アンスロポス連合-祈りを嗤うな - 3/5

倉庫の中、冷たい空気が流れる。
メルクリウスの眼鏡が、デクシアの手に握られていた。

「ねぇ、神官ってさぁ」
デクシアが楽しげに言う。
「知識ぶるのがムカつくんだよね」
アリスも笑いながら、メルクリウスの額をペチペチと叩いている。
「賢ぶってさぁ、“僕は知ってるよ”みたいな顔するでしょ?
あれってさぁ、殺す側からするとイライラするんだよねぇ♡」
メルクリウスは冷静に答えた。

「それは――君たちが愚かだからだ」
一瞬、デクシアの目が鋭くなった。
「……なんだと?」
「自分にないものを恐れ、憎む。それは、人間として正しい感情だよ」
「でも君たちは――“勇者を気取るため”に、そんな感情まで借り物にしている」
デクシアの眉が跳ね上がる。

「おい、これ――神官の大事なトレードマークなんだろ?」
メルクリウスから眼鏡を奪い取り。そのまま床に投げ捨てた。
「おいおい、神様に頼んで拾ってもらえよ」
そう言って、無造作に足を振り下ろす。
ガラスが砕け、レンズが散らばる。
片方のフレームが歪み、無惨な形に変わる。

「――ッ」
メルクリウスが、微かに眉をひそめた。
アリスは笑っている。
「うわぁ、これってさ、もしかして“大事なもの”だった?」
「知性の象徴ってやつかぁ〜、ガラス細工みたいに脆いね♡」
メルクリウスは、言葉を発しなかった。
ただ、銀輪を抑えながら、視線だけを床に向ける。
デクシアがさらに近づき、短剣を振り上げる。

「おっと、泣きそうになってんのか?
神官ってやつは、知識がなくなったらただの役立たずってか?」
ガラスの破片が床に散らばり、片目を失った眼鏡が無残に横たわっている。
デクシアは床に跪き、メルクリウスの胸元に短剣を押しつけた。
「おい、神官――どうして声出さないんだ?」
メルクリウスは冷静に、喉元に感じる金属の冷たさを受け止めていた。

「……痛みに、意味があるなら声を上げるよ」
「は?」
デクシアの目が鋭くなる。
「なにそれ、ムカつく」
短剣をさらに押し込もうとするが、アリスが軽く手を抑えた。
「え〜♡でもさぁ、静かな男っていいじゃん?」
「……は?」
デクシアが振り向く。
「ほら、聖職者ってすぐ泣くじゃん?
“助けてください”とか“やめてください”とかさぁ、声がうるさくて嫌なの」
アリスはメルクリウスの顔を覗き込む。
「静かにされるとねぇ……こっちも楽なんだよね♡」
デクシアはそれに、鼻を鳴らす。
「じゃあさ、もっと“静か”にしてやろうか」
短剣を引き、逆手で頬を打つ。

「ッ……」
メルクリウスの頬が、薄く赤く染まった。
けれど、声は出ない。
デクシアが苛立ち、もう一度――今度は逆の頬に、平手打ち。
眉が僅かに震えたが、メルクリウスは決して叫ばない。
アリスが、ゆるりと微笑む。

「ねぇデクシー、いいじゃん、こういうの♡」
「……ったく、つまんねぇよ」
デクシアは短剣を振り回し、壁に突き立てる。
「どうせなら、“泣き叫ぶ勇者”を見せてくれっての」
デクシアが短剣を振り回しながら、
少し疲れたようにため息をついた。

「……なんで黙ってんだよ、神官」
アリスがメルクリウスの頬を指でつつきながら、
にこにこと笑いかける。
「ねぇ、何で黙ってるの♡」
その笑顔の裏に、何かを確かめようとする意図が滲んでいた。
「……もしかして……経験者?」
メルクリウスは、ゆっくりと息を吐く。

「……修道院にいた時、よく叩かれた」
「へぇ」
「あなたは何で怒鳴ってばかりなのってね。
暴れると、余計に叩かれる。……だから、声を出さないようにした」
デクシアが、ピタリと動きを止めた。
「おぅ」
隣で、アリスもふっと笑う。

