アンスロポス連合-祈りを嗤うな - 4/5

「お前さぁ、天使見たことある?」
デクシアが短剣を持ち、メルクリウスの顔に近づける。
その声は、どこか勝ち誇った調子だった。
メルクリウスは、額から流れる血を指で拭いながら、わずかにかすれた声で答える。

「……天使は……見えるものじゃない」
「は?」
デクシアが眉をひそめる。
「天使は降臨しない限り、人間の視界には捉えられない」
「……もし、見えるとするなら――」
メルクリウスが、喉を押さえながら続ける。
「それは堕天使だ、よ……」
かすれた声の中にも、確信が滲んでいた。

「――おいおい、負け惜しみかよ?」
デクシアが苛立ち、短剣を突き刺そうとした瞬間――。
「ねぇデクシー」
アリスがその手を止める。
「何だよ」
「……この人、本当に天使見たことないんだね」
「だって、マスターは――」
アリスが、笑みを浮かべたまま呟く。

「マスターは、天使だったよ。
黒くて、冷たくて、優しい、天使」
メルクリウスは、
その言葉を聞いて、眉をわずかにひそめた。
(――黒くて冷たい天使……)
「……お前、本当の天使を知らねぇから、そんなこと言ってんだよな」
デクシアが、再び短剣を構える。

「俺たちは見たことあるんだ」
「神なんていないけど、マスターだけは天使なんだよ」
「――そうだよね、デクシー♪」
アリスが、にこりと笑う。
「そうだろ」
「だって――マスターは、僕たちを救ってくれたんだ」
メルクリウスは、その言葉を飲み込みながら。
わずかに苦しそうに息を吐いた。

「……それは……違う」
「――は?」
デクシアの顔が一瞬で険しくなる。
「……君たちは……騙されている」
メルクリウスが、微かに笑みを浮かべながら答えた。

「“黒い天使”なんて、そんなものは存在しない」
その言葉が、小さな傷をつけた。
「……黙れ」
デクシアが、短剣を振りかぶった、
三つ編みを結んでいる紐が切れ、ばさりと青の長髪が広がる。

「……聖女殺しもっ……ぐ、ぅ……」
「ん?なんだよ」
デクシアが眉をひそめる。
「“天使”の命令かい?」
アリスが、その言葉にくすくす笑い出す。
「あのね、神官様♡」
甘い声で囁きながら、
ポケットからチャクラムを取り出した。
金属の円環が、カシャリと冷たく音を立てる。
アリスはそれをゆっくりとメルクリウスの腹部にあてがい、
微かに押し込んだ。

「実はね、アリスちゃんの家ね、エル家の生き残り♡」
「……なに?」
メルクリウスの目がわずかに動く。
「だからねぇ――アリスちゃん、なりたいんだよね」
チャクラムを押し込む力が増す。
「16代目の聖女様♡」
その声には、どこか歪んだ熱意が含まれていた。
デクシアが肩を揺らしながら笑う。

「なぁ、わかるよな?あの温室育ちのバカ聖女よりも」
「アリスの方がよっぽど由緒あるんだぜ?」
「うんうん、わかってくれる?」
倉庫の空気は湿っていた。
古い木箱と鉄骨の匂い、油と埃が混じった夜の冷気。
その奥で、アリスがふっと笑う。
メルクリウスは、まだ床に膝をついたままだった。
腹部から滲む血が石床に細い線を描いている。

アリスはその前にしゃがみ込み、顔を覗き込むようにぐっと近づいた。
金色の瞳が、愉快そうに細まる。
「ねぇ神官様」
声は軽い。
まるでおしゃべりの続きをするみたいに。
「聖女ってさぁ、パンダだよね」
メルクリウスの眉がわずかに動く。
アリスは、くすくす笑いながら指を折った。

「だってそうじゃん?かわいい、無害、でも何もできない」
その顔に、子供のような笑みが広がった。
「動物園のアイドルと何が違うの?」
その声は、まるで本当に不思議がっているみたいだった。
「檻から出たら一日も生きられないよね」
そして、首をかしげた。
「ねぇ?そう思わない?あの子♡」

「聖女ってさぁ、選ばれるべき血筋じゃないとおかしいでしょ?
だから、“正統”じゃない聖女なんて――いらないんだよね」
「……なるほど……」
メルクリウスは苦しそうに息を吐きながら、
その言葉をかみしめた。
「聖教を……乗っ取る、つもりか……!」
その瞬間――チャクラムが、さらに深く押し込まれる。
「当たり♡」
アリスの顔は、狂気と喜びの色が交差していた。

「でも、どうせマスターが全部壊すからねぇ……
ただ、私が聖女様になれば、もっと“まともな教団”になるかなって♡」
デクシアが笑う。
「そもそもさぁ、シャルロッテってただの飾りじゃん?」
「あんなバカ娘がトップとか、教皇庁自体が腐ってるって証拠だろ?」
「……そうだよね、デクシー♪」
アリスが頷きながら、さらにチャクラムをぐっと押し込む。

「だから、アリスちゃんが“本当の聖女”になるんだ♡」
「……ッ……!」
メルクリウスは、痛みに耐えながらも――冷静に、分析を続けていた。
(……シャルロッテを殺し、自分が次代の聖女として名乗り出るつもりか……
そして、それを支えるのが――黒き天使=プルト……)
痛みの中で、ようやく真実の輪郭が浮かび上がってきた。

「初代聖女様は……生涯独身だったそうだが?」
メルクリウスが、傷口を押さえながら、かすれた声で問いかけた。
アリスは、その言葉ににっこりと笑う。
「正解♡」
チャクラムをくるりと回しながら、授業をするように話し始めた。

