——引っ越しの準備をしていた。
箱に服を詰め、棚から本を下ろす母の背中。
父の足音、物音、誰かの呼ぶ声。
玄関の外は、いつも通りの雪景色だった。
けれどその夜は、どこか違った。
「……どこに行くの?」
振り向くと、そこにいたのはヴィーシニャだった。
銀色の髪が、街灯の下で揺れている。
でも、その瞳は笑っていなかった。
「引っ越すんだ。お父さんの仕事が変わって……」
「……じゃあ、俺も一緒に行く」
「えっ?」
あのとき、何かが引っかかった。
声が低くなっていた。
どこか、以前とは違う響き。
前は、もっと高くて、澄んでいて、笑っていたのに。
「行っちゃだめ。春が来たら、あなた……」
「大丈夫だよ」
無表情のまま、ヴィーシニャは言った。
「俺はヴィヌスがいるなら、どこだって大丈夫だから……春なんて、来なければいい」
その手が、冷たかった。
氷みたいに。
いや、氷よりも硬く、割れそうで、そして——怖かった。
駆け寄る大人たち、引き離される腕。
ヴィーシニャは何も言わなかった。
何も叫ばなかった。
ただじっと、凍った目でこちらを見ていた。
そのとき彼の背は、もうヴィヌスの身長を超えていた。
「行かないで」
「……ずっと一緒にいたいのに」
「なんで、“子どもじゃなくなったら”ダメなの?」
——そして、目が覚めた。
ヴィヌスは静かにまばたきをした。
窓の外はまだ、白。
けれど心の中では、あの目が、またこちらを見ていた。
目覚めたとき、世界はまだ白かった。
「ジェネラル・フロスト……」
つぶやいた瞬間、昨夜の夢が、脳裏をよぎる。
ヴィーシニャの、あの目。手。声。
朝の食卓に、ほのかな甘い香りが漂っていた。
薄く焼かれた小麦のクレープ。
ブリヌイだった。
サワークリームとベリーのジャムが添えられ、湯気が立ちのぼる。
「こっちのは蜂蜜入り。こっちはサワークリーム。ほら、選びな」
オルガおばあちゃんが大皿をテーブルに置くと、サタヌスが真っ先に手を伸ばす。
「……これ、うま……っ」
「ちょっと!こっちも回して!」
「お前もう3枚目だろ!!」
喧嘩のようなやりとりを横目に、ヴィヌスはブリヌイを一口、静かに噛みしめた。
甘さが控えめで、どこか懐かしい。
窓の外を見やると、吹雪はようやく収まりはじめていた。
遠くの屋根がぼんやりと姿を現し、空がわずかに青みを帯びている。
「……出られそうね」
ヴィヌスは立ち上がった。
そのまま、宿の裏手にある広場へ向かう。
そこには、昨日の女の子とスニョーカの姿があった。
雪玉を作っているふたり。
笑い声が舞い、風に溶けて消えていく。
「ねえ……最近ね、スニョーカ、ずっと“もっと遊ぼう”って言うの」
「遊んであげたいけど、寒い日はあんまり長くいられないし……
でも、スニョーカはずっと外で待ってるの。雪の中でも」
ヴィヌスは言葉を失った。
その様子は——かつての自分と、あの夜のヴィーシニャそのものだった。
(この子……引っ越す前の、私だわ)
掌の中の万年氷が、また小さく鳴った。
ヴィヌスは、自分の過去と向き合うように、ふたりを見つめていた。
「ジャックはね、とても寂しがり屋なんだよ」
子どもの頃、誰かがそう教えてくれた。
「だから、仲良くなりすぎちゃダメなの」
「うんと仲良くなると、“一緒に行こう”って誘ってくるから」
「ついて行ったら、もう……帰ってこれないかもしれない」
だから、ジャックと遊ぶのはほんの数回。
年に一度、二度、初雪の頃だけ。
——それが、この地に生まれた子どもたちに教えられる“掟”だった。
「遊んでくれてありがとねって、ちゃんとお別れを言うのよ」
「そして、春が来る前に、人間の友達と遊びなさい。
……ジャックは、ずっと一緒にはいられないから」