「ねぇデクシー……」
「うん?」
「……まるでマスターに会う前の私たちみたいだね♪」
デクシアは頷き、短剣を床に突き立てて座り込む。
「だなぁ。……あの頃、やたら叩かれてたしなぁ」
「ねぇアリス、俺たちが“使えない”って言われて――」
「でも、アイツらをマスターが皆殺しにしてくれたから、今があるの」
「うん、マスターがいなかったら、ずっとあのままだったよね♡」
「そうだよなぁ……」
そのやりとりに――メルクリウスは、しばし沈黙した。

(……これは……)
ようやく――ピースが繋がる。
「君たち……」
「ん?」
「もしかして、ハリマ修道院の生き残りかい?」
デクシアとアリスが、同時に目を見開いた。
「あれ……?ねぇデクシー……」
「……うん。なんで知ってんだよ、神官?」
声のトーンが、わずかに低くなる。

「ハリマ修道院……かつての悪徳聖職者の溜まり場。
信仰を盾に、子供たちを奴隷のように扱い、
“使えない子供は殴って躾ける”という名目で――」
「――ふざけんなよ」
デクシアが、憎悪を滲ませて叫ぶ。

「あそこは地獄だったんだぞ!?」
「でも、マスターが全部焼き払ってくれた。
だから、俺たちは――マスターに“選ばれた”んだ」
アリスが微笑みを浮かべたまま、
その表情を少しだけ曇らせた。

「……そうだよね。“使えない”って言われてた私たちを。
マスターだけが助けてくれた……」
静かな部屋に、狂気と安堵が入り混じった空気が充満する。
「……アンスロポス連合の街の一つ、“ハリマ”。
あそこにはかつて、悪徳聖職者が集まった修道院があった」
デクシアが無意識に、拳を握りしめていた。

「そこは――地獄だったんだよ」
アリスが微かに笑みを消し、目を伏せて静かに語り始める。
「……あの修道院、親に捨てられた子供が送られる場所だったの」
「“お前は神に愛されない”って親に言われて、無理やり送り込まれるんだ」
「……ハリマ送り、って言葉があった」
デクシアが苦々しげに言う。
「あそこに行ったら、二度と帰ってこない。
労働させられて、怒られたら殴られて、逃げたら足を折られる」
メルクリウスが、その話を無表情で聞きながら、頭の中で組み立てていく。

「……ある日、急に来たんだ」
アリスが、まるで夢のような声で言う。
「夜、いつも通り祈りの時間だった」
「外が赤く燃えてて、火の粉が窓から入ってきて――」
「……マスターが来たんだ」
デクシアが笑みを浮かべる。

「マスターが、あの神父どもを全員焼き払ってくれた。
俺たちは、ただ――あの闇が、光に見えた」
アリスが、デクシアの腕にしがみつく。
「だからさ――神官なんて見てるとムカつくんだよ。
お前、あいつらと同じにおいがするんだ」
その言葉に、メルクリウスは沈黙する。
(……もし僕が……あそこに送られていたら――)

「どうした、神官?」
「お前も同じだろ? “使えない”んだろ?」
「だったら、死んじゃえば?」
「だって――俺たちは選ばれたんだから♪」
その言葉に――メルクリウスの心が、僅かに痛んだ。
「ねぇ、神官さん」
アリスが微笑みながら、静かに口を開いた。

「知ってる?あの日、マスターが来たとき……天使だと思ったんだ」
メルクリウスは眉をひそめる。
「天使?」
デクシアが、まるで心地よさそうに背を丸めながら言った。
「……突然、教会の扉が破れて、黒い影が差し込んだんだ」
「外は赤く燃えててさ、神父どもが悲鳴を上げて走り回ってた。
でも、その中心にいたマスターは、ただ――静かに、歩いてきた」
アリスが、まるで夢を見るような瞳で語る。

「無駄に大声出さないんだよな、マスター」
デクシアが肩を震わせながら笑う。
「……マスターのローブがね、闇の中で翻った。
その裾が、まるで黒い翼みたいに見えたんだ」
アリスの瞳が輝く。

「その時、初めて知ったの。
“天使って、本当はこういうものなんだ”って」
「神様なんかいないんだよね。でも、マスターだけは違う」
デクシアが頷き、自分の手の甲の邪痕を見つめる。

