アンスロポス連合-血とファンタズム - 1/4

デクシアは、薄々わかっていた。
――もう後がない。

たとえ運良く勇者を倒せたとしても、自分の身体がもたない。
邪痕の力は確実に命を削り、内側から蝕んでいる。
さらに今は、身体能力を底上げするため、いつもの倍量のハシーシュをキメていた。
神経は麻痺し、痛覚は完全に遮断。
骨が軋もうが、内臓が悲鳴を上げようが、何も感じない。
それでも、構わなかった。
マスターが「よくやりましたね」と笑ってくれるなら。
それだけで、全部が報われる。

二人は、かつてリプカで繰り広げたパルクールみたいに中庭を駆けた。
教皇庁の柱、崩れかけた天使像、噴水の縁。
空中で蹴り、跳び、反転し、重力を裏切る。
だが――明確に、差があった。
サタヌスのほうが、速い。

斧を逆手に構えた瞬間、空気が変わる。
スラムで、本気で盗むときだけの目。
悪ふざけも、挑発も、全部封じた“生存特化”の動き。
フェイントがなく無駄がない、生き残るためだけの最短経路。
アサシンであるデクシアですら、視線が追いつかない。
「速い……!?」
デクシアの声が、風に千切れる。
息が乱れ、足場を踏み外しかける。

「なんで……俺、めっちゃバフキメてきたのに……」
サタヌスは着地と同時に、低く吠えた。
「バフ入れなきゃパイプ渡りもできねぇのか!?」
「そんなんじゃ!アルルカン下層じゃ、三日も生きられねぇぞォ!!」
理屈じゃない、説教でもない。
“生き方”そのものを、叩きつける声。
デクシアの胸が、ぐらりと揺れる。
痛覚はないのに、心臓だけが妙に重い。

それでも、止まれない。
――捨てられるくらいなら、壊れるほうがマシだ。
紫とピンクの幻光が揺れ、中庭は完全に“逃げ場のない檻”へと変わっていた。

ネリアは中庭の端、幻光の樹に止まった巨大なチョウを睨みつけていた。
淡紫の光を孕んだ翅は、人ひとり分はあろうかというサイズで。
ぱた、ぱた、と悠然と開閉を繰り返している。
この幻術世界の“核”。
どう考えても、こいつがヌシだ。

「この一番デカいのを追い払えば、脱出できるな……」
「んん~……この子、逃げない!図太いタイプだ」
枝を揺らし、石を投げ、わざと大きな音を立ててみる。
だがヌシは我関せず、居座り続ける。
ネリアは顎に手を当て、しばらく唸った。
爆弾は使えない。
音で追い払うのが目的で、殺す必要はない。
……いや、殺しちゃダメだ。これ、幻術の心臓部だ。

数秒後。
その顔が、パッと変わる。
――あ、これ、悪だくみ思いついた時の顔だ。

巨大なアゲハ蝶は、幻の樹の枝に悠々ととまったまま。
“ここが自分の庭だ”とでも言いたげな風格で翅を広げている。
何をしても逃げようとせず、枝を揺らしても石をぶつけても微動だにしない――
普通なら“この蝶は幻術の核だから無理に手を出しちゃダメ”と怯むところだろう。
だが、ネリアは違う。
さっきまでの明るい声色を封じ、今は真っ直ぐに蝶を睨みつけている。

やがて、空気がほんのり焦げるような匂いを漂わせ始めた。
熱も感じる。
それは実際の火花じゃなくて。
“やばいことが起こる”と動物的本能が訴える気配。
そしてネリアは、いつもより何段階も低い声で、ヌシへと語りかけた。

「おい」
その一言で、空気がピリッと引き締まる。
幻術世界の一角、蝶の複眼が、微かにネリアのほうを向いたような気がした。
それでも動かない。余裕を装っている。
だが、ネリアは一歩も引かない。
爆薬の導火線を指で弄びながら、さらに言い放つ。

