空気が、音を失った。
カリストがゆっくりと顔を上げる。
白銀の睫毛に、粉雪が触れても溶けない。
その瞳は、もはや怒りでも嫉妬でもなく――澄みきった冬の空のように、どこまでも静かだった。
「……君は家族にならない」
吐息が白く伸びる。
だがその言葉は、拒絶ではなかった。諦めでもなかった。
「それでもいい……ガイウス、君は好きだ」
吹雪が止まる。
いや、止まったのではない。空間そのものが凍りつき、動きを失ったのだ。
ガイウスは無言で立つ。
剣を握る指先がわずかに白くなるが、目は逸らさない。
カリストは一歩、踏み出した。
その足跡から氷が広がる。地面が白銀の紋様へと変わり、木々の幹が音もなく結晶化していく。
「僕の“心の中”に入れてあげよう」
その瞬間、世界が砕けた。
空が割れ、雪が逆流し、光が消える。
吹雪は横殴りから垂直へと変わり、視界は一瞬で白に塗り潰された。
次の瞬間、景色は変わっていた。
凍りついた鳥居が連なり、石段は霜で白く覆われ、社殿は氷柱を垂らして静まり返っている。
空は白。地も白。境界のないホワイトアウトの中、ただ鳥居だけが黒く浮かび上がる。
ヒノエの様式を模した、歪んだ“心象風景”。
ヴィヌスが手元の炎を凝視する。
紫がかった炎が、凍気に押し潰されるように小さく揺れた。
「シェパード、さっさと見つけなさい。この炎が消えたら死ぬわよ私たち」
声は荒いが、目は冷静だ。
だがその睫毛にも、薄氷が張りつき始めている。
ガイウスは剣を握りつつ、鳥居を指差した。
「犬扱いするな!……なんだ?あれ。変な形だな」
雪と寒さで頭が回っていない。
ヒノエ文化など知らない。
ただ“異質”だと本能が告げている。
「景色を気にしてる場合?死にたくなかったら動きなさい!」
吹雪の奥から、壊れた音が響く。
「あっはっはっはあーはぁーはぁーはーっ!
ハハハ、ハハ……はァ、はは、ハハハァァァ……ひぁっはっはっはっ——ッ!!」
笑い声は途中で喉が詰まり、呼吸が乱れ、かすれ、震える。
笑っているのに、どこかで泣いている。
ヴィヌスが眉を寄せる。
「聞こえる?……声、壊れてる。あれ絶対、笑ってない」
ガイウスが顔をしかめた。
「うわ、マジで生理的に無理だコレ……」
鳥居の向こう、白い闇の中から囁きが落ちる。
「……寒い? 震えてるの? ガイウスさん……」
声は甘い、優しい、ぞっとするほど穏やかだ。
「もっと近くにおいでよ、あたたかくしてあげるから……ねぇ……」
ガイウスが何気なくヴィヌスの肩に手を添える。
体温を分けるため、ただそれだけ。
だがその瞬間、ホワイトアウトの向こうから、低く濁った声が滲む。
「やめて……ヴィヌスなんか触らないで……」
「ねぇ……僕のほうだけ、見てよ……」
鳥居の影が伸び、凍気が濃くなる。
「……はぁ、なんで……僕のものなのに……」
地面がひび割れ、氷の紋様が蜘蛛の巣のように広がる。
「また、君の手が誰かに触れてる……やめて……やめてよ……」
その声はもう囁きではない、押し殺した叫び、心が割れる音。
吹雪が一斉に巻き上がる。
カリストは笑っていた、泣いていた、壊れていた。
「家族にならないなら……いいよ……」
その瞳がガイウスを射抜く。
「でも、君は好きだ」
凍てついた空間が、ぎしりと音を立てる。
「だから――ここに閉じ込めてあげる」
白が、さらに濃くなる。
「僕の“心の中”に」
氷の結界が、完全に閉じた。
吹雪の中、ガイウスは剣を握っていた。
指先の感覚はもうほとんどない。足も重い。肺が焼けるように痛い。
一歩踏み出すだけで、体力が削れていくのがわかる。
だが、視線だけは逸らさない。
カリストの甘い囁きが、遠くから、すぐ隣から、同時に響く。
方向が定まらない、まるで空間そのものが喋っている。
それでも、勇者ズはその声に寄っていかない。
甘さに、誘導に、縋るような温度に、決して足を向けない。
白い闇の奥で、声の調子が変わった。
「何で? 僕ずっとここにいるって、そう言ってるのに」
優しさが剥がれる。
下から、苛立ちが滲む。
「……もういい……こっちから行く。全部、僕のものにする……」
ザッ……ザッ……と雪を踏みしめる音。
