ナージャが駆けてくる足音が、遠くから聞こえていた。
けれどサタヌスは、その足音よりもずっと昔の音を思い出していた。
まだ背も低くて、汚れた指で何かをいじるのが“遊び”だった時代。
蛹を見つけた、きれいな色だった。
何が出てくるのか、どうしても中が見たくて、割った。
中身はぐちゃぐちゃだった。
翅はなく、脚も短くて、何かの途中だった。
あれは蝶になるはずだったのか?ただの変わり損ねか?
今のスニョーカを見て、はっきりわかった。
あの日と、同じだ。
「スニョーカ……!」
ナージャの声が明るく響く。
「ねえ、また遊ぼ……?今日も、いっぱい雪であそぼ……?」
スニョーカはゆっくりと顔を上げた。
目が、少し虚ろだった。
白く透けはじめた指先が、握ったまま動かない。
「……うん……」
一拍、遅れて返事が落ちる。
「……でも、ごめん……なんか、今日は……つかれた……」
ナージャが足を止めた。
何かを察したのか、していないのか。
ただ、じっと見つめている。
サタヌスは口を開きかけて、何も言えなかった。
言葉にすれば、壊れる気がした。
言葉にしなければ、まだ“ここにいる”気がした。
雪はまだ、静かに降り続いていた。
ナージャはじっと、スニョーカの顔を見つめていた。
笑ってはいるけど、目がどこか遠くて、その手は少しずつ、透けている。
まるで光の中に溶けかけているみたいに。
「……スニョーカ!一緒に、桜見ようよ!」
スニョーカの目が、ゆっくりと彼女に向いた。
「すっごく、きれいなんだよ!風がふわって吹くと、花びらが……」
ナージャの声がかすれていく。
言葉が、涙ににじんでいく。
「だから……だから、もうちょっとだけ……」
雪の中、ふたりの距離はとても近くて、触れられないほど遠くて。
スニョーカは、微笑んだ。
でもその笑みは、どこか“終わり”を感じさせるものだった。
「……桜、見てみたいなぁ……」
声がふわりとほどけるように、空へ消えていった。
ナージャは、もう声が出なかった。
しゃがみこんで、小さな腕を広げて、凍えそうなその体を、包もうと抱きしめた。
その瞬間ナージャの腕の中にあった感触が、ぐしゃ、と崩れた。
ナージャが腕を解くと、彼の着ていた灰色のポンチョが、ぐっしょりと濡れていた。
しみだした水が、ナージャの手のひらを伝って落ちる。
服の裾に、染みが広がっていく。
——溶けてる。
「っ……あっ、え……?」
ナージャの目に、涙とは違う水が落ちた。
しずくはスニョーカの腕から滴っていて。
“身体の輪郭”そのものが、ゆっくりとほどけていくようだった。
さっきまでそこにいた彼が“そこにいる”という実感ごと、薄くなっていく。
ナージャの手の中で、スニョーカの体はどんどん薄くなっていった。
重さも、ぬくもりも、音すらも——少しずつ失われていく。
「……ナージャ、ごめんね」
その声だけは、まだしっかりと届いた。
「……僕、もう……いけないや」
ナージャは首を横に振った。
「やだ……まだ一緒にいたい……!」
「引っ越し先にも、連れていけたらいいのに……!」
スニョーカは、かすかに笑った。
その笑顔は、とても静かで、穏やかで。
「僕ね……次に生まれ変わったら、桜になりたいな」
「桜……?」
「……そしたら……次は、ちゃんと……“春”を好きになれるかな……」
ぽたり、と雫がこぼれた。
涙じゃない、雪解け水だった。
スニョーカが消えた雪原に、沈黙が降りた。
ナージャは、ずっと立ち尽くしていた。
手のひらにはまだ、ポンチョの湿った感触が残っている。
でも、その中にいたはずの友達は、どこにもいなかった。
サタヌスは、一歩だけ近づいて、声をかけようとして——やめた。
その肩が震えているのが見えたからだ。
「……なんで……」
ナージャの声が、割れた。
「……なんで、スニョーカ……っ」
涙の先にあった言葉は、悲しみでも、疑問でもなく、怒りだった。
ナージャは振り返る。
目に涙を浮かべたまま、サタヌスを見た。
「あんたたちが来なければ!」
びしっと指を差したその先で、サタヌスは動かなかった。
