オーゼ編-北へ - 5/5

宿屋へ向かう一本道、その途中で――それは、いた。
白い息を弾ませながら歩いていたサタヌスが、急に叫んだ。
「おい!? なんか可愛いのがいる!!」
柵の中で、豚とは明らかに違う家畜がのそのそ歩いている。
丸っこい体に雪毛がふさふさ、つぶらな瞳で草をはむ姿は、癒しそのものだ。
雪景色のなかにぽてんと佇むその丸さは、見るだけで心が温まる。
サタヌスは柵にぴたっと張りついて、目を輝かせた。

「かわいい……なんだあれ……!」
その様子にヴィヌスは小さく笑う。
ちょうどそのとき、牧場の奥から人の気配がし。
オジサンが手を振りながら近づいてきた。
「おや、あんたら旅の人かい? そりゃまあ、グズルを見りゃ足を止めちまうのも無理はねぇな」
ぶ厚いコートを着込んだオジサンは腰に手を当て、誇らしげに言う。

「オーゼじゃどこの街にもグズルがいるんだがね」
「他所から来た人間はみんな、こうして柵越しに眺めちまうんだ」
「カピバラみたいな魔物を飼っとるんだからなあ。そりゃ珍しいだろうよ」
サタヌスは完全に魅了されていた。
「かわいい……連れて帰りてぇ……」
その隣でヴィヌスがあっさり爆弾を落とす。
「煮込みにすると美味しいのよ」
「食べんのかよ!?」
サタヌスの絶叫が牧場に響き渡り、遠くのグズルがびくっと肩(?)を震わせる。
ヴィヌスは肩を竦めて微笑む。

「アルルカンに引っ越して最初に驚いたのがね……カピバラを食べないことよ」
その言い方があまりに自然で、雪国民のリアルさが逆に怖い。
でも、それも当然だった――オーゼは常に極寒で、牛や羊の飼育は不可能。
代わりに魔物と共生し、ミルク・毛皮・脂身まですべてを生活に使う文化なのだ。
サタヌスはグズルの丸い背中を見つめ、唇を震わせた。
「……あいつ、煮込まれんの……?」
が、次の瞬間には好奇心が勝つのが彼の良いところ。
「いや……でも、食ったらうまいんだろ……?そんな気もしてきた……」
ヴィヌスは彼の肩を軽く叩く。
「食べてから悩みなさい。うちの雪国グルメ、甘く見ないことね」
グズルはのんびり草をはみ、サタヌスは癒され、ヴィヌスは妙に誇らしげで――
冬のオーゼは、この一瞬だけほんの少しだけ暖かく感じられた。

グズル牧場を後にし、宿屋へ向かう石畳の道を歩いていたときだった。
ヴィヌスがふいに足を止め、遠くの空へと視線を向けた。
「……今日は早く宿屋に入ったほうがいいわね」
ガイウスが眉を寄せる。
「何か見えるのか?」
ヴィヌスは雪明かりの向こうを指差した。
空の端――デリン帝国方面から、重く黒い“雪雲”が押し寄せている。

「見て。デリン帝国側から雪雲が来てる。今夜、吹雪くよ」
ガイウスは深く息を吐き、軽く肩をすくめた。
「さすが雪国育ち……空の色だけで分かるの、尊敬するわ」
だが隣のサタヌスは、いまいちピンときていない表情。

「吹雪ってそんなヤベぇのか?
オーゼ行ったことあるって自慢してたやつが言ってた。
“真っ白で、寒くて、自分がどこにいるのかもわかんねぇ”って」
ヴィヌスは静かにうなずく。
「ホワイトアウトってやつよ」
「魔物で死ぬより、雪で死ぬやつのほうが多い。白いやつほど怖いのよ」
軽口ではなかった。
その声音には地元民だけが知る“本物の恐怖”が滲んでいた。
そして、ぽつりと続ける。

「……あいつみたいに」
ふたりが振り返る。
しかし、ヴィヌスの視線の先には誰もいなかった。
ただ、凍える風だけがヒュウと村の通りを吹き抜けていく。
ガイウスは思わず周囲を見回す。
サタヌスも背中をすくめた。
もちろん、分かっている。
“あいつ”――白いコートを着た氷の魔将、冬将軍カリストは、
結界の外には入れないはずだ。

だが雪の気配に紛れて、どこかで確かに“視線”だけは感じる。
冬の気配が濃くなるほど、あの男の存在がそっと近づいてくる気がして――
「……行こう。日が落ちる前に宿屋に着くわよ」
ヴィヌスの声は、いつもより低い。
その背中には、雪国で育った者だけがまとう“警戒の影”が揺れていた。
吹雪が来る。
そして――冬将軍の影もまた、静かに迫っていた。

宿屋の扉をくぐると、薪ストーブの匂いがふわりと鼻をくすぐった。
炉端の灯りが揺れ、天井の梁にオレンジ色の影が踊っている。
「おや、あんた……」
暖炉のそばで薪を組んでいた老婆が、ヴィヌスを見つけて目を丸くした。
皺の刻まれた瞳に、懐かしむような光が宿る。

「……あの黒い子かい。ほぅ、立派になってまあ……」
ヴィヌスは少しだけ照れたように微笑んだ。
「……ただいま、オルガおばあちゃん」
その言葉に、オルガはしわくちゃの目尻をさらに下げ、何度もうなずいた。
まるで本当に、家族の帰りを迎えたかのように。

しばらくして、食卓に料理が運ばれてきた。
冷えきった外の空気とは対照的に、テーブルの上には湯気と香りが満ちていく。
ボルシチ風の根菜スープ――深紅のビーツに、香草の匂いがほのかに漂う。
黒パン(ルイボス麦)にはニシンの酢漬けとディルが添えられている。
サワークリームをたっぷり乗せたじゃがいものグラタンは、スプーンを入れればとろりと崩れ、
甘味にはハチミツ入りの温かいベリーティーと、素朴なナッツ入りパイ。

