アンスロポス連合-血とファンタズム - 2/4

サタヌスとネリアが、黒のアサシンと刃を交えている頃。
メルクリウスは、教皇庁の回廊を壁伝いに歩いていた。
“頭がいい”だけじゃない。
“生まれてこのかた一度も冒険したことがありません”――そんな顔で。

だけど、リプカ修道院には毎日のように「冒険者」たちが悩み相談に来ていた。
「神官様、ちょっと聞いてよ~」と世間話ついでに。
「幻術の罠はマジで厄介」「壁伝いに進むしかねぇんだよ」「“綺麗すぎる風景”は信用するな」
そんな裏ワザを、ぽろぽろ口にする。
メルクリウスは、それを全部、覚えていた。
メモも取らず、ノートも使わず、頭と身体に焼きつけていた。

教皇庁全体が、もはや現実ではなかった。
淡紫と白に染め上げられた空間、甘く歪んだ光、舞い散る蝶。
おそらく、あの白い少女。アリスが見せている幻だ。

「……幻は、所詮幻だ」
独り言のように呟き、メルクリウスは一歩、身体を引く。
“色とりどりの焼き菓子が積み上がった山”に見えるそれを、すんでのところで避けた。
鼻をかすめたのは、砂糖でもバターでもない。
鉄と死の匂い。
現実ではそれは、潰れた遺体と砕けた石材の山だった。

「……趣味が悪い」
淡々とした声で吐き捨て、メルクリウスは歩を進める。
幻に惑わされぬよう、呼吸を一定に保ち、足音を殺す。
視界の端で何が揺れても、決して追わない。
「さて、出口は……」
回廊を見渡した、その時だった。

――違和感。
糸目の奥、閉じかけていた右目が、わずかに開く。
次の瞬間、両目がはっきりと見開かれた。
瓦礫の向こう、崩れた天井の下。

「……ぬかったな」
聞き覚えのある声。
いや、忘れようとしても忘れられない声。
「この私が……幻影などに惑わされるとは」
瓦礫に半身を挟まれながらも、声の主は驚くほど冷静だった。
苦悶より先に、分析が来る。
呼吸の乱れを抑え、状況を測るその仕草。

ヘルメス・フォン・ゾルクォーデ。
モノクルの無い方の目を、うっすらと開けたまま。
その視線は、まっすぐメルクリウスを捉えていた。
汗が、こめかみを伝っている。
「……来たか、メルクリウス」
父と子。神官と異端。
嫌悪と理解が、同じ血管を流れる二人が、幻の回廊で向かい合った。
ここから先は、刃ではなく“関係性”で殺し合う領域だ。

「……父さん」
声にした瞬間、メルクリウス自身が気づいた。
――言ってしまった、と。
回廊に、短い沈黙が落ちる。
ヘルメスは目を見開いたまま、何も言えない。
叱責も、皮肉も、理屈も――そのどれもが、言葉になる前に喉で凍った。
そこへ、楽しげな声が割り込む。

「ふふ……言っちゃった♡」
「本当にね、優しくなりたい人ほど、言葉は遅れるのよ」
「“助けたい”って思ってから、“父さん”って出るまで……どれだけかかったのかしら?」
幻の蝶が舞い、甘ったるい光が揺れる。
メルクリウスは視線だけでそれを斬り捨てる。

「……黙れ、道化」
低く、冷たい声。
それは拒絶であり、同時に“自分への戒め”でもあった。
メルクリウスは父を許したわけじゃない。
過去は清算されていないし、憎悪も消えていない。
だが――ここで死なせるわけにはいかなかった。

「メルクリウス」
瓦礫に挟まれたまま、ヘルメスが口を開く。
呼吸は浅く、汗が頬を伝っているが、声だけは不思議と落ち着いていた。
「私の惨めな姿でも嗤いにきたか?」
「おまえは……昔から、素直じゃないからな」
メルクリウスは一瞬、目を伏せる。
そして、はっきりと言った。

「あぁ。僕は孝行息子なんかじゃないよ」
「貴方のことは――大嫌いだ」
「だが、だからこそ……死なせない」
瓦礫に手をかける。
その瞬間、世界がまた歪んだ。
ヘルメスを挟み込んでいるはずの瓦礫は。
幻術の中では“プレゼントの山”に姿を変えていた。
赤い箱。緑のリボン。あまりにも見覚えがありすぎる色合い。
メルクリウスは、思わず目を細める。

