ノル・ユールとは逆方向。
雪に閉ざされた静寂の湖のほとりで、カリストはひとり佇んでいた。
カリストはそっと頰に手を添え、恍惚としたような微笑を浮かべていた。
「あぁ……ユピテル様、お許しください……」
吐息のように、その名を零す。
金色の瞳が細められ、どこか夢見心地な表情。
「カリストには、ユピテル様がいるのに。勇者などに……目移りするなど……はぁ……」
その声はひどく甘く、けれど、その奥には凍てつくような独占欲が潜んでいる。
カリストは指先で自分の唇をなぞった。先ほどの、予想外のファーストキスの感触――
その記憶を、まるで汚れでも落とすようにそっと拭う。
「……でも、あの体格も……なかなか、良かった」
ぽつりと呟いた声は、湖に溶けて消えていく。
優美な微笑みの下に、決して誰にも渡さない、黒い渇望がひっそりと息を潜めていた。
凍てつく湖畔。カリストは静かに湖面を眺めていた。
「やはり、オーゼの魔力は……私によく馴染みますね」
指先を軽く振ると、空気に微細な氷の結晶が生まれては消えていく。
この極寒の地の魔力は、カリストの内側まで心地よく染み渡る。
だが、その優雅な横顔にほんの僅かな翳りが差す。
「問題は……何処に何があるか、分からないこと――」
カリストにとっても、オーゼは初めて訪れる土地だ。
地元育ちのヴィヌスには、どうしても地の利で及ばない。
氷雪の森に隠された道や、精霊たちの潜む場所――この地で彼女を生け捕りにするのは、今の自分には難しい。
その時、湖畔の向こう、木々の影から小さな視線を感じた。
まるで「仲間?」とでも問いかけるように、何人ものジャックフロストたちがひょこりと顔を覗かせている。
銀色の髪、金色の瞳、好奇心に満ちた目が、雪の精たちの無垢さを物語っていた。
カリストは一瞬だけ、柔らかい微笑を浮かべ――
そのすぐ後、唇の端に、黒い狡猾な笑みが宿る。
「……人手は要りますね。――利用させてもらいましょう」
冷たく美しい声が、湖畔に溶けて消える。
カリストの金色の瞳に、淡い氷の光と、底知れぬ策略の色が浮かんでいた。
「ねぇ……僕たちって、春が来ると雪に戻っちゃうんじゃなかったっけ?」
「でもさ、確か……冬を越えた子は、大人になれるって聞いたことがある……」
――けれど、目の前に立つ男。
あれは“ジャックフロスト”のはずなのに、どこか全く違う存在感を纏っている。
彼らの戸惑いと期待と、ほんの僅かな不安。
その全てを見透かすように、カリストはふわりと微笑んだ。
「こんにちは……私のカワイイ“弟”たち」
金色の瞳がやさしく細められ、カリストは屈み込むようにして雪の精たちに語りかける。
その声は、どこまでも甘く、危険な誘いを孕んでいた。
「手を貸してくれるなら――冬を越える方法、教えてあげるよ」
雪の精たちが、無垢な目で顔を見合わせる。
春を迎えれば、また雪に還る。
でも、目の前の“大人のジャックフロスト”は、今もこうして冬を生きている。
――“永遠の冬”を欲しがる小さな魂たちと、“終わらない氷”を支配する男の微笑み。
湖畔の闇に、そっと黒い契約の影が落ちた。
凍てつく湖畔。
雪の精たち――小さなジャックフロストたちが、カリストを取り囲んでいた。
その目は無垢で、好奇心に満ちている。
「ねぇ、おにいちゃん……名前は?」
「僕たち、君のこと、なんて呼べばいい?」
その問いに、カリストは一瞬だけ答えをためらった。
顎に指先を添え、表情を崩さないまま、内心で冷静に計算する。
(――この子達はおしゃべり好きだ。もし私の名前を教えれば、あちこちで吹聴し、いずれ勇者どもや地元民に私の存在が知られるかもしれない)
