幻のシスティーナ礼拝堂。
祭壇も天井画も夢のようなパステルカラーに塗り替えられ。
祝福の花びらが舞うその空間で――頂上決戦が火花を散らしていた。
アリスは無邪気にスキップしながら、両手のチャクラムをくるくる回す。
「神官ってみんな同じ武器だよね~♡」
「アリスちゃんが教皇庁で倒してきた神官さん、みんなその杖持ってたの」
聖教の神官は戒律で「刃」を持つことを禁じられている。
その代わり、正装と共に渡されるのが「光の杖」。
普段は純白の祭具、だが戦いとなれば――
杖先から発生する光刃は、まるで沙悟浄の降妖宝杖。
“切り裂く”のではなく、“光で焼き切る”魔法剣だ。
殺傷力は見た目以上だが、多くの神官にとっては“お守り”の域を出ない。
ほとんどの者は、アリスの前に沈んでいった。
――しかし、この男は違う。
メルクリウスは静かに構えを変える。
時に槍、時に薙刀、時に太刀。
光の杖は形を変え、アリスのチャクラムを互角に受け止めていく。
“守り”の杖が“斬る”武器に豹変するたび、
アリスの表情はさらに楽しげに歪む。
「イケメンなうえ強いとか最高なんだけど?」
金色の瞳がいたずらに輝く。
メルクリウスは返事すらせず、杖を下段から一閃。
光の斬撃が宙を裂き、チャクラムの軌道を跳ね返した。
――この男だけは、決して“お守り”では終わらない。
アリスは、ぞくりと背筋を震わせる。
「ねえ神官様、もっともっと、アリスと遊んで?」
光と闇が交差するイリュージョン・システィーナ――
祝福と死、夢と地獄が、いま真っ向からぶつかり合っていた。
アリスは両手のチャクラムをクルクル回しながら、悪びれもなく聞いてくる。
「ねぇねぇ神官様。なんでそんな強いの~? 」
「勇者だからじゃないよね♡ だって昨日まで貴方、ただの神官だったじゃない」
その“ただの神官”という言葉に、メルクリウスは静かに頷く。
確かに、聖痕が与えてくれるのは“身体能力”だけ。
戦闘スキルや技は――昔から彼が自分で積み重ねてきたものだ。
「いかにも。僕は“素行不良”と有名でね」
「祭典以外でも、光の杖をよく持ち出してたんだ」
思い出すのは、リプカの湿地帯。
苛立ちをぶつけるように、杖を振り回していたあの日々。
土埃と水飛沫の中で、何度も何度も素振りをした。
そのうち、気づいた。
“この杖は武器になる”
聖教の戒律も、形式も、全部無視して――自分だけの“棒術”を磨き続けた。
だから今、アリスのチャクラムにも怯まない。
“神官の杖”が、誰よりも鋭い武器になることを、
彼自身が一番よく知っているのだ。
アリスは小首をかしげて、さらに無邪気な声色で告げる。
「じゃあただ投げるだけじゃ倒せないからぁ……レベルアップしちゃおっか!」
両手でチャクラムを軽やかに回し――次の瞬間、別々の方向に同時に投げ放った。
1つ目は正面から一直線に飛んでくる。
メルクリウスはすかさず光の杖を扇風機の羽根のように回転させ、軌道を読んで弾き落とす。
カキィン、と煌めく音。光の火花。
だが――もう1つのチャクラムが、死角から襲いかかった。
ギリギリで身をひねるが、メルクリウスの頬をかすめていく。
「ぐぅっ!」
思わず呻き、手を頬に当てる。
ヘルメスの言葉が脳裏をよぎる。
――“あの円刃には信仰心を疑わせる呪力がある”
指先に触れた血は、黒ずみはじめていた。
ただの出血じゃない。“信仰”を侵す呪い。
これは危険だ、とメルクリウスは思う。
迷いを断ち切るように目を閉じ、心の奥に潜んだ“力”へアクセスしようとした。
アリスはピョンと跳ねるように、天井画の下へ。
「あとね~、教皇庁の神官が雑魚ぞろいだったの」
「アリスちゃんはエル家の生き残りってのも大きいかもね♡」
「だってエル家って、初代聖女様の家だもんね♡ 聖教にすれば殺せるわけないもん」
天井のフレスコ画がぐにゃりと歪み始める。
――呪いの影響か、それともアリスの幻術が限界に来ているのか?