――聖夜祭。
さしずめ、クリスマスプレゼントというわけか。
「……悪趣味だな」
呟きながら、幻の“箱”に手を伸ばす。
瓦礫を――現実を一つずつ、確実に持ち上げていく。
大嫌いだからこそ、赦さないからこそ、断ち切らない。
それは愛情ではない、救済でもない。
絆という名の、呪いに近い選択だった。

かつてのメルクリウスを、ヘルメスはよく知っている。
非力で、体は弱く、少し無理をすればすぐに顔色を崩す子だった。
風邪を引きやすく、修練にも長くは耐えられない。
知恵はあったが、肉体は明らかに“向いていなかった”。
だが、今、目の前にいる存在は――その記憶と、まるで噛み合わない。

メルクリウスは、巨大な瓦礫を片手で持ち上げ、
邪魔だとでも言うように、無造作に投げ捨てていく。
呼吸は乱れず、汗一つかいていない。
筋力を誇示するでもなく、ただ「必要だから動かしている」だけの動作。
その光景を見て、ヘルメスは悟ってしまった。

――息子は、勇者になったのだ。
それも、皮肉なほどに。
正当な血を引き、後継として育ててきたニコルではない。
“妾の子”として、遠ざけ、測り、抑え込もうとした――この子のほうが。
「……運命とは」
ヘルメスは、かすれた声で呟く。
「実に、皮肉なものだ……」
メルクリウスは答えない。
ただ、ヘルメスの前に膝をつき、短く告げた。

「ヘルメス。傷をふさぐ。動くな」
指先から、淡い治療光が広がる。
白とも青ともつかない、静かな光。
それが瓦礫に挟まれた身体を包み込むと、
冷や汗が引き、浅かった呼吸が、目に見えて落ち着いていく。
胸が、きちんと上下する。
痛みの歪みが、少しずつ消えていく。

「……ふぅ」
ヘルメスは息を吐いた。
そして、眼前の“息子”を、はっきりと見据える。
そして、眼前に立つ“息子”を見上げる。
「エル家の生き残りを名乗る少女が現れてな」
「円刃で斬りかかってきた」
メルクリウスの手が、一瞬だけ止まる。

「気をつけろ」
「――あの円刃には、信仰心を疑わせる呪力がある」
「証拠は?」
あまりにも冷静な、異端審問官の声だった。
ヘルメスは、静かに答える。

「あの子に斬られた神官たちは、みな一様に――」
「神などいない、と錯乱しながら息絶えた」
回廊に、重い沈黙が落ちる。
信仰を否定される死。
それは、この教皇庁において最も忌むべき終焉だった。
メルクリウスは、瓦礫を持ち上げる手を再び動かす。

「……なるほど」
その声に、動揺はない。
ただ、確信が一つ、積み上がっただけだった。
「彼女は“神を殺す刃”を持っている」
戦場は、もはや“信仰”そのものだった。

「ヘルメス。聖痕が覚醒する少し前――」
メルクリウスは、瓦礫を投げ捨てた手を止めずに言った。
「僕は、おそらくその少女と出会っている」
ヘルメスの視線が、わずかに揺れる。
「彼女は、エル家の集団暗殺で“唯一生き残った一組の夫婦”の子孫だ」
「――叔父夫婦だよ。初代聖女の」
「なるほど……」
ヘルメスは、かすかに苦く笑った。

「妙だとは思っていた」
「聖女殺しの夜、叔父夫婦だけが生き延びるなど――」
瓦礫の隙間から、紫の蝶が舞う。
幻が、過去の記憶をなぞるように、静かに揺らめいた。

「……生かされたのだな」
ヘルメスは、低く続ける。
「時を超えて――聖教を滅ぼすために」
あの夜、叔父夫婦が見た“黒い悪魔”。
殺せたはずなのに、殺さず、剣を収めて去った存在。
明確な意志をもった選別だった。
――火種を残すための、生かし。

「アリスは……自分を“正統”だと信じている」
メルクリウスは静かに言った。
「聖女の名を継ぐ資格は、血にあると」
ヘルメスは、ゆっくりと目を閉じる。

「だから、円刃か……」
「信仰を斬る刃。神を疑わせる呪い」
「信じてきたものを否定される死は、この国では最大の恐怖だ」
「彼女はそれを、武器にしている」
メルクリウスの声は淡々としていた。
「“神はいない”と叫ばせながら殺すことで、聖教そのものを内側から崩す」
そして――アリスの声が、記憶の底からよみがえる。

『ねぇ、神官様――君には、何があるの?』
正統な血筋、家、居場所。
妾の子として生まれ、名を口にすることすら許されなかった自分。
(……羨ましいよ)
その感情を、否定することはできなかった。
メルクリウスの胸の奥で、何かが軋む。
(……救われたい?)
その問いに、答えが出る前に――遠くで、現実が揺れた。

