――少年時代。
修道院の狭い部屋で、独り膝を抱えていた。
その日は――いつもと違っていた。
普段なら怒鳴り声をあげて、神像を蹴り倒していたのに。
ただその時だけ――声を出せなかった。
(……なんで、僕だけ……)
他の子供たちが――聖歌を歌っている。
「マーキュリー」
老いたシスターが、そっと背後に座り込む。
「……今は、神を信じられなくていいのです」
マーキュリー(メルクリウス)は、俯いたまま何も言わない。
「しかし―祈りを否定してはいけません」
「……祈り……?」
「祈りを嗤ってはいけません」
シスターの手が、そっと少年の頭を撫でた。
「祈ることは、人の心を守る手段なのです。
……信じられない時も――それでも、人は祈りを捨てられない」
その言葉が――心の奥に突き刺さった。
「……僕には、祈る意味がない」
「それでも――他の人にはある」
シスターは、静かに微笑んだ。
「あなたが祈れない時でも――誰かが、あなたのために祈っているのですよ」
その時、初めてマーキュリーの頬を涙が伝った。
(……僕のために――祈る人が――)
現在――
デクシアが、メルクリウスの肩を軽く抱きしめながら囁いた。
「お前さ――楽になれよ」
「闇に堕ちるって、案外悪くねぇぜ?」
「ねぇ、神官様」
アリスがそっと頬を撫でながら笑う。
「マスターなら、きっと救ってくれるよ」
「そうだ、救われろ」
二人の声が、甘く絡みつくように耳を刺す。
(……誰かが、僕を祈っている)
(……だからこそ――)
メルクリウスは、震える声で呟いた。
「……祈りを嗤ってはいけない」
デクシアが眉をひそめる。
「……は? なんだよ、急に」
「祈りを嗤ってはいけないんだ」
メルクリウスは、自分の心の中で繰り返す。
(あの時、僕は泣いた。あのシスターの言葉が、僕の魂を救った)
「……お前、まだそんなこと言ってんのか?」
デクシアがため息をつき、アリスもくすくす笑う。
「バカだよねぇ♡神に見捨てられたやつが、何祈ってんの?」
「“見捨てられた”……」
メルクリウスの目が、かすかに光を宿す。
「違う……僕は見捨てられてなんかいない」
「はぁ?」
「祈りを嗤わない人が、僕を救おうとしたんだ」
メルクリウスは、ゆっくりと顔を上げる。
「――だから、僕は負けない」
「何言ってんだ、てめぇ!」
デクシアが短剣を振りかぶる。
その瞬間――メルクリウスの瞳が、静かに開かれた。
――青き光が、部屋を包み込む――
「……ッ、何だ、この光……!」
アリスが、目を細めて叫ぶ。
「僕は――祈りを背負う者」
「闇に堕ちて、ただ救われるだけの存在じゃない」
メルクリウスの周囲に、冷気が漂い始める。
「君たちが信じる“黒い天使”なんて――本物の天使じゃない」
デクシアが焦りながら叫ぶ。
「黙れ! 闇の中で、救われて何が悪い!!」
「――違う。救われるために、闇に堕ちるなんて、僕はしない」
メルクリウスの額の銀輪が、
光を放ちながら霜を纏う。
「僕が選ぶのは――神に与えられた道じゃない。自分で歩む覚悟の道だ」
氷の結晶が、メルクリウスの手の中で形を成す。
「――僕が選んだ呪いだ」
その声には、迷いがなかった。
メルクリウスの瞳が、今までとはまるで違う光を宿していた。
冷気が漂い、床にうっすらと霜が降りる。
デクシアとアリスが、目を見開いて後ずさる。
「お、おい……なんだよ、これ……」
デクシアが、短剣を握りしめたまま冷や汗を浮かべている。
メルクリウスは両手を見下ろし、手枷に巻かれた鎖を、握りしめた。
「……さっきまで、どんなに引っ張っても――ちぎれなかった手枷」
その言葉に、アリスが不安げに呟く。
「ねぇデクシー、これって――」
「う、嘘だろ……!?」
メルクリウスが、冷笑を浮かべながら鎖を引っ張った。
「……ふんっ!」
粉砕。
金属音が響き渡り、手枷が木端微塵に砕け散った。
デクシアが、驚愕の声をあげる。
「マジで……?」
メルクリウスは瞳を細め、冷たく笑った。
「ああ、マジだとも」
その声には―これまでの冷静さではない。
荒々しさと威圧感が滲んでいた。
かつての狂犬が知性を纏い、戻ってきた。
メルクリウスはすっと立ち上がり、その手には
七芒星の聖痕が、青白く輝き始めていた。
「お、おい、なんでだよ!?さっきまでただの神官だっただろ!」
デクシアが、短剣を持ったまま後ずさる。
「君たちが“祈り”を嗤ったからだ」
メルクリウスは静かな笑みを浮かべながら前へ進む。