けれど、スニョーカは掟を、まだ知らないのだろうか。
もしくは知っていて、無視しているのか。
ヴィヌスの胸に、冷たい記憶がまたひとつ沈んだ。
優しかった、でも確かに“魔物だった”ジャックの手の冷たさ。
そして、別れられなかったあの夜のこと。
「ヴィヌスお姉ちゃん……お願いがあるの」
そう言ったのは、スニョーカの友達の女の子だった。
手には、丸めかけの雪玉。けれどその目は、いつになく真剣だった。
「スニョーカがね……お母さんに“引っ越さないで”って言ってって」
ヴィヌスは一瞬、言葉を失った。
「……どういうこと?」
「なんかね、“このままだと、もうすぐいなくなっちゃう”って」
「“だから、今のうちに、止めないと”って……すごく、悲しそうで……でも怒ってるみたいでもあって……」
女の子は困ったようにうつむく。
「最近、ずっと“もっと遊ぼう”って言ってくるの。
朝も、昼も、夕方も……寒いのに、ずっと外で待ってる」
視線を向ければ、スニョーカは少し離れた雪の丘に立っていた。
風も雪も気にせず、ただ真っ直ぐにこちらを見ている。
——まるでヴィーシニャのように。
「……引き止めようとしてる」
ヴィヌスの胸に、冷たいものが走る。
彼は寂しがり屋だった。
でも、それはもう、魔物としての“執着”だった。
そして今、スニョーカが。
(この子は、もう“境界線”を越えようとしてる)
ヴィヌスはゆっくりと歩き、スニョーカの前に立った。
雪のなかで、少年の姿は少しだけ背が伸びたように見えた。
まだ幼さはある。けれど、どこか、大人びた目をしていた。
その目が、怖かった。
人間の子がするには、まっすぐすぎて、寂しすぎて。
「スニョーカ」
呼びかけた声に、スニョーカは少し笑った。
「ねえ、ヴィヌスお姉ちゃんもこっちに来てよ」
その声が、変わり始めていたヴィーシニャの声に重なった気がした。
「……もう、引っ越すことは決まってるのよ」
ヴィヌスは、ゆっくりとした声でそう告げた。
スニョーカの笑みが、ふっと消える。
「……え?」
「あなたの“お友達”は、お母さんと一緒に、ここを離れるの。
遠くへ、春の方へ行くわ」
「でも……まだ、一緒に遊べるのに……」
スニョーカの声が震える。
手の中で丸めていた雪玉が、ぽとりと落ちた。
「お願い、ヴィヌスお姉ちゃん。止めてよ」
「……勇者なんでしょ? 勇者は、奇跡を起こせるんでしょ?」
ヴィヌスの心臓が、きゅっと締めつけられた。
言葉が出なかった。
代わりに——ゆっくりと、首を横に振った。
「……奇跡は、何にでも使えるものじゃないの」
スニョーカの顔が、静かに崩れていく。
その幼い輪郭に、なぜか一瞬、ヴィーシニャの面影が重なった。
「うそだ……っうそだよ……! だって、君は……あの時……!」
ヴィヌスは思わず、そっとスニョーカの肩に手を置いた。
その手は、あの日とは違って、しっかりとあたたかかった。
「……もう、繰り返したくない」
雪が風に舞う。
二人の間に、静かな白が降り積もっていく。
「スニョーカ、また遊ぼうね!」
女の子は、明るくそう言った。
ヴィヌスに手を引かれながら、振り返って小さく手を振る。
「新しいおうち、あったかいんだって」
「桜っていう花が咲くの、春にしか咲かないんだよ!」
その言葉を聞いたとたん——スニョーカの中で、何かが崩れた。
桜。
春にしか咲かない花。
あの時、ヴィーシニャが憧れていた、儚い季節の象徴。
でも、自分には絶対に届かない花。
少女の笑顔は、どこまでも無垢で、残酷だった。
まるで、自分が“それを見られない側の存在”であることを、あえて教えつけるように。
ヴィヌスたちの姿が角を曲がり、見えなくなったとき。
スニョーカは、ぽつんと雪の中に取り残された。