一定のリズム、迷いのない歩幅。
ホワイトアウトの向こうから、“何か”が近づいてくる。
気配だけが濃くなる、心臓が本能的に拒絶する。
ヴィヌスは炎をガイウスに向ける。
橙の光が、凍りかけた彼の横顔を照らす。
「シェパード、チャンスは一瞬よ。逃さないで」
声は掠れているが、目は鋭い。
ガイウスは小さく息を吐いた。
もう逃げられない、覚悟を決めるしかない。
雪を割る足音が、すぐ目の前で止まった。
白の中から、白い軍帽が現れる。
金の瞳が、狂気に濁る。
その手がガイウスへと伸び、触れかけた――その瞬間。
「ッ……あああああー!!?」
炎が閃いた。
ヴィヌスの魔力を宿した“炎の刃”が、袈裟斬りにカリストの身体を切り裂く。
氷と血が同時に弾け、悲鳴が結界を震わせる。
次の瞬間、神社は崩壊した。
鳥居が粉雪になり、石段が砕け、社殿は霧のように溶けて消える。
白の世界が剥がれ落ち、現実の吹雪が戻る。
カリストは膝をついた。
軍服が裂け、血が滲み、息が荒い。
だが、その目はまだヴィヌスを見ている。
「お願いだ……ヴィヌス……」
もう戦う者の声ではない。
震える、ただの願い。
「……俺を、君の……家族に……」
拒まれたくない、それだけが残っている目。
ヴィヌスはしばらく黙って見つめた。
目を細め、微笑んだ。
「うん、わかった」
柔らかく、母のように、慈しむように。
そして次の瞬間、音が爆ぜた。
衝撃波が吹雪を弾き飛ばす。
雪面が割れ、氷柱が砕ける。
ヴィヌスの掌が、完璧なフォームでカリストの頬を撃ち抜いていた。
ただの平手、だが竜骨を砕き、上級悪魔を脳震盪に叩き込む“勇者の本気”。
魔を祓うための力が、今はただ、拒絶の形で放たれた。
カリストの身体がのけぞり、空気が裂け、雪が舞い上がる。
彼はその場にうずくまり、頬を押さえたまま固まっていた。
(……な、に……)
痛い、呼吸ができない、思考が追いつかない。
だが、理解だけが残る。
(……なにこれ……いたい……?)
数秒の沈黙、そして。
「い、いたいよぉぉおおおおおっ!!」
情けない絶叫が吹雪を震わせる。
感情が決壊した、理性も威厳も崩れ落ちる。
雪に手をつき、びしゃびしゃに濡れながら泣き喚く。
「ユピテル様ぁぁっ……!ヴィヌスがぁ……ヴィヌスがぶったあぁあああっ!!」
冬将軍の姿はどこにもない。
そこにいるのは、母に怒られた少年。
氷の支配者の仮面が剥がれ、剥き出しになったのは、ただの寂しがり屋。
カリストは顔を覆い、雪を蹴り、泣きながら逃げ出した。
吹雪に背を向けて。
ヴィヌスは拳を揉みながら、ぽつりと呟く。
「……ごめんね? ちょっと加減忘れた」
ガイウスが横からぼそり。
「いや、あれ喰らって生きてる時点で化け物だろ」
吹雪が少しだけ弱まる。
氷の将軍、戦線離脱。
愛の温度は、まだ零度には届いていなかった。
吹雪が止んでいた。
カリストの姿は、もうどこにもなかった。
ヴィヌスは肩で息をつきながら、足元を見やった。
小さな、透明な結晶。
雪の上に転がるそれは、氷とも石ともつかない質感を持っていた。
光を受けて、わずかに七色に輝いている。
「……あら」
ヴィヌスは腰をかがめて、それを指先でそっとすくった。
氷のように冷たく、石のように硬く、宝石のように美しかった。
それが、カリストの——涙だと気づいたのは。
かつてジャックフロストの涙を見た記憶があったからだった。
「やっぱり、“同じ”なのね……」
声には感情がなかった。
ただ、確認するように呟いた。
冗談みたいに高純度の魔石でもあった。
けれどヴィヌスはそれを、地面に落とした。
コツンと雪に当たって止まる、小さな音。
「……どうせならもっとマシな理由で流しなさいよ」
彼女のブーツが、それを踏み砕いた。
魔石は、砕けてもなおきらめきを残しながら、雪の中に静かに消えていった。
ガイウスが少し後ろでその音を聞きながら、静かに言う。
「……もったいねぇな。アレ、王都じゃ高く売れるぞ」
「気持ち悪い涙でできた宝石なんて、要らないわ」
ヴィヌスの声は、冷たくも澄んでいた。
——雪の中、ただひとり“熱”を持ち続ける者として。