アリスが、興奮したように目を輝かせた。
「ねぇねぇ、なんでそんな強くなっちゃったの♡」
「知らないよ。ただ、僕が“本当の自分”を取り戻しただけだ」
その声が、どこまでも冷たく、どこまでも力強い。
「おい、てめぇ、何企んで――」
デクシアが短剣を構えるが、メルクリウスは鼻で笑った。
「懺悔の準備は出来たか?悪ガキども」
鋭い瞳が、完全にマーキュリーのそれに戻っている。
デクシアが怯んだ。
アリスが、ぞくりと身震いした。
「なぁ、デクシー……これってまずくない?」
「おい、逃げ――」
その瞬間――氷の刃がデクシアの頬をかすめた。
「ひっ……!?」
刃の冷たさが、神経を凍らせる。
メルクリウスは、ゆっくりと氷の刃を生成しながら。
微かに笑って言った。
「――さぁ、ここからはお説教だ」
「逃げられると思うなよ」
「……まずいっ……逃げるぞアリス!」
デクシアが、冷や汗を浮かべながら叫ぶ。
「いやん♡お仕置き確定♡」
アリスが、少し嬉しそうにデクシアの手を取る。
「待て!」
メルクリウスが、鋭い声で叫ぶ。
だが、その瞬間――デクシアが床に煙玉を叩きつけた。
白煙が、瞬く間に倉庫を覆う。
「クソッ……逃げやがったか」
メルクリウスが、鋭い瞳で煙の中を睨む。
すぐに追いかけようと、足を一歩踏み出したその時――。
「……あぁ……いけないいけない」
メルクリウスが、ふと冷静さを取り戻す。
(洗礼前の顔に戻ってしまった……)
思わず苦笑しながら、自分の両手を見つめた。
氷の刃が、わずかに青い輝きを放っている。
その事実に気づき、ゆっくりと氷を解く。
(……今の僕は、狂犬マーキュリーじゃない。メルクリウスだ)
その瞬間、煙が薄れていく。
(……カフェのどこかに、残りの3人がいるはずだ)
メルクリウスは、冷静に周囲を確認する。
「悪ガキどもめ……今度こそ、懺悔させてやる」
手の中に、わずかな氷片を残し、メルクリウスはゆっくりと歩き出した。
薄暗いカフェの休憩室。
静かな空気が流れ、わずかに外から漏れ入る街灯の光が。
三人の勇者の寝姿を浮かび上がらせていた。
――まず、ガイウス。
190cm近い長身が、ソファに収まりきらず、無理やり体を丸めて寝ている。
マントを毛布代わりにして、腕を枕にしているが――
案の定、重力に負けて床に転がり落ち、床にごろんと丸くなった。
――次に、ヴィヌス。
彼女はピタリと足を揃えて横たわっている。
一糸乱れぬ寝姿は、まるで舞台の幕が下りた後の主演女優。
穏やかな寝息が、かすかに心地よい音を立てている。
――そして、サタヌス。
彼だけは、仮眠ベッドを完全に占拠していた。
仰向けで大の字。
片手は枕に突っ込み、もう片手はだらしなく垂れ下がっている。
口を半開きにして、軽くいびきをかく。
その姿は、まさに少年のまま成長したような無防備さ。
三人とも、どこか平和な寝顔だった。
(……無事でよかった)
扉の陰から、メルクリウスがその光景を見守っていた。
氷の刃をすっと消し、肩の力を抜く。
「……本当に――無事でよかった」
休憩室の片隅に、白い箱が無造作に置かれていた。
メルクリウスは、ふとそれに気づき、しゃがみ込んで手に取る。
「……ヒュプノD」
箱に書かれた文字を、じっと見つめた。
「朝までぐっすり……か」
とびきり強力な睡眠薬であることが、一目でわかった。
(だから――大声や揺さぶりじゃ起きない)
メルクリウスは、眠る3人をもう一度眺める。
床に転がるガイウス、優雅に横たわるヴィヌス。
大の字で占拠するサタヌス。
(……危機が去ったなら、無理に起こす必要もない)
そう判断し、メルクリウスはひとつため息をついた。
「……僕も少々、痛めつけられた」
右手を握りしめると、わずかに鈍い痛みが走る。
(……無事に覚醒できてよかった)
それを確認したことで、緊張が一気に解けた。
メルクリウスは、その場に腰を下ろす。
「……眠っても、大丈夫だろう」
そう呟きながら、壁に寄りかかり、瞼を閉じた。
重くのしかかる疲労感が、徐々に意識を曇らせていく。
(……先ほどの戦闘で、かなり体力を使った……)
無理もない。
「……僕も……眠らせてくれ」
その囁きが、最後の意識だった。
カフェ休憩室には――勇者四人が静かに横たわっている。
夜の静寂が、その眠りを優しく包み込んでいた。
(……祈りを……嗤わない者が……いる限り――)
一つ、また一つ。
横たわる影が増え、カフェには穏やかな息遣いだけが残った。