夜明けは、音もなく来た。
ノル・ユールの朝は遅い。冬の空はいつも鉛色で、太陽が昇っても世界はどこか薄暗い。
小屋の扉を開けると、空気の匂いが昨日までと違っていた。
冷たい、だがそれだけではない。
人の視線が、氷のように固まっていた。
三人が通りを歩くと、村人たちの会話が一瞬止まる。
そしてすぐに、ひそひそと声が再開する。
「……やっぱり、あの子は呪いの子なんだわ」
「ダークエルフは悪い魔物を呼び寄せるっていうもの」
声は小さい、だが隠す気はない。
視線は明確に、ヴィヌスへ向いていた。
白銀の髪、浅黒い肌、血に混じるダークエルフの系譜。
「ほら見ろよ……」
「冬将軍の騒ぎが起きた途端だ」
「昔から言うだろ、あの血は厄を呼ぶって」
古い言葉が掘り返されていく。
雪の街オーゼには、生き残るための文化がある。
助け合いの文化だ。
極寒の土地では一人では生きられない。
だからこそ、共同体は強い。
だがその反面……共同体は、外れ者に容赦がない。
誰か一人を切ることで、村を守る。
それがこの街の掟だった。
ヴィヌスの背中に、その言葉が突き刺さる。
「なんでここまで言われるんだよ……」
「助け合いの街なんだろ!?ここ!」
雪国の掟、共同体の文化。
そんな理屈はどうでもいい。
ただの理不尽だった。
だがヴィヌスは、肩をすくめただけだった。
怒りも、悲しみもない。
むしろ、どこか諦めたような顔だった。
「オーゼにはオーゼの掟があるのよ」
その背中が幼い日の記憶と重なった。
白いケープ、小さな手、雪だるまを作る孤独な少女。
“寂しくない”と強がっていた顔。
サタヌスの怒りが行き場を失う。
ヴィヌスは振り返らず、軽く手を振った。
「慣れてるわ」
それから、くるりと振り向く。
「サーロでも食べて気晴らししましょ」
雪の空気の中、焚き火が燃えていた。
村の広場の端。
木箱をひっくり返した席に三人は腰を下ろす。
紙包みを開くと、白い脂の塊が現れた。
サーロ。極寒地オーゼの子供たちの定番おやつだ。
寒さの中で脂を齧ると、体の奥から熱が戻る。
ヴィヌスはナイフでそれを切り、三人に分けた。
脂が指先でゆっくり溶ける、じわっと温度が戻る。
「寒いと脂が正義だな、マジで」
ガイウスももぐもぐと齧る。
「これ……噛むたびにHP回復してる感じする……」
焚き火の向こうで、地元の男たちが小声で話しているのが耳に入る。
聞き流すには、同じ言葉が何度も落ちた。
サタヌスの耳が動く。
「……なぁ今なんつった?」
ヴィヌスが淡々と答える。
「“ジャック”って言ってたわね」
焚き火がまた弾けた。
男の声が、怪談の語り口のように続く。
「最近はな……ノル・ユールじゃ“子供だけで遊ぶとジャックが来る”って言って聞かせてるそうだ」
「夜に名前を呼ばれたら、返事するなってよ」
サタヌスが眉をしかめる。
「完全に怪談枠じゃん……」
ヴィヌスはサーロを上品にもぐもぐしながら、鼻で笑った。
「あぁ、子供攫いのド変態ね♡」
ガイウスがむせた。
「言い方が酷い!?」
ヴィヌスは平然としている。
「事実でしょう?変態じゃなきゃ何なのよ」
そのとき少し離れた場所に立っていた男が、静かにこちらを振り向いた。
ヤマト調査官。
黒い軍装、冷たい瞳、声はいつも通り穏やかだった。
「……最近は、オーゼで活動しているようで」
雪の風が吹く。
「明らかに“ジャック”と思われる目撃情報が寄せられています」
ヴィヌスの手が止まり、ヤマトは続けた。
「子供に近づく際、“おいで、遊ぼう”と声をかけるそうです」
ガイウスが顔をしかめる。
「うわ……完全にアウトなやつだ……」
サタヌスがぼそっと言う。
「注意喚起が遅いタイプの怪異だな、それ」
ヤマトの声は変わらない。
「大人の被害者も出ていますが、傾向は偏っています……お気をつけて」
焚き火が大きく揺れる。
炎の向こうに、一瞬だけ影が重なった気がした。
だが次の瞬間には、雪霧に溶けて消えていた。