「スニョーカ、あの人に連れてかれなかったかもしれない!傷つかなくて済んだかもしれない!!」
泣きじゃくる声。
でもその中に、子どもなりの悔しさが詰まっていた。
「“ありがとう”なんて……言えないよ……!!」
そう叫んだあと、ナージャは雪原に座り込んだ。
大粒の涙が、春の陽の中で音もなく落ちる。
その日の空は、ありえないほど青かった。
まるで何事もなかったかのように、晴れ渡っていた。
勇者たちは、ナージャの家まで彼女を送り届けた。
彼女は何も言わず、ただぎゅっとヴィヌスのマントを掴んでいた。
小さな手が、震えていた。
扉を開けた母親が、すぐに娘を抱きしめた。
「ナージャ……っ!」
「……スニョーカが……」
それ以上の言葉は出なかった。
父親も、静かに頭を下げた。
ヴィヌスたちも、深く頭を下げた。
「……私たちが……巻き込んでしまったようなものです。本当に、申し訳ありません」
ヴィヌスの声は、かすれていた。
けれど母親は、首を横に振って笑った。
「……娘は、気が動転しているだけです。
お気になさらずに……どうか、ご自分を責めないでください」
言葉は優しかった。
でも、それは“本当の赦し”ではなかった。
その後、荷馬車が準備された。
引っ越しは、予定より早まった。
理由は誰も聞かなかった。
ただ、雪解けの道を、馬車が音もなく進んでいった。
ナージャは最後まで、こちらを見なかった。
「……やっぱり、あの子……“ありがとう”は言わなかったな」
サタヌスがつぶやいた。
「……言えないわよ」
ヴィヌスが目を細める。
「それで、いい。正しいからって、許されるとは限らねぇ」
春の空は、透き通っていた。
でもその下に立つ三人の胸の中には、雪が、まだ解け残っていた。
車は、ゆっくりと雪道を進みはじめていた。
荷物は少ない。
足跡もすぐに雪に埋もれていく。
メキアの街では、人々に囲まれ、拍手と歓声の中で送り出された。
英雄として、救い主として、でもここでは何もなかった。
広場には人影もなく、静かな風の音だけが耳に残る。
ただ、一角にぽつんと、宿屋の女将・オルガおばあちゃんが立っていた。
両手を袖の中に入れ、じっとヴィヌスたちを見ている。
その隣には、かつての“ヴィヌス”を知る老人がひとり。
「さ。早く行きなさい、もうすぐ冬だ。そしたら外で喋ったりできなくなる」
短い送り出し、しかしそれが何よりも暖かい。
「……静かすぎて、逆に落ち着かねぇな」
サタヌスが苦笑いして言った。
「これが、“正しいこと”をしても、感謝されないってやつよ」
ヴィヌスが淡く笑って、馬車に乗り込む。
ガイウスは最後に振り返り、街の雪景色を一度だけ目に焼きつけた。
「さよなら。ノル・ユール」
馬車が坂を下りて、白い町並みが背後に沈んでいく。
ヴィヌスは、小さく呟いた。
「また、雪が降る頃に……」
声が風にかき消されるころ、三人の旅は、新たな国へと向かっていた。
雪原の果て、吹雪の止んだ静けさの中で、カリストはひとり、膝をついていた。
「……うぅ……ぶたれたぁ……勇者にぃぃぃ……」
鼻をすすりながら雪をぐじゃぐじゃにし、袖で涙を拭い、情緒が地に落ちていた。
そんなカリストの背後に、重たい足音が、音もなく降り立った。
「……やってンな」
その声を聞いた瞬間、カリストがぴたっと泣き止んだ。
振り向く。
「ユ、ユピテル様ッ!!」
軍帽がズレ落ち、目が腫れていた。
でもその顔に、ぱっと花が咲いたような笑みが戻る。
「わざわざ来てくださったんですか!?ヴィヌスの件ですか!?殺さないように頑張ったんです!!」
ユピテルは一歩だけ近づいて、肩をすくめる。
「……ヴィヌスたちはもう、ここにはいないそうだ」
ユピテルが目を細めて空を仰いだ。
朝日が雪を金色に照らしている。
「じゃ、俺たちも用は済んだな。次行くぞ」
その言葉に、カリストは一瞬寂しそうに振り返る。
けれどすぐに、頬をぺちんと叩いて気合いを入れた。
カリストは、震えた。
身体がではない。心が、震えた。
「……やっぱり……やっぱり……!!」
——俺には、ユピテル様しかいないんだぁあああっ!!!
