オーゼ編-白い闇の彼方より - 2/2

吹雪は一晩中、窓を叩いていた。
朝になっても風の音は止まず、白い世界はそのまま“外”を奪っている。
そんな中、宿のラウンジだけが妙に静かだった。

木の椅子に腰をかけている青年――帝国から来たという調査官、日向ヤマト。
白いコートの袖をきちんと揃え、手元には整然と並べられたメモとインク壺。
けれど、吐く息だけは白くない。
「では、昨夜、魔物に襲われたという納屋の位置を、もう一度教えていただけますか」
青年の声音は穏やかで、よく通る。
向かいに座る酪農家の男は、指先を震わせながら机の上の簡易地図を指差した。

「こ、ここだ。村はずれの放牧地で……グズルを飼っとる柵のすぐそばだよ」
「ふむ。柵の鍵は?」
「ちゃんと閉めてたさ。皆、グズルは家族みたいなもんだから……」
“家族”という言葉に、ヤマトの金色の瞳が一瞬だけ細くなった。
「家族、ね」
彼はメモにさらさらとペンを走らせる。
紙の上に走る線は妙に冷たい。インクが、まるで凍りついているかのようだ。

「鍵は壊されていましたか?」
「それが……綺麗に開いててな。血の跡も、足跡も雪で消えちまってて……」
男の声はだんだんと弱くなる。
ヤマトは顔色ひとつ変えず、静かに問いを重ねた。
「なるほど。では、こう考えるのが自然でしょう」
彼は地図を指でなぞりながら、淡々と告げる。

「――“中から鍵を開けられた”。村の誰かによって」
男の肩がびくりと震えた。
「そ、そんな……!」
「ええ、もちろん、今すぐ誰かを疑えと言うつもりはありません。ただ――」
にっこり。
笑顔だけは、妙に柔らかい。
「“共生”というのは、非常に脆い関係だという話です。
情で守ろうとすると、必ずほころびが出る。弱い者ほど、そこを狙われる」
声はあくまで穏やかだ。
だが、その瞳は完全に計算の色をしていた。

(ほころびは、すでにいくつも見つけましたけどね)
――ヴィヌス。
あの女だけが、ここでは“内側”にも“外側”にも属していない。
ペン先を止めると、軽く頭を下げた。
「ご協力ありがとうございました。今夜以降は、決してひとりで外に出ないように。
……吹雪の日の夜道は、魔物よりも危険ですから」
男はうなずき、足早にラウンジを去っていく。
ヤマトはその背を見送りながら、どこか退屈そうに瞼を伏せた。
「弱いから食われるだけ、か……。単純な話なのに、どうして理解できないんでしょうね、人間は」

村長宅の重い扉が閉じられると、空気ごと一段階冷たくなる。
古びた会議室。外の吹雪が窓を白く染める中、中央の机だけがやけに冷え切っていた。
その上には、分厚い書類の山――だが全て“氷”でできている。
蒸気がふわりと立ち昇り、ページが捲れるたびに薄く溶け、字が蒸発して消えていく。
黒い制服姿の青年、調査官ヤマトは微動だにせず、その異様な光景にも動じない。

「ここに向かうまでに、マナ濃度の調査をしていたのですが……」
「この異常気象は魔物による可能性が考えられます」
淡々とした口調は、まるで録音音声のようだ。
村長は身を乗り出しながらも、どこか背筋をこわばらせている。

「現状、村における魔物との共生政策には致命的な瑕疵が見受けられます」
「野生個体の無差別な受け入れは、生態系のバランスを崩すばかりか、感染症や凶暴化リスクの温床となり得る」

「我が国では、鹿・猪・熊といった獣害に対し。
幕府時代から定期駆除を徹底してきました」
「これを怠れば、人口減少と農地壊滅は必然――」
ヤマトの手が、静かに氷の書類を差し出す。
村長が手に取った瞬間から、それはじわじわと溶けていき。
文字が読めたかどうかも分からぬまま消えてしまう。

「本来、人間は環境の管理者であるべきで、“野放し”は共生ではなく支配を放棄する行為。今ここで対策を講じなければ、滅びは時間の問題でしょう」
重く鋭い言葉が会議室を満たし、
村長も思わず「……う、うむ」と唸るしかなかった。

「私の国はヒノエというのですが、共生の失敗例として挙げられる事例がいくつかございます」
ヤマトは氷の書類を一枚めくる。
その下に現れたのは、野山の地図と、淡い墨で描かれたクマの足跡。
「共生”という名目で野生生物の保護政策が採られました」
「一見、美しい話に思えます。ですが……」
彼は静かに村長を見据える。

「山の資源が乱獲や気候変動で枯渇したことで」
「クマは餌を求めて村に下りてくるようになりました」
「幕府は“手出しせず、しばらく様子見を続けたのです」
氷の書類の上、クマの足跡がじわりと溶けて消えていく。
「結果――田畑は荒らされ、家畜は襲われ、何人もの住民が命を落としました。
人と獣の境界が曖昧になったとき、“共生”はただの放置と化し、被害だけが積み上がる。
今や、山から下りてきたクマによる被害は、かつてない規模になっています」
ヤマトの声は低く、だが一切の感情が感じられない。

「村長――もし“共生”を誤れば、この村も同じ末路を辿ることになるでしょう。
“管理できぬ共生”は、滅びの第一歩です」
静寂の中、氷の書類が音もなく溶けていった。
会議室の空気はますます重くなっていた。
村長が机の上の氷の書類を手に取ったまま、顔色を曇らせる。