「な、なんだこれ!豪華すぎねぇ!?」
サタヌスが歓声をあげる。
ガイウスは対照的に無言で黒パンをちぎり、黙々と味わっている。
けれど、その目の柔らかさはしっかり“美味い”と言っていた。

炉端の卓の中央には、白い塊。
“グズルの脂身だけを塩漬けにした保存食”が置かれていた。
ナイフを入れると、脂がじわりと溶け出す。
ヴィヌスがひと口かじる。
ふわっと舌の上で溶ける脂の甘み、それに雪国特有の濃い旨味が続いた。
「……あー、懐かしい。このジュワッて溶ける食感」
「子供時代以来だわ。ストーブの前で、よくこれ食べてたの」
その横顔は、いつもの舞台女王のそれではなく、雪国で育った少女の顔だった。
あどけなさと、どこか遠い故郷の記憶。

サタヌスは、柵の中でのんびり歩いていた。
“カピバラもどき”の丸い背中を思い出し、箸を止めた。
「……あんな可愛いの食うとか……」
しかし、恐る恐る口に運んだ瞬間――目が見開く。
「うわっ……これ、豚よりうまいじゃん!」
「ブリテン(ガイウス)も食え! 紅茶に合うぞこれ!」
が、ガイウスはすでに黙って二口目を食べていた。
諦めと、感動と、雪国のカルチャーを静かに受け入れる勇者の顔。
ヴィヌスはそんな二人を見て、軽く笑った。

「口の中で溶ける肉を食べたいなら……牛よりグズルを食べるべきだと思うのよ」
言い切るその姿は、まさに“雪国の娘”。
ストーブの火がぱちぱちと弾け、外の吹雪が遠くで唸る音がした。
暖かい室内と、冷たい夜。
その境界に座る三人の旅人は、今日初めてオーゼという土地を“味”で理解していた。

そして、オルガおばあちゃんがぽつりと口を開いた。
「そういえば、あんた覚えてるかい? ジャックのこと……」
ヴィヌスは一瞬だけまぶたを伏せ、深い雪の底から掬い上げるように息をついた。
「……忘れられるわけ、ないわ」
炎のぱちぱちという音が、誰も言葉を挟まない沈黙をやわらかく埋めていく。
「最近もね、この宿の裏に住んでる子が“ジャックと遊んでる”って言うんだよ」
オルガの声は淡々としていたが、その奥には年月の重みが滲んでいた。

「名をつけるとね、不思議と春まで一緒にいてくれることもある。
でもね、春になっても溶けないジャックは……」
おばあちゃんは薪をいじりながら、ゆっくり続ける。
「……“冬将軍”になるって話さ」
サタヌスの箸がぴたりと止まる。
ガイウスも、わずかに顎を引いてヴィヌスを見た。
宿の静けさの中で、火のはぜる音だけが小さく響いた。

「冬を越えたジャックは、人間とはもう話してくれなくなる。
心臓の氷が、あまりにも冷たくなりすぎてね……」
ヴィヌスは胸元へそっと手を添えた。
――万年氷の、あの小さな欠片がそこにある。
「……そう。知ってるわ」
短く言った声は震えていなかった。けれど、どこか遠い。

ヴィヌスはスプーンを口に運んだ。
ビーツの甘み、やわらかく煮えたじゃがいも、かすかな香草。
久しぶりのボルシチは、懐かしくて、でも昔とはもう違う味がした。
彼女はふとスプーンを止めた。
赤いスープが、ランプの灯を映してゆらりと揺れた。

「……そういえば、昔もこれだったわ。
ジャックと遊んだ夜、家に戻ると、いつもボルシチの匂いがしてた」
記憶は自然に、雪明かりの向こうへにじんでいく。
——雪の夜、ドアを開けると、湯気とともに漂ってくるスープの香り。
びしょ濡れのポンチョを脱ぐと、母が黙って器を差し出してくれた。
その帰り道、いつも彼と並んで歩いた。

「……ヴィーシニャ」
真っ白な世界にぽつんと立っていた少年。
氷のような髪、雪のような肌。
年齢もあいまいな、冬そのものみたいな存在。

「どうしてそんな名前なの?」
「だって桜って春にしか咲かないんだろ?」
「数日しかないのに、誰もが見に来るんだって。……なんか、すごいだろ?」
雪を指でひっかき、そこに小さな花びらの形を描いて見せた彼。

「俺もさ、ああなりたいんだ」
「短くても、ちゃんと覚えてもらえる……そんなの、憧れるだろ?」
あのときのヴィヌスは、ただうなずいて、
冷えた自分の指を、彼の氷の手にそっと重ねた。

——そして翌年。
ヴィーシニャは“春を越えそうになっていた”。
「……だめだよ。越冬したら、あなたは……人じゃなくなるって」
泣きそうな声で言っても、彼は微笑んだ。

「大丈夫。俺は、ちゃんと消えるから」
そう言ったのに。
——彼は、消えなかった。

ヴィヌスが“連れて行かれそうになった夜”、
彼は初めて言ったのだ。
「離れたくない」
その一言で、ヴィヌスはノル・ユールを去った。
スプーンの中で、赤いスープが揺れている。
温かいはずなのに、指先が少し冷えた。

「……あの子は、いまも……雪の中にいるのかな」
オルガおばあちゃんは、何も言わず薪をひとつくべた。
ぱち、と火花が弾んで、部屋が少しだけ明るくなる。
“そこにいた子供たち”へ、小さな灯りを手向けるみたいに。