どちらにせよ、ただひとつ分かることがある。
“今の自分では、この少女に勝てない”
初代聖女の血族――この国で最も尊ばれる血、手出しは大罪。
国中が「彼女の命日」を祝日とするレベルの、絶対的な存在。
神官たちがアリスに手を出せなかったのは“当たり前”だ。
シャルロッテ・エル・ロスガルス。
初代聖女――その血を絶つなど、もってのほか。だが――。
(僕は、絶てる)
メルクリウスは静かに覚悟を決めていた。
「……あれしかないな」
口には出さず、光の杖を握り直す。
天井の幻が崩れ、“祝福”が“呪い”へ、夢が地獄へと変わっていく。
メルクリウスの瞳には、誰にも譲れない“決断”の光が灯っていた。
メルクリウスは、目を伏せたまま動かない。
「アリス」
低く、静かな声。
「今すぐここで懺悔したまえ」
「これは警告だ。――本気で怒るよ?」
アリスはきょとんと首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「え~?」
「神官様が怒ったら、どうなるのかな?」
「お説教?」
そうだ。
大抵の聖職者は、それで終わる。
言葉で諭し、祈りで縛り、最後は見逃す。
――だがアリスは、怒らせてはいけない相手を間違えた。
メルクリウスは「聖職者なら絶対に踏み越えない一線」を。
とっくに越える覚悟を持った男だった。
金属製のグローブ、その先端に――白い霜が、音もなく張りついていく。
金属が悲鳴を上げるように、表面が白く染まる。
目を伏せたままなのに、空気が揺れた。
対峙する者は、理解する。
――目が合っていないのに、背筋が凍る。
足元の石畳に、細い亀裂が走る。
次の瞬間、それは凍結へと変わった。
氷は中心から、同心円状に広がっていく。
まるで見えない結界。
メルクリウスの周囲だけが、別の法則に支配され始める。
「メルクリ! 間に合っ……!」
駆け寄ろうとしたサタヌスが、思わず足を止める。
「なんか寒っ!? サータ、これ――入っちゃダメっぽいよ」
ネリアの直感が、正確に危険を告げていた。
周囲の音が、消えていく。
剣戟も、叫びも、呼吸音すら「遠く」へ引き込まれていく。
残るのは、自分の心音と、霜が軋む音だけ。
「ほんの少し前、これより恐ろしいものを経験してね」
脳裏をよぎるのは、あの“超重力”の惨劇。
ガイウスの剣が止まり、正義も使命も、どっちも地獄に変わったあの感触。
“勇者の罪も、味方の叫びも、誰一人正解のない選択肢も。
すべて現実として受け入れるしかなかった。”
メルクリウスは、幻のシスティーナでアリスに静かに告げる。
「彼の痛みは、僕も背負うつもりだ」
アリスは、一瞬だけ“理解できないもの”を見る目をする。
だが、メルクリウスの決意は微塵も揺るがない。
「だから、僕はもう――この手を汚す覚悟ができている」
それは“勇者の呪い”に触れた者だけが踏み越えられる、一線だった。
メルクリウスの口元から、白い息が漏れた。
――たった一呼吸。
それだけで、アリスの頬に、霜が浮かぶ。
アリスの笑みが、初めて歪む。
「……寒……っ」
メルクリウスの瞳が静かに光る。
「他人の痛みも、世界の歪みも、もう見ないふりはしない」
「君が相手なら、全部背負ってでも終わらせてみせる――」
メルクリウスは、ようやく顔を上げた。
「これは――神が与えた力じゃない」
一歩、踏み出す。
「僕が、選んだ呪いだ」
そして、裁きではなく、宣告として。
「――アブソール」
その名が響いた瞬間、イリュージョン・システィーナは。
冬へと堕ちていった。
「……あれ?」
「カリスト将軍みたいに一瞬で凍るの、覚悟してたのに」
メルクリウスは静かに目を伏せ、手のひらに浮かぶ霜を見つめていた。
「アブソールは禁術指定されている。なぜだと思う?」
その声には、憐れみも怒りもなかった。
ただ、静かな神官の響きだけがある。
「……あまりにも、その殺し方が残忍すぎたからだ」
冷気が急激に辺りを包む。
アリスは小さく首をかしげる。
「……一瞬で凍らせるんじゃないの?」
メルクリウスは淡々と、まるで授業のように語りだす。
「まずアリス君、人間の体内には血管が張り巡らされているよね?
心臓から送り出された血液が全身を巡って、戻るまで、わずか30秒だ」
「もしも、その血管の中に“細かい氷の針”を流し込んだら……どうなると思う?」
壁一面、脈打つ血管の幻影がアリスの背後に広がる。
「アブソールはね、体の外から凍らせるんじゃない。
血液そのものを、内側から凍らせる。
流れに沿って、無数の氷の針が一斉に駆け巡り――」
最初は体の奥がジンジンと冷える。
やがて針が毛細血管を突き破り、筋肉も神経も、内臓までも凍てついていく。
だけど、すぐには死ねない。
脳が“自分が凍っていく”感覚を、最後の最後まで味わい続ける。
「安心したまえ」
「30秒もあれば、全身に行き渡る」
「――もう、始まっているよ」