オーゼ編-愛の温度 - 1/4

「ナージャー! どこだー!」
サタヌスは声を張り上げながら、針葉樹の合間を駆けていた。
雪を蹴り、枝を払いながら進む道は、もう人の気配が消えて久しい。
彼の息は白く、コートの隙間から冷気が容赦なく入り込む。
「……ったく、なんで子ども一人でこんなとこに……」
つぶやいたその時、ふと足元に違和感があった。
踏みしめた雪の感触が一瞬だけ硬かったのだ。
サタヌスは足を止め、しゃがみこむ。

そこに、靴があった。
小さな、装飾のない、いかつい作りの雪靴。
茶色い革が、ところどころ濡れて凍っている。
間違いなく、ナージャのものだった。
けれど片方しかない。

「……うそだろ」
サタヌスの手が、そっと靴に触れた。
凍った革が、ひやりと掌にまとわりつく。
なんの音もしない森のなかで、それだけが、決定的な“異変”の痕跡だった。
サタヌスは、拾った靴を片手にゆっくりと立ち上がった。
小さなサイズ。革が固く凍っていて、片方だけ。
そのそばに、わずかに残る足跡があった。

「……裸足……?」
ほんのわずかだが、雪に残っている。
「……こいつ、靴が脱げても走ったのかよ……」
雪の中を、ただひたすら前へ。
冷たいとか、痛いとか、そういう感覚を振り切って。

サタヌスは息を呑む。
そして、ぽつりと、笑いもせずに呟いた。
「……スラムじゃ、それで死ぬぞ」
誰も信じられなかった日々。
食べるために走って、逃げるために走って。
素足で雪を踏んだときの、あの痛みを知っている。
だからこそ、わかる。

この子は、追いつきたかった。
そんな想いで走ったのだと。
「……ナージャ」
風が吹いた。
彼は、ぎゅっと靴を抱えるように胸元へ押し当てる。
「オレも、靴なんて脱げたって走り続けたよ」
そしてまた、森の奥を見つめる。
その先で、何かが待っている気がして。

吹雪が森を引き裂くように渦を巻いていた。
その時だった。
「いたわ!ナージャよ!!」
あの少女がいた、凍えているが確かにいた。
サタヌスが駆け寄ろうとした矢先。
「――下がってください!」
雪煙を裂いて、誰かが駆け込んでくる。
整った軍服、乱れない呼吸、ヤマト調査官だった。
「ナージャを保護します。あなた方は戦闘に集中を」
冷静。理知的。
まるで正義の味方の登場のようだった。

倒れ込んでいたナージャの小さな体に手を伸ばす。
その動きは慣れている、守る者の動きだ。
サタヌスが一瞬だけ安堵しかけるが、風向きが変わった。
血の匂いではない、人間の匂いでもない。
もっと乾いていて、澄みすぎていて“冷たい”。
サタヌスの目が細まる。

「……待て」
ヤマトの手がナージャに触れようとする。
「魔物の匂いがする」
ヤマトの動きが止まった。
ほんのわずか、人間なら気づかないレベルの“間”。
だがサタヌスは、見逃さない。
ヤマトの瞳の奥で、金色が一瞬だけ揺れた。
「……何を言っているのですか」
声は穏やか、だが温度が一段低い。
サタヌスは迷わない。

斧が横薙ぎに走り、ヤマトの胴を切り裂いた。
手応えはあった、確かに斬った。
血は出ない、代わりに亀裂が走った。
切断面から、白い霜が広がる。
ヤマトの体が、内側から透明になっていく。
「……っ!」
ヴィヌスの瞳が見開かれる。
次の瞬間、ヤマトの体は完全に“氷”へと変わった。
氷の破片が吹雪に巻き上げられ、森の中へ散っていく。
そこには、何も残らない。