ヤマト(カリスト)は涼しい顔で一枚の資料をめくり“第三者”の体を崩さない。
「そもそも――なぜこの村に異常気象をもたらす魔物が現れたのか。と、申しますと……」
彼は机上の一点を見つめる。
「ヴィヌス――彼女を追っている可能性がございます」
村長の手がぴくりと止まる。
「……根拠はあるのか?」
「推察の域を出ません。しかし、ダークエルフは呪いを呼ぶと伝えられておりますよね?」
「この村でも、昔は彼女のことをそう扱っていたはずです」
ヤマトは穏やかな口調のまま、村にかつてあった“偏見”をそっとなぞる。

「“ヴィヌスが外の人間を呼び込んだせいで災厄が起きた”、
“あの肌の色は呪いの証”――こうした声が再び広がるのも、無理はありません」
机の上の氷の資料がじわりと溶けていく。
「この際――彼女を一度、村から切り離し、周囲と距離を置かせるべきかもしれませんね」
“全ての元凶”である自分自身を棚上げし、
あくまで「論理的結論」として、ヴィヌス孤立化を提案する――
その黒さ、狂気的な冷徹さが、会議室の空気を完全に凍らせていた。

暖炉でぱちぱちと薪が弾ける音がする。
けれど――会議机の端に座るヤマトだけは、その温かさに一切近づこうとしなかった。
むしろ、暖炉とは逆の、窓側の“冷え切った席”をあえて選び、
そこで氷をたっぷり入れた水を喉に流し込んでいる。
村長がふと眉をひそめる。
「調査官殿、寒くは……?」
ヤマトは静かに首を振った。
「いえ。私は冷えている方が落ち着くのです」
その言葉の意味を、誰も深く考えなかった。
だが“人間”としてはどう見てもおかしい――そんな違和感が、背に薄く残る。

会議がひと段落し、ヤマトが立ち上がろうとしたその時だった。
メイドが運んでいたティーポットが、うっかり彼の手に触れた。
ヤマトの表情が歪む。
「っ――!」
普段ほぼ無表情の男が、はっきり“痛み”で顔を歪めたのだ。
それも、“熱い”に反応したというより――まるで氷が溶けるような苦しみ。

「す、すみません!熱かったでしょう!?」
メイドが青ざめると、ヤマトは手を引っ込め、息を整えながら小さく呟いた。
「……あぁ、いやだ……いやだ……溶ける……」
その声は、まるで“人間ではない何か”の嘆きのようで。
次の瞬間にはもう、いつもの無表情に戻って言った。

「失礼、退室します」
しかし、退室したあとも、胸には妙なざわめきが残っていた。
暖炉を避け、氷水を飲み、熱に触れると“溶ける”と呟いた青年――
この極寒の世界を、吹雪ごと歩き切ってここまで来た男。
人間であるはずがない、と。
こうして、“冬将軍”の影は、誰にも気づかれぬまま密かに入り込んでいた。

正午の鐘が、ノル・ユールの静かな空に澄んだ音を響かせた。
吹き溜まりはまだ膝ほどあるが、ようやく人が歩ける程度には雪が落ち着き、
ガイウスとサタヌス、ヴィヌスの三人は外へ出ていた。
牧場ではグズルたちが、昨日の吹雪などなかったかのように
のんびり草をはんでいる。その図太さに、サタヌスは思わず笑ってしまう。

「よくこんな毛玉で生きてられるよな…メンタル強ぇなあいつら」
ガイウスも苦笑しながら柵越しに視線を送っていた――そのときだ。
「ん……?」
雪の上、黒い点が静かに近づいてくる。
風を切る音も足音もない。ただまっすぐ、迷いなく。
青年の足取りは“雪の上を歩く人間”のそれではなかった。
やがて距離が縮まり、青年もこちらに気づいたようだった。

「おや?」
機械のように無駄のない動作で立ち止まり、
黒い学生服に、ほとんど揺れない漆黒の前髪。
氷のように冷たい瞳だけが、異様に印象に残った。

ガイウスは警戒を隠さず声をかける。
「……あんたが調査官さん? 今日は来れないって聞いたけど」
「私は雪道に慣れているので、調査団を代表し先に来させていただきました」
青年はそう言って、丁寧に一礼した。
「あ、申し遅れました。私は日向大和といいます」
サタヌスが素でぽつりとこぼした。
「変な名前だな」
「よく言われます」
一切怒りも動揺も見せず、淡々と返す。その無表情さが逆に不気味だ。
それなのに――次に彼が見せたのは、妙に柔らかい笑みだった。

「仕事として訪れましたが……ここはいい場所ですね」
大和は村の中心を見回し、
凍りついた噴水、雪庇の重みでしなる屋根、
白に埋もれた柵や通りを、ひとつひとつ味わうように見て目を細めた。
本当に心から“気に入った”という風に。

「……調査官さんよ。ずいぶんと、よく喋るんだな」
「そうですか?」
ヤマトは首をかしげる。
「僕はただ、事実を並べているだけですよ。
君も勇者なら分かるでしょう、“情”だけで世界は救えない」
そう言いながら、何気ない風を装ってガイウスの隣に立つ。
距離が近い。
外の冷気よりも、彼の視線のほうがずっと冷たい。

「……君は、寒くない?」
囁くような声が、耳元をかすめた。
ガイウスは、ぞくりと背筋を震わせる。
理由は分からない。
ただ、この青年の目だけは、吹雪よりも“温度がない”と本能が告げていた。

(やっぱり、いい体格だ)
ヤマト――否、カリストは、心の中でだけ楽しそうに笑った。
(私のものにしたい)
腹黒い冬将軍の推理は続く。
吹雪に閉ざされた雪国ノル・ユールで、
静かに、確実に、誰かの心が凍りつき始めていた。