「エル家――つまり、初代聖女様の家系ね。
初代聖女シャルロッテ・エル・ロスガルスは、
勇者エイレーネに殺されて“ロスガルス”という血統は絶えたんだよね♪」
「だから、聖女って“襲名制”になったんだろ?」
「そうそう!」
アリスが指を立てて頷く。

「初代聖女様の家族も皆殺しにされたの。でも……私のご先祖様は生き残った」
アリスのご先祖様――初代聖女の叔父夫婦は。
「聖女殺し」の夜、生き延びた数少ない者だった。
事件のあと、人々はそれを「神の奇跡」と語り継いだ。
“あの地獄で、唯一生きて帰った家族”――そう持ち上げられた。
けれど、叔父夫婦は生涯こう語っていたという。

「あの夜、私たちの前に“黒い悪魔”が現れた。
確かに私たちに気づき、一歩、また一歩と、真っ直ぐ近づいてきた」
だが目が合った瞬間、その悪魔はシャムシールを納め。
何か言いたげに、わずかに首を横に振った。
そして静かに踵を返し、夜の奥へと去っていった。

周囲は「それが神の慈悲、奇跡だ」と信じて疑わなかった。
だが、叔父夫婦の目に焼き付いて離れなかったのは。
あの黒い悪魔が“明確な意志”で自分たちを殺さず。
まるで“使い道のために残した”かのような眼差しだった。
神の奇跡などではない。
誰かが「わざと生かした」結果、奇跡に見せかけただけだった。
“救い”の物語に仕立てられた裏で「次代の火種」を残すためだけに。
悪魔は剣を収めて去っていった。

「アリスの両親は強制的に巡礼送り。その先で――事故死ってやつさ」
「……なるほど」
メルクリウスは、その言葉を飲み込むように呟いた。
「それで君は……ハリマ修道院へ」
「当たり♡」
アリスが、楽しげに笑った。
「だからさぁ――私は正当な血筋なの。
聖女っていう名前を継ぐのに、私ほどふさわしい人間はいないんだよね♡」
メルクリウスの表情が、微かに苦く歪む。

(……正統な血筋……僕には、そんなもの――)
「ねぇねぇ、神官様」
アリスが、軽やかな声で問いかける。
「君には、何があるの?正統な家柄?血筋?何もないよね♡」
その声が、まるで心臓をえぐるように響いた。
“必要のない存在”として生きてきた過去が、フラッシュバックする。
アリスが、さらに言葉を重ねる。

「ねぇ、私のこと羨ましい?正統な家柄を持ってる私のこと――」
その問いに――メルクリウスは、かすかに笑った。
「……羨ましいよ」
メルクリウスが、わずかに震える声で口にした。
アリスが、一瞬、目を見開いた。
「……へぇ」
「……僕の名は――あの家では“口にすること”すら許されない」
メルクリウスは、唇を噛みしめながら続けた。

「部屋と言えば、蔵だけ。正門から入るなんてもってのほか」
「僕の存在自体が“無かったこと”にされている」
その言葉に――アリスは、しばし黙った。
そして、くるりと踵を返し、
デクシアの胸に軽く寄りかかりながら、
ふわりと笑った。

「闇♡」
その一言が、毒のように甘く響いた。
デクシアが、苦笑しながらメルクリウスを見下ろす。
「……神官さん、案外普通の人間なんだな」
「何が?」
「だってさ――嫉妬してんじゃん」
「……」
メルクリウスは、自嘲するように目を伏せた。

(……そうだ。僕は――羨ましい)
正統な血筋を持ち、認められ、愛され、存在が許されている。
そんな彼女が、眩しくて仕方なかった。
(……僕には、何もない)
自分が“勇者”として認められていないこと、聖痕が未だに発現していないこと。
それらすべてが、ただの“空っぽ”に感じた。

アリスが、少しだけ顔を近づけて、耳元で囁く。
「ねぇ、神官様――そんなに欲しかったんだ、正当な存在っていう“肩書き”が♡」
メルクリウスは、何も言えなかった。
その瞳に、ほんの少しだけ悔しさの涙が滲んだ。
アリスが、メルクリウスの頬を撫でながら甘い声で囁く。

「ねぇ、神官様――マスターに会ってみたら?」
「……」
メルクリウスは、まだかすかに震えたまま言葉を飲み込む。
「マスター、優しいよ♡」
アリスが、まるで恋人に触れるように指をすべらせる。
「特にね、闇深い人には――」
「……闇深い?」
メルクリウスが、わずかに顔を上げる。

「……ねぇ、神官様――欲しいでしょ? “自分が肯定される”場所が」
「……ッ」
メルクリウスは、その言葉に――心が揺れた。
(……肯定される……場所?)
デクシアが、そっとメルクリウスの額に触れ乱れた髪をかき分ける。
「お前さ――可哀想だよな。
誰からも認められず、生きてる意味さえわかんねぇんだろ?」
「……僕は……」
(なんのために――生まれてきたんだ)

その言葉が、心の奥で何度も反響する。
気づけば――頬に、一筋の涙が伝っていた。
アリスが、その涙を指でぬぐう。
「……ほらね、寂しかったんだ」
「……違う……」
「ううん、違わないよ」
アリスが、まるで哀れむように微笑む。
「だってね、泣くってことは――心が、もう限界だって言ってるんだよ♡」
デクシアが、そのままメルクリウスの肩を抱きしめる。
「お前さ――一緒に来いよ。マスターのとこなら、救われるぜ?」
「……僕は……」
心の中で「救われたい」と叫ぶ自分がいた。