幻が、軋む。
硝子細工の世界を無理やり捻じ曲げたような、不快なきしみの向こうから――
聞き覚えのありすぎる声が割り込んできた。
「メルクリウスはこっちにいる気がする!! 急げぇ!!」
「くっせ~! 掃除くらいしろよ~!」
サタヌスとネリア。
あまりにも“いつも通り”の声が、逆に現実感を連れてくる。
幻の膜が、確実に剥がされつつあった。

メルクリウスは、わずかに息を吐き、頷く。
そして振り返り、瓦礫の山を軽く叩いた。
「ヘルメス。ここに座って待て」
ヘルメスは一瞬だけ息を詰め、それからゆっくりと従う。
その背中を確認してから、メルクリウスは続けた。

「……僕は――“あれ”を使うかもしれない」
一瞬の沈黙。
ヘルメスは、すぐに理解した。
「……アブソール、か」
その名を口にしただけで、空気が冷える。
神の権威でも、聖教の理屈でも正当化できない、“選んだ者の罪”。
メルクリウスは、淡々と言った。

「そのときは猊下に伝えてくれ」
「正当防衛だったとでも、ね」
ヘルメスは、しばらく息子の横顔を見つめる。
かつて非力で、声も小さく、存在そのものを隠されていた子。
今は、禁呪を“使う覚悟”を静かに語る男。

「……よかろう」
短く、しかし重い声。
「行け、メルクリウス」
それは大神官としてではなく、父としての一言だった。
メルクリウスは振り返らない。
ただ一度だけ、わずかに視線を伏せ――歩き出す。

幻のきしみは、もう悲鳴に近い。
その向こうで、運命の歯車が、確実に噛み合い始めていた。

「はーっ! さっきよりだいぶ、くせぇの収まったぜ」
サタヌスが大きく息を吐き、鼻先を手で仰ぐ。
回廊に漂っていたあの耐えがたい腐臭は、確かに薄れていた。
「めがねのお兄ちゃんは……あ!」
ネリアがぱっと顔を上げる。
「ヘルメス様、おひさ~!」
「様付けすんの!?」
サタヌスが即ツッコむ。

「するよそりゃ。一応、あたし騎士だもん」
ヘルメスは、瓦礫に腰を下ろしたまま、静かに頷いた。
ネリアは瓦礫の上で爆弾ポーチいじりながら、ふと首をかしげて言う。

「そういやさ、ヘルメスとメルクリウスって、名前めっちゃ似てない?」
「次期当主のニコル君より、血繋がってそうな響きしてるんだけど」
ヘルメスは軽く眉を上げ、冷静な口調で返す。
「似ている、と感じるのは当然だ」
「ヘルメスとメルクリウスは、どちらも旅と盗賊の神」
「同じ源流を持つ神格存在――呼び名が違うだけで、本質は同一とされる」
サタヌスがそこで割り込む。

「はァ!?盗みの神!?マジで?」
「うわ~~俺、スラムで暮らしてた時に知ってたら絶対毎晩拝んでたって!」
ネリアも思わず吹き出しつつ。
「いや盗賊の神が教皇庁に二人もいるとか、もう清楚とか名乗れんでしょ!」と追撃。
ヘルメスは苦笑いしつつ。
「神々の役割というのは人間の願望の投影だ」
「清廉も、狡猾も、両方備えてこその神性」とモノクルを直す。

「メルクリの父ちゃん!メルクリはどっち行った!?」
「あぁ。メルクリウスなら……」
「回廊の向こうへ、一人で歩いて行ったぞ」
サタヌスとネリアが、同時に表情を引き締める。
「止めなくていいのかよ?」
サタヌスの声は、軽口を装っていたが、その奥は真剣だった。
ヘルメスは、即答しなかった。
一拍置いて、低く言う。

「あの子はな――手出しをすると、怒る」
視線は前を向いたまま。
「……本当に危ない時だけだ」
それは、父の感情を排した言葉だった。
息子を信じるというより、息子の“選んだ覚悟”を尊重する判断。

サタヌスは短く息を吐いて笑った。
「あぁ……わかったぜ」
軽く、だが迷いのない声。
回廊の奥、白い幻のさらに向こう。
メルクリウスは今、禁呪に足を踏み入れようとしている。

父として止める権利は、もうない。
そして“見届ける者”として――ここにいる。
ヘルメスは、静かに目を閉じた。
(……行け、メルクリウス)
それは神に向けたものでもない。
息子に向けた、ただ一つの黙認だった。