「噂話のくせに、変に生々しいんだよな」
ガイウスは黙って、最後のサーロを口に放り込んだ。
脂の塩気が舌に残る。
だが胸の奥には、別の味が残っていた。
雪はまだ降り続いている。
――この噂、ただの脅し文句じゃない。
雪は音を吸い込む。
ノル・ユールの夜道は、昼よりもずっと狭く感じられた。灯りが少ないからではない。視線がないからだ。
「今日からは違う宿屋で寝ろ、だってさ」
吐き捨てるように言ったのはガイウスだった。吐いた息が白く揺れる。
「なぁこっちで合ってんの!?」
道は白い。分かれ道も白い。全部同じに見える。
「大声出さない!ただでさえ村八分なのよ!」
その言葉が、夜気より冷たく刺さる。
勇者ズ台風トリオ――ガイウス、サタヌス、ヴィヌス。
今は台風というより、雪原を必死に走る三匹の小動物だ。
焚き火の爆ぜる音が、遠くの広場からかすかに届く。
それ以外は、雪を踏みしめる音だけ。
宿屋の明かりが、遠くに滲む中。
背後から、やけに甘ったるい声が降ってきた。
「ねぇ……そこの子たち、こっちにおいでよ。遊ぼう?」
足音が、ほんの一瞬だけ乱れ、脳内で警鐘が鳴る。
ヴィヌスが、わずかに息を呑んだ。
サタヌスは即座にフードを深く被る。物理的に音を遮断するという、原始的で正しい防御。
ガイウスは前だけを見る、何も聞こえなかった顔で。
「ねえ、そっちじゃなくて、もっと楽しいところがあるんだよ――おいで?」
近づいてもこない、離れもしない。
ただ甘く、囁くだけ。
三人は無言、会話すらしない。
雪は音を吸うはずなのに、今夜はやけに反響する。
宿屋の戸を、ほとんど叩きつけるように閉めた。
「なあ……今の、絶対“ジャック”だろ……」
ヴィヌスはゆっくり息を整えた。
「知らん顔して正解よ」
その声は落ち着いている。
「オーゼ民のサバイバル知恵、なめちゃいけないわ」
雪国では怪異もまた、気候の一部だ。
触れなければ過ぎ、答えなければ消える。
ガイウスが壁に頭を打ち付けるように寄りかかる。
「マジで……あの声……“化け物”感、シャレになってねぇ……」
しばらく、誰も喋らなかった。
暖炉の火だけが小さく揺れ、外では雪が降り続いている。
――雪の夜、ノル・ユールに“遊び”を誘う声だけが、闇のどこかに消えていった。
ロビーはまだ暗い、窓の外は氷霧。
三人は椅子に沈み込んでいる。
疲労がどっと押し寄せていた。
眠っていないのに、身体が重い。
そこへ、足音。
一定で、静かな靴音。
ヤマト調査官が近づいてくる。
「……何事もありませんでしたか?」
その声は穏やかだ。
ガイウスの手は、まだひどく冷たい。
ヤマトの視線がそこに落ちる。
「……その手、ずいぶん冷えていますね」
次の瞬間、そっとガイウスの右手を握る。
血が一気に戻るような熱。
けれどその握りは、優しいはずなのに逃がさない。
人の体温としては、少しだけ高すぎる。
ヤマトの瞳がじっとガイウスを見つめる、まばたきが少ない。
「温めてあげますね。凍傷になる前に、ちゃんと……」
逃げ場がない、優しいのに圧がある。
包み込むようで、囲い込むような。
ガイウスがぎこちなく視線を逸らす。
「……あの、もう大丈夫なんで……」
ヤマトは、微笑む。
「また冷えたらいつでも言ってください」
ほんの少し、指に力が入る。
「私は、あなたが凍えないように見守っていますから」
その言葉は、まるで誓いのようだった。
守る、と言いながら所有の響きが混じっていた。
夜のノル・ユールは静まり返っていた。
蒼氷領オーゼ特有の長い夜は、村そのものを雪の中へ沈めてしまう。
屋根は厚く雪を被り、煙突から立つ白い煙は月明かりに溶けていく。
石造りの家々の窓だけが橙色に光り、遠くの教会塔がぼんやりと影になっていた。
風は弱いが、細かな雪が絶えず降り続いている。
足音を立ててもすぐに消える。声を出しても遠くまで届かない。そんな夜だった。
