雪明かりの照り返しが強い日は、森の境界が曖昧になる。
白と影の境目がぼやけて、人の形も遠目には区別がつかない。
その“曖昧さ”を好む連中がいる。
ジャックフロスト、冬の魔物。
春を知らない子どもたち。
彼らは今日も、雪を踏まずに滑るように森を渡っていた。
声も足跡も残さない。
ただ、ひそひそと雪煙だけが揺れる。
「ねぇ、“お兄ちゃん”が言ってた女の子、探さなきゃだよね?」
氷菓みたいに透き通った声。
少し幼く、少し人形めいた響き。
「うん。色が黒くて、髪が白い子……って言ってたよ」
もう一体が答える。
その声音は淡々としているのに、どこか楽しげだった。
ジャックフロストにとって“探し物”は遊びに近い。
だが、探し当てた後に何が起きるかを知っている者は少なかった。
「ねぇ、どんな子?」
「“お兄ちゃん”はね……こう言ってたんだ」
桜色の記憶が、雪の奥で微かに光る。
彼らの“お兄ちゃん”が告げた特徴。
肌が黒い、髪が白い、優しくて、どこか寂しい笑い方をする。
ヴィヌスの面影。
けれどジャックフロストは大雑把だ。
匂いも体温も、みな“冬に近い者”として混ざってしまう。
「じゃあ……あの子かな?」
ひとりが、森の入口を指さした。
雪の向こうに小さな影。
スニョーカが気がかりで家を飛び出し、コダの森の入口まで来てしまった少女。
ナージャだ。
冬の光に照らされた髪は、ほぼ白に見える淡金色。
外で遊び続けた雪焼けの肌は、たしかに“色が黒い”。
「うん。あの子だよ、きっとあの子だ」
ジャックフロストたちは、迷いなく頷いた。
「“お兄ちゃん”の言ってたとおりだもん」
「間違いないよね」
彼らの世界には、遺伝や日焼けや民族といった概念も。
微妙な色の違いを識別する人間の感覚も存在しない。
“雪国で黒く見えるもの”
“雪の白に近い色の髪”
それで十分だった。
ナージャの足元で、雪がふわりと揺れた。
風は吹いていない。
でも、白い影がゆっくりと彼女の背後に重なる。
「ねぇ、遊ぼう?」
声は甘く、やさしく、底がない。
ナージャは一瞬だけ振り向いたが、まだ気づいていなかった。
これは友達の呼ぶ声ではない。
冬そのものに呼ばれている声だと。
「行こ?お兄ちゃんのところに、連れてってあげる」
手が伸びる。
雪より冷たく、そして雪より傷つきやすい手。
ナージャは困惑して一歩下がる。
でも遅かった。
ジャックフロストたちの目には、もう“答え”が映っている。
「見つけたよ、ヴィヌス……じゃなかった。
でも、この子なら……きっと代わりになるよね?」
雪が舞う。
ナージャが呑み込まれるのに、時間はかからなかった。
こうして、“間違えられた子ども”がひとり、冬にさらわれていった。
夜のノル・ユールは、またひとつ“足りない音”を抱えていた。
小さな、けれど決定的に欠けた音。
――子どもの気配が一つ、消えていた。
ナージャがいないと気づいた瞬間、宿の前は騒然となった。
泣き叫ぶ母親。
慌てて駆けつける大人たち。
彼らの視線は、迷いなくヴィヌスへ向いた。
「やっぱり……ダークエルフは……」
「隠蔽魔法で隠したんじゃ……?」
「前にも厄を呼んだじゃない……?」
言葉は刺のように飛び、胸に突き刺さる。
ヴィヌスは声を荒げない。
ただ、横に視線を逸らした。
その仕草が逆に“肯定”のように見えてしまうほどに、村人たちは怯えていた。
オルガばあちゃんが慌てて三勇者を室内へ押し込む。
「いいかい、出るときは裏口からね。表へは絶対出ちゃダメだよ」
広間のテーブルには、湯気の立つ紅茶とクッキー。
そして、大雑把に広げられたノル・ユールの地図。
さっきの喧騒とは別世界のように暖かいが、その温度が逆に胸を締めつけた。
ガイウスとサタヌスは椅子に腰かけ、真面目な表情で推理を始めようとしていた。
ところにと勢いよく扉が開いた。
「待たせたわね」
どこから持ってきたのか、完全ホームズ衣装のヴィヌスだった。
トレンチコートの裾を翻し、鹿撃ち帽をキュッと直し、パイプをくわえて颯爽と登場する。
紅茶の湯気が照らし出すその姿は、やたらキマっていた。
「……で、ヴィヌス。なんで推理するのにトレンチコートなんだ? しかも鹿撃ち帽」
「いやてーか、そのパイプ何!? 煙出てねーし! ただの棒だろそれ!」
ヴィヌスは優雅に席へ進むと、パイプをカチャンとテーブルに置き。
芝居がかった動作で腰掛けた。
「私は“形から入る”女優なの。舞台を意識するのは当然でしょ?」
鹿撃ち帽の影から覗く紫の瞳が、鋭く光る。
「向かいの家のナージャちゃんが攫われた件ね