勢い余って、両手を胸元で組み、脚をクロスにして内股。
瞳は潤み、角度は完璧。
——通称、“恍惚のヤンデレポーズ”。
「ユピテル様……やっぱり、俺には貴方しか……っ!」
好感度:120(デフォ値)。
完全回復。六花将軍、復活。
だが。その隣ではユピテルが、まったく別の世界にいた。
「……寒ぃな。舞雷、どう思う?」
腰の刀に話しかけると、鞘をトントンと親指で軽く叩く。
カリストの大告白など、まるで聞こえていないかのように。
「なあ、たまにはどっか静かな温泉地でも行くか。な?舞雷」
その間にもカリストはバッキバキのヤンデレポーズで静止中。
「っ……ユピテル様ァァァアア!!」
「うるせぇ、帰るって言ってンだろ」
ユピテルはようやく片目だけカリストに向けた。
刀の柄を軽く押しながら、歩き出すその背にカリストは夢中で追いすがる。
両者の温度差、−273.15℃。
それでもこの主従は、これからも揃って地獄へ向かう。
—–
馬車の車輪が、雪を砕く音だけが続いていた。
ノル・ユールの街は遠く、すでに白の丘の向こうに沈んでいた。
サタヌスは窓の外をぼんやりと眺めていたが、ふと眉をひそめる。
「……あれ、桜?」
坂の斜面、まだ雪の残る斜面の中に、ぽつんと一本、若木が立っていた。
「ナージャが言ってたやつか……“桜”って……」
ヴィヌスは視線だけを窓の外に向けていた。
それは、来年の春を迎える準備をしているようだった。
「……スニョーカ、見たかっただろうな」
「ヴィーシニャも……春、こわがってたっけ」
桜を見るたびに、きっと彼らを思い出す。
でもそれは、悲しみじゃない。
何かが始まり、そして終わったこと。
それを、ちゃんと覚えていられるように。
ヴィヌスは、ひとつ深く息を吸って、ふっと笑った。
「……さ、そろそろ切り替えるわよ。
次の国じゃ、また厄介そうな顔が揃ってそうだし」
「宗教国家ってやつな」
サタヌスがうんざりしたように眉をひそめる。
「……そのときは、次はあなたが囮ね」
そんな軽口が、小さく笑いに変わっていく。
馬車は、静かに次の国へと向かって進み出す。
風が、やわらかくなった。
雪解け水の音が、どこか遠くでぽつぽつと鳴っている。
ヴィヌスは、一本の桜をじっと見つめた。
来年の春を準備するように、秋空に根を張っている。
「……ヴィーシニャ」
ぽつりと、呟く。
「ここにいたのね」
懐かしい声がしたような気がした。
もう聞こえないけれど、いつかの冬に別れた、小さな親友の気配が、そこにあった。
ヴィヌスはふっと微笑んだ。
儚くて、温かくて、でも、確かに“前を向いている”笑顔。
その笑顔のまま、彼女は再び前を向き、馬車の揺れに身を任せた。
旅は、まだ続く。
そしてきっと、この道の先にも、また春がある。
—–
高くそびえるステンドグラスに、朝の光が射し込む。
その光の先で、ひとつの影が黙して祈っていた。
聖衣に包まれた細身の輪郭。
指先には、銀のロザリオが絡んでいる。
十字を切るその仕草は、何百回、何千回と繰り返してきたような。
完璧な儀式のように静かで美しかった。
外から足音。
遠くの回廊で、兵士の声が響いた。
「勇者が……オーゼを越えたらしい」
その影はゆっくり顔を上げる。
視界の端にだけ、銀縁の眼鏡の反射。
「奇跡の国に奇跡の外側の存在が来る、か」
唇が、ほんの少しだけ歪む。
「神の国に、どんな奇跡を持ってきてくれるのかな」
その顔は、まだ明かされない。
ステンドグラス越しに浮かぶ影だけが、その存在をほのかに告げている。
——世界は、次なる試練へ。
To be continued…