「……あんまり居座るようなら、燃やすぞ」
低く、地の底から響くような声。
“本気”でやる気がある奴の声だ。
ネリアの笑みは消えていない。
だがその目は、完全に「爆薬を点火する」者のもの。

次の瞬間、空気がきしみ、世界の色が遅れて揺れ始める――
ヌシのアゲハ蝶は、ついに優雅さをかなぐり捨てて、大慌てで舞い上がる!
「ほーら、やっぱり逃げるじゃん!」
ネリアは片手に導火線をちらつかせながら、満足そうにニヤリと笑った。
「冗談だってば……いや、半分だけな」
紫焔が幻の枝先で燻り、蝶の残像がかすかに残る。
こうして、幻術世界の“核”は、ネリアの“恫喝”ひとつで崩れ始めた。

一方、中庭の中央では、死に物狂いの殴り合いが続いていた。
「クソ……!」
デクシアが膝をつき、息を荒くする。
「痛覚、絶ったはずだが……いてぇぞ……」
身体は薬と邪痕で誤魔化せても、衝撃そのものは積み重なっている。
「俺……また捨てられるのか……!?」
その言葉は、弱音というより、祈りだった。

サタヌスは斧を肩に担い、冷ややかに言い放つ。
「あきらめろ」
「生き様も、身動きも……サータ様が上位互換だ」
容赦はない、だが嘘もない。
「くっ……そおおお!!」
デクシアは吠え、無理やり立ち上がる。
その脳裏に、嫌でも蘇る光景があった。

――修道院。

幼い日のデクシアは、聖職者たちの言葉を理解しきれなかった。
難しい説法、神の恵み、献金と救済。
だから、こう思い込んでいた。
「母は、悪い神官に騙されたんだ」と。
だが、現実は違った。

母はただ、信じていた。
「献金すれば、生活がよくなる」
「神様は、ちゃんと見てくれている」と。
神官は悪くなかった、搾取の自覚もなかった。
ただ制度があって、信者がいて、金が流れただけだ。
――母が、信心深すぎただけ。
その結果、生活は苦しくなり、助けは来ず、残ったのは取り残された子供ひとり。
だからデクシアは、“疑わなかった”。
疑うという選択肢を、最初から捨てた。
疑わずに済む存在、すべてを委ねられる存在。
それが、プルトだった。

中庭の空気が、再びざわりと揺れた。
どこか非現実なファンタズム空間が、不意に軋んだ。
空気がねじれ、色彩が遅れて追いつくみたいに、紫とピンクの境界が波打つ。

サタヌスが視線を跳ね上げる。
何が起きた――と理解するより先に、見えた。
巨大なチョウが、明らかに“慌てて”飛び立っていく。
悠然でも優雅でもない、逃走だ。

その進行方向。中庭の端、噴水跡の影で――ネリアが立っていた。
片手に導火線。火花がちりちり、と音を立てて走る。
ネリアは、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
「いや、殺すつもりじゃなかったよ?」
「あんまり居座るなら――燃やすぞ、って見せただけ」
軽い口調。けれど、その背後で幻が燃え上がる。
炎は現実の赤じゃない。
紫焔。夢と魔術が混ざった、ありえない色の火だ。

幻光の庭が、じわじわと焼けていく。
蝶の残像が溶け、空間そのものが剥がれ落ちる。
世界が「維持できません」と悲鳴を上げている。
デクシアが、息を呑んだ。
「……あ……?」
視界が揺れる。
足場だった石畳が、紙細工みたいに透け始める。
自分が立っている場所が、“本当にここなのか”分からなくなる。

サタヌスは、確信した。
――終わる。
幻術が崩れる。
逃げ場も、言い訳も、時間稼ぎも、もうない。

斧を握る手に、最後の力を込める。
視線はデクシアだけを捉えていた。
紫焔が風に煽られ、空間が裂ける。
世界が崩壊へ向かって、カウントダウンを始める。

紫焔が空間を灼く。
世界が一瞬、焼けるように明るくなった。
その一瞬、サタヌスの身体が本能で動いた。
「今だ――!」
上半身を大きくねじり、溜めた力すべてを斧へ。
そのまま全身全霊、フルスイング。
乾いた音が響く。
アサシンの皮をかぶった“ただの少年”に、勇者の一撃が容赦なく叩きつけられた。