三人の旅人が泊まることになった小屋は、村の外れにあった。
小さな暖炉と、木の椅子、粗い机、そして壁際に置かれたベッドがひとつ。
扉を閉めたガイウスは、部屋を見回してから静かに息を吐いた。
「……ベッド、ひとつか」
声は落ち着いていたが、言葉の終わりにわずかな困惑が混じっていた。
サタヌスはすでにベッドの横に立っていた。
毛布をつまみ上げ、質を確かめるように軽く引っ張る。
寒冷地の宿にしてはまともな布だと判断すると、あっさりと肩にかけた。
「いいじゃん」
軽い声だった。
「俺、床で寝るの慣れてるし」
ガイウスは苦笑する。
「いや、オレ椅子でいいよ。体格的にベッド壊しそうだし」
そのやり取りを聞きながら、サタヌスは毛布を体に巻いた。
「じゃあ俺、毛布だけもらうわ」
「ちょっと!!?」
部屋の空気が弾けた。
ヴィヌスが振り返る。白い髪が揺れ、紫の瞳が鋭く細くなる。彼女は一歩踏み出した。
「それって私、毛布なしで寝ろってこと!!?」
ヴィヌスはベッドへ歩み寄ると、勢いよくマットレスへ俯せに倒れ込んだ。
「寒冷地で毛布なし!?紳士教育どうなってるのよ!!」
サタヌスは毛布を肩に掛けたまま天井を見上げていた。
「紳士教育ってなに」
「お前は黙れ」
ガイウスの即答だった。
ヴィヌスはまだ俯せのままだ。
だが肩がわずかに動いている。怒っているのか、考えているのか分からない。
数秒後、彼女はゆっくり顔を上げた。
「じゃあこうしましょう」
声は妙に落ち着いていた。
「ベッドは私、毛布も私、あなた達は床」
ガイウスが眉をひそめる。
「暴君か」
小屋の壁は薄く、声はわずかに外へ漏れる。
隣家の窓から灯りが揺れている。
村人たちが小声で話していた。
「あの三人……また騒いでる」
「昼もだろ?雪かき道具壊してたぞ」
「旅人なのに嵐みたいな奴らだ」
別の声が低く笑った。
「嵐?いや……台風だよ」
「台風が三つ並んで歩いてる」
小屋の中ではまだ言い争いが続いていた。
「だから毛布を分ければいいだろ!」
「寒さ舐めないで!!」
「じゃあ全員ベッドで寝ればいいじゃん」
「絶対イヤ!!」
結局どうなったのかというと、三人の寝床は非常に奇妙な形に落ち着いた。
ガイウスは椅子に座ったまま眠っていた。
背もたれに体重を預け、長い脚を少し投げ出している。
肩には厚いマントが巻き付けられていた。
その姿はどこか犬に似ていた。
呼吸はゆっくりで、意外なほど深く眠っている。
ベッドの上ではヴィヌスが俯せになっていた。
最初は怒鳴り散らしていたが、疲れたのかそのまま動かなくなっている。
腕を枕の下に押し込み、顔を横に向けた姿勢で寝ていた。
だが毛布はない、結局サタヌスに奪われたままだった。
その代わりに掛けているのは、ガイウスの替えのマントだ。
旅の荷物から引っ張り出した予備のものだ。毛布よりは薄いが、寒さをしのぐには十分だった。
ただし眉間に皺を寄せたまま眠っている、怒ったまま寝落ちした子供のような顔だった。
暖炉のそばではサタヌスが床に転がっていた。
毛布は腹巻のように体に巻き付けている。
暖炉の熱が直撃する場所を選んで寝ているため、床で寝ているのに一番暖かい場所だった。
腕を頭の後ろに回し、足を少し組んだ状態で眠っている。完全に慣れた寝方だった。
顔は穏やかで、呼吸も深い。三人の中で間違いなく一番よく眠っている。
外では雪が降り続いている。
村の屋根の白はさらに厚くなり、道は完全に消えかけていた。
夜のノル・ユールは静かで、どこか眠っているように見える。
だが、その静寂の中でひとりの男が歩いていた。
白い息が夜に溶ける。
足音はほとんど雪に吸われていた。
カリストは静かに歩きながら、ふと小屋の方向を見た。
窓の灯りが見え、暖炉の影が揺れている。
彼は小さく笑った。
「台風トリオ……ですか」
声は低く、静かだった。
「嵐は、冬にも来るのですね」
ノル・ユールのどこかで、またひとつ雪が乱れていた。