「……そしてさ、俺たちに名前をくれたんだ」
「デクシア(右)と――アリステラ(左)」
「右腕と左腕だって、そう呼んでくれた」
アリスがふわりと笑う。

「それからね、神官なんて見てると笑っちゃうんだ。
だって、マスターが“神を殺した”んだもん♡」
デクシアも笑う。
「だから――お前みたいな偽物勇者、ここで死んでもらった方が都合がいいんだよねぇ」
メルクリウスは、床に落ちた眼鏡を見つけると、わざと動作を遅らせて屈んだ。
割れたレンズを拾い上げ、布で拭うふりをしながら、頭の中を整理する。

(おかしい……)
女神の盾。
アンスロポス連合を覆う、魔族排斥の結界。
百五十年以上、展開され続けているはずの絶対防壁。
(……連合に、魔族が入った?)
思考が一瞬、そこで引っかかる。
あり得ない。女神の盾は魔族を拒む、例外は存在しない。

ほんの少し前のことだ。
三勇者と出会う、さらに前。
リプカ郊外。
夜が完全に退ききらない早朝、湿地に朝霧が溜まる時間帯。
メルクリウスはいつものように、集落外れの高台でぼんやりと霧の流れを見ていた。

「ね、ねぇユピテル様……」
振り返らなかった。
だが耳は、勝手に拾ってしまう。
「僕……最近まで人間でしたし……」
「さ、さすがに今すぐ“完全魔族扱い”は、ないですよね……?」
声の主は、白い軍服の青年。
後に“カリスト”と知る男だ。

メルクリウスは、霧の向こうにぼんやりと“境界”を見た。
女神の盾。
連合領土を覆う、見えない線。
カリストは、おそるおそる手を伸ばした。
「最近まで人間だったし……」
次の瞬間、触れた部分から白い煙が立ち上った。

「……っ!?」
一拍遅れて、悲鳴。
「うわあああ~!!!」
「無理!!焼ける!!痛いよおおおお!!」
慌てて手を引っ込め、地面に転がり、泣き叫ぶ。
さっきまでの媚びた声は消え、完全に“痛みに正直な生き物”だった。
皮膚が焼け落ちるほどではない。
だが、拒絶されたことは明白だった。

ユピテルは笑っていた。
助けもしない。慰めもしない。
ただ「ほらね」と言わんばかりの顔。
メルクリウスは、その光景を遠くから見ていた。

(元人間でも……魔族になった瞬間、盾は容赦しない)
曖昧な判定はない。
猶予も、情もない。
性質が変わった時点で、即アウト。

(なら――)
ハリマ修道院を焼き、連合の内側を歩いた魔族。
(“元人間だから”通れたわけじゃない)
思考は、自然にそこへ帰結する。

(例外がいる)
(最初から、弾かれない存在が)
泣き続けるカリストの背後で、世界のルールが一段、はっきりと輪郭を持つ。
――もし本当に「母のように愛している」なら、
こんな“触れたら焼ける現実”に、子供を近づけさせるはずがない。
邪痕は祝福じゃない。
訓練でもない。
脱走防止の首輪と同じ発想の、内蔵型自壊装置。
だからこそ、メルクリウスは確信する。
(……優しさを装った合理性ほど、残酷なものはない)

サタヌスは異端の勇者、半人半魔。
完全な魔族ではない。
完全な人間でもない。
(もし“盾”が、魔族かどうかを“性質”で判別しているなら……)
割れた眼鏡をかけ直し、メルクリウスは小さく息を吐いた。
レンズの向こうで、世界がわずかに歪む。

(通り抜けたんじゃない、弾かれなかったんだ)
女神の盾は破られていない。
欺かれたわけでもない。
ただ――判定の外側にいた。
あの子たちが「マスター」と呼ぶ存在。
メルクリウスは、眼鏡を直しながら、心の中で結論を下す。

(魔族が入った、じゃない)
(入れてしまう存在が、最初からいた)
――女神の盾は、万能じゃない。
それを知った瞬間、この国の“安全神話”が、音を立てて崩れ始めていた。