「……ああああああーッ!!」
叫びはアサシンでも戦士でもない。
ただの、年端もいかない“少年”の悲鳴だった。
デクシアの身体が、壁に激突する。
同時に、空間を漂っていたファンタズムの蝶も、光も、音も、すべて燃え尽きていく。
そして――世界は血生臭い、現実の中庭へと引き戻された。
血の海、崩れた天使像。
あの紫のグラデーションも幻の蝶も、もういない。
デクシアは壁際に倒れ、震える指で空を掴もうとする。
目は虚ろ、呼吸は途切れがち。

「あぁ。あ……ママ……」
その唇が、掠れた声で紡ぐのは“マスター”でも、“勇者”でもない。
……幼い日の、記憶の底。
修道院に預けられる前の、あの母親の横顔が浮かぶ。

「——-。あと100万ソル献金すれば、免罪できるの」
「もう少しだけ我慢してね。あと少しで、みんな幸せになれるから」
「家も、きれいになるし……新しいお洋服も……」
声は遠く、名前を呼ばれた気もしたけど――もう聞き取れない。
崩れていく意識の中、デクシアは母の温もりだけを、必死に追いかけていた。

デクシアの瞳は、もう何も映していなかった。
「ママ、いかないで……ママ……」
途切れ途切れの声が、冷たい空気に消えていく。
すでに意識は朧げで――
目の前にいる誰が“ママ”なのか。
自分でもわからないまま、デクシアの命は静かに燃え尽きた。
最後の一瞬、彼が幻視した“ママ”は、まさかのネリアだった。

ネリアは虚を突かれた顔をし、ちょっとだけ黙り込む。
「柄じゃねーし、ママとか……」
言いながらも、どこかまんざらでもなさそうに頭をガリガリとかきむしった。
照れ隠しのクセが、やけにリアル。

紫焔も幻の蝶も、もういない。
血塗れの中庭に、ただ“黒のアサシン”が静かに散った。
誰も、もう彼を咎めはしない。
ただ、死者にだけは――心から、安らかな祈りを。

サタヌスは歩き出そうとして、ふと足を止めた。
赤く濡れた石畳、その端っこにまだ乾かぬ血が残る。
胸の奥が、急に冷たくなる。
――つい昨日のことだ。

あの時も中庭だった。
ガイウスやヴィヌスは、勇者として歓迎されていた。
けれど自分だけは、“バケモノ”を見るような目で見られた。
勇者の一人だって肩書きは、まるで意味を持たなかった。
人ごみを避けて、ぽつんと腰を下ろした石段。
わけもわからず、ただ拗ねてハーモニカを吹いていた。

自分の“スラム上がり”や“半分魔物”という素性をバカにしない。
「僕も“普通”じゃないから」と、あいつは静かに言った。
他人に寄り添うんじゃなく、自分の闇をちゃんと背負ったうえで、
ただ隣にいてくれる。それが、どこか“安心”だった。
――勇者って看板より、そういう“繋がり”のほうが、ずっと自分には重かった。

現実へと意識が戻る。今、その場所が血で汚れている。
デクシアが倒れた場所も、かつてあいつと並んで座った石畳のすぐ近く。
サタヌスは深く息を吐く。
幻よりもずっと生々しい現実。
思い出まで穢されたような、妙なやるせなさが胸に広がる。
だが、後ろでネリアが明るく声を上げた。

「さっ!幻は消えたよ。あのメガネさんたちと早く合流しなきゃね!」
サタヌスは、石畳にしばし視線を落としたまま。
「……ああ!」
短く、けれどしっかり頷いて歩き出す。
踏みしめた靴の裏に、まだ乾ききらない赤が残った。
けれどサタヌスは、それでも前を向いて進む。
自分の足で、ちゃんと――“自分の道”を選ぶために。