「氷になった……!?」
「……人形、だったのね……」
ナージャの頬に触れたはずの手も、その温もりも、最初から存在しなかった。
「さすがだね、鼻がいい」
森の奥から、声がする。
「……あれは、氷の写し身。便利なんだよ。“信頼できる顔”で近づけるから」
ヴィヌスの背筋に冷たいものが走る。
ヤマトは本物だった。
だが今、森に現れた“ヤマト”は違う。
つまり本物は、どこか別の場所にいる。

森の奥、陽の光も届かない深雪の中。
カリストはスニョーカの手を優しく引いていた。
その指は冷たいはずなのに、触れていると温かく感じた。
「……ねえ、スニョーカ。
君は、ずっとここで待っていたんだよね」
「ナージャに拒まれて、“春”に置いていかれて——それでも、追いつけなくて」
スニョーカは小さくうなずいた。
唇はかすかに震えている。

カリストは、木々の合間に立つ氷の構造物を見せた。
それは、まるで彫刻のように美しい。
透き通った氷でできた細長いカプセル。
棺のようであり、揺り籠のようでもある。

「君が苦しまなくてすむ方法が、ここにあるんだ」
「ほら、ここに入れば——もう時間に追われることもない。
春も夏も来ない。
寒さも、寂しさも、感じなくなる」

スニョーカの足が、カプセルの縁で止まった。
「……怖い……のに、なんで……優しいの?」
カリストはゆっくりと微笑んだ。
「怖くないよ。
これは“大人になる”ってことさ」
その瞬間、カリストの目が少しだけ細まる。

「君も、そうだろう?」
「もう、子どもじゃいたくないんだよね?」
「大人になれば、もう“置いていかれる”ことはないから……」
声のトーンがゆっくりと甘くなる。
「私は知ってるよ、君みたいな子が“凍る”瞬間って、ほんと……とても綺麗なんだ」
スニョーカの背筋がびくりと震えた。
けれどもう、足は動かなかった。
カリストは一歩、スニョーカの背後に回る。
氷のカプセルが開き、白い蒸気のような冷気が漏れる。

「これは、苦しくない。凍るのは、静かで、あたたかいんだ」
彼の声が震えはじめる。
喜びに、熱に、狂気に。
「……ああ、これも全部、ユピテル様のため……」
カプセルの氷が、かすかにきしむ音を立てた。
その音は、心臓の音よりも静かに、けれど確かに、世界の一部を閉じようとしていた。

氷のカプセルが、スニョーカを包み込もうとしていた。
冷気が渦を巻く。
その中心に、陶酔しきったカリストの声が響く。
「ちゃんと君は……私が愛してあげるからね……っ」
そのときだった。
風を裂く音と共に、カリストの肩に鉄の斧が突き刺さった。

「ッ——ぐっ……!」
よろめくカリスト。
氷の気配が一瞬ゆらぎ、スニョーカの体がガクリと揺れる。
「やっぱり! 間に合ったな……!」
木立の影から、軽やかに飛び出してくる男。
サタヌスだった。

「……精度、上がったわね」
ヴィヌスが雪を蹴って現れる。
真っ直ぐにカリストを睨みながら、目だけでサタヌスに合図を送った。
「砂漠んとき、鍛えたからな」
にやりと笑うサタヌス。
彼らは修羅場をくぐった勇者たち。
笑っているが、命のやりとりに手加減はない。
カリストは肩の斧を睨みながら、ようやく立ち上がる。
彼の表情は、これまで見せたことのないような険しさに染まっていた。

サタヌスの斧を引き抜いたのは、自身の力ではなかった。
氷が、音もなく巻き戻るように傷口を閉じていく。
血が流れることもなく、ただ、冷気が噴き出していた。
その中心で、カリストが静かに立ち上がる。
——あまりにも、静かに。

膝を使わず、関節を無視するようにスッと伸び上がる。
まるで、映像のコマが飛んだような——不自然な“空白”を伴う動き。
「……邪魔するな」
カリストの声は、まるで吐息のように静かだった。
怒鳴りもしない。
言葉に力も込めていない。
なのに空気が、ひときわ重くなった。