胸の奥が冷たいまま、何も言えず、何も考えられずにいた。
その肩に、そっと手が置かれたのは——まるで風のように自然なことだった。
「置いていかれるのは、痛いよな」
「ひとりぼっちは、嫌だよな」
白い男-カリストは、ゆっくりとスニョーカの頭を撫でた。
その動きは驚くほど優しくて、指先は冷たいのに、どこか安心する温度だった。
スニョーカの瞳に、じわっと涙が浮かぶ。
「……うん……」
けれど——その間、カリストの目は、決してスニョーカを見ていなかった。
視線はずっと、ヴィヌスが去った通りの方を見ている。
彼女の背中が見えなくなった方角を、じっと、まっすぐに。
「……あの子は、君にはもう目を向けてくれない」
囁く声に、スニョーカの肩がぴくりと揺れた。
「でも、大丈夫。君が“ずっとここにいれば”、きっと、戻ってくる。
その時は、ちゃんと手を繋げるようにしておこう」
カリストはゆっくりと微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこまでも冷たく、底が見えなかった。
撫でる手は優しい。
けれど、その視線は、別の獲物だけを見ていた。
ヴィヌスを手に入れるために、スニョーカを壊す準備は、もう始まっていた。
「ねえ……どこ、行くの……?」
スニョーカの問いかけに、男はただ微笑んでみせた。
凍てついた風の中、軍帽を静かに脱ぎ、胸元に抱える。
そして、もう片方の手を——優しく、まっすぐに差し出した。
「こっちだよ。怖くない。ついておいで」
その声は、とても穏やかだった。
本当に優しく、あたたかくて、雪のなかにぽつんと灯った火のようだった。
このまま行けば、ずっと一緒にいられる。
もう誰にも置いていかれない。
——春も、桜も、見えなくてもいい。
ただ、ここにいれば。
「……ついていく……」
その言葉が漏れた瞬間、男の手がすっと指を絡めてきた。
冷たいけれど、妙に落ち着く感触だった。
それは、もう人の手ではなかったかもしれない。
軍帽を手にしたままのその男は、ゆっくりと笑って言った。
「そう、それでいい。もう寂しくないね」
そして、彼はスニョーカの小さな手を引いて——白の中へと、消えていった。
雪の森の奥、風は止み、枝の音さえ凍りついたように静かだった。
「寒くない? 指、冷たくないかい?」
手袋を取った自分の指で、スニョーカの指先をひとつずつ包む。
まるでガラス細工でも扱うように、優しく、丁寧に。
「雪で真っ赤だ……ふふ、かわいそうに」
スニョーカは、戸惑いながらも微かに笑った。
その笑顔を見て、カリストの表情が一瞬だけ緩む。
「君みたいな子が、ユピテル様のもとにいたら、きっと……」
「ユピテル様って……誰?」
カリストの目が細くなる。
優しげな顔のまま、なぜか一切笑っていなかった。
「とても、美しいお方だよ。
この世界で、ただひとり……私が“選ばれた”理由」
そう言いながら、彼はスニョーカの髪を指ですっとすくう。
まるで大事な人形に触れるように。
「……君も、悪くない。とても、いい素質を持ってる」
カリストはそう言って、スニョーカの髪を撫で続けていた。
けれど、その動きがふと止まる。
そして、ぽつりと、別の名前を口にした。
「でも……あの御方は、”あの女”ばかり気にかけていらっしゃる」
声のトーンが変わった。
明らかに、どこかねじれた感情が滲みはじめる。
「……でもいいさ、君がいる。君はあの女とは違う。
ちゃんとこちらを見てくれる」
まるで独り言のように、けれどどこまでも柔らかく、囁くように。
スニョーカは何も言えなかった。
ただ、自分が“何かに取り込まれようとしている”感覚だけが、じわじわと背中を這っていた。