゃあ、拷問タイムだ。
マスターに“使えるかどうか”の確認しなきゃいけないんでね」
「手加減はしてあげる♡ちゃんと声が出るように♪」
二人が、ゆっくりとメルクリウスに近づく。
「……ふざけた連中だね」
メルクリウスがつぶやく。
けれど、冷静な瞳の奥には――燃えるような光が宿っていた。