森の木々が、かすかにざわめきを止める。
雪の粒が、静止したように落ちてくる速度を緩める。
サタヌスは、肩越しにごくりと喉を鳴らす。
「……うわ……マジで怒ってんじゃん……」
ヴィヌスも、一歩だけ足を止めた。

カリストが顔を少し傾け、軍帽の影から視線を上げる。
その瞬間——影に沈んでいた目元が露わになった。
感情のない光じゃない。
燃えるような、焼き尽くす怒りの光。
「私は、ただ任務を遂行していただけなのに……」
また一歩、氷が広がる。
ヴィヌスはその言葉の奥に、ユピテルへの忠誠と、自分への殺意をはっきりと感じた。

(……やっぱり、殺す気だったのね)
カリストの金の瞳が、深く、深く沈んでいく。
空は晴れていたはずなのに急に、風が強くなった。
雪が、舞いはじめた。
小さな渦を巻きながら、カリストの周囲を中心に、
まるで彼の感情と連動するかのように、空気が変わっていく。

ヴィヌスとサタヌスは視線を交わす。
「行ける?」とヴィヌスが口を動かすだけで問う。
「任せろ」とサタヌスが小さく頷く。
スニョーカはまだ意識が薄い。
カプセルの氷はわずかにひび割れはじめている。
今なら、救い出せる——ほんの一瞬の隙があれば。

「ねえ、カリスト」
ヴィヌスの声は軽かった。
普段通り、むしろいつもより明るくさえあった。
「ユピテルって、あの下品な俺様野郎のことよね?」
その瞬間、カリストの全身から冷気が弾けた。
雪が突風のように舞い上がり、木々が軋む。
空はみるみるうちに灰色へと染まっていく。
吹雪が、始まった。

「……やっぱり、君は“口が悪い”んだね」
カリストの声は相変わらず静かだった。
けれど、手のひらに凍った風が渦を巻いている。

「“あの御方”を侮辱した口、二度と利けないように凍らせてあげる」
その目は、まさに“本気で殺す気”のそれだった。
でも——それでいい。
ヴィヌスはにやりと笑う。
「さぁ、できるもんならやってみなさいよ」
吹雪の中心で、勇者と“冬将軍”が睨み合う。
一方その裏で、サタヌスは静かにスニョーカへと駆け寄っていた。
氷のカプセルに、小さな音が走る。

サタヌスの斧が、ゆっくりと表面を削りはじめていた。
そのひと振りごとに、白い氷の破片が空中を舞う。
「……もうちょいで割れる……っ、スニョーカ、もうすぐだぞ……!」
その光景に、カリストの目が見開かれた。

「やめろ……!」
低く、かすれた声だった。
「やめろ!! その子を連れて行くな!!」
次の瞬間、声が一変した。
怒りと執着がむき出しに乗ったその叫びは、吹雪よりも鋭く響いた。

「……“連れて行くな”?」
ヴィヌスがゆっくりとカリストを見た。
「……いつから、彼が“貴方のもの”になったの?」
静かに、けれど突き刺すように冷たい声で。
その言葉に、カリストの全身がびくりと震えた。
笑顔が崩れ、微笑みが消える。

歯ぎしりのような息遣いが、空気に滲む。
「……ああ……そうか……」
カリストはゆっくりと、腰に差していた長刀に手をかけた。
「……君も、“あの子”も、みんな私から奪うんだな……」
一切の無駄なく、カリストは刀を抜いた。
雪が、その動きに従うように舞い上がる。

正眼の構え。
両脚を開き、刀の刃先をまっすぐに相手へ向ける。
息を飲むほどに、整った立ち姿。
美しい、整っている。
まるで鏡のように“完成された剣士”。
けれど、その目だけが狂っていた。

金色の瞳。
怒りと悲しみと、壊れかけの愛が混ざった色。
「君だけは……絶対に、許さない……!」