(ならば……この子達が喜ぶ“別のもの”を与えて、黙らせ、繋ぎとめる方が得策だ)
そう結論づけると、カリストは穏やかな笑みを浮かべ、ふわりと声を落とした。
「……名前は持たないんだ、私は。けれど――」
ジャックフロストたちが、目をぱちぱちと瞬かせる。
「君たちの“おにいちゃん”には、なれるよ」
その一言に、小さな精霊たちはざわめいた。
「おにいちゃん……人間が言ってる言葉だ」
「ぼくたち、家族とか持ってないのに……いいの?」
「おにいちゃんがいるって……なんか、あったかい気がする……」
彼らは精霊。自然現象の擬人化に過ぎず、“家族”という概念すら希薄だ。
だからこそ、彼らにとって“おにいちゃん”という存在は、手に入らないからこそ魅惑的に響く。
カリストは、そんな彼らを見下ろしながら、冷ややかな笑みを胸の奥で隠した。
甘い言葉で心を繋ぎ、無垢な存在を支配していく。
彼らの小さな笑顔を見て、カリストは微笑みを崩さず、静かにしゃがみ込んだ。
指先で、雪の精たちの頭を順番になぞりながら、柔らかな声で言う。
「君たちは私の“弟”たち。……私が君たちを、寒さからも、春からも守ってあげる」
その声は、氷よりも冷たい誓いだった。
だが、雪の精たちはその温度に気づかない。
ただ無垢に、手に入れた“おにいちゃん”の言葉に喜び、足元で舞い踊る。
(……これで君たちは俺のもの。“お兄ちゃん”が春から君たちを守ってあげる)
その“守る”は、決して優しさだけではなかった。
雪解けの季節が来ようとも、自分の手の中に閉じ込め。
永遠の冬の中に置いておくという意味での――守護。
無垢な弟たちが、それを甘美な約束として受け止めている間は、決して逃れられない。
金色の瞳が、湖畔でゆっくりと細められた。
雪原の向こうに、淡く霞む白い森。
その手前に据えられた古い木のテーブルに、カリストは頬杖をついて座っていた。
制服の袖口には冷たい雪が残り、息を吐くたび空気が白く曇る。
帽子の影から覗く金色の瞳は、まるでこの世界のすべてを遠くから眺めているようだった。
時折、遠くで鳥が鳴く。
けれど、その声すらも雪に吸い込まれ、すぐに静寂が戻る。
「……どうして春なんて、来るんでしょうね」
溜め息とともに漏れた声は、微かに震えていた。
ジャックフロストたち――雪の精が、テーブルの向こうから彼を見つめている。
好奇心と不安、その両方が混ざったまなざし。
カリストはわざとらしいほど憂鬱な表情を浮かべ、うつむいた。
「冬は、ずっと続けばいいのに」
「こんなに楽しいのに、春が来たら……君たちは、消えてしまうんでしょう?」
ジャックたちは顔を見合わせ、肩をすくめ合う。
「……消えたくない」
「おにいちゃんと、もっと遊びたい」
「春が来なければいいのに」
雪が降り続く。世界は白く閉ざされ、時が止まったように静かだ。
カリストは指先でテーブルをなぞりながら、ふっと細い息をついた。
「僕も、そう思いますよ。春なんて、来なければいいのに……」
本心なのか、演技なのか。
それは誰にも分からない。けれどその憂鬱さが、子どもたちの心を揺らす。
彼らのまなざしが、より強く、より切実にカリストに向けられる。
「――ずっと、冬でいいのに」
呟きは雪の中に溶けて消えていく。
春への恐れと、冬への執着。
カリストの金色の瞳が、ジャックたちの無垢な心を映していた。
その瞬間、誰も“春”を望まなくなった。
雪の降りしきる森で、優しい檻の中に閉じ込められるように。
冬だけが、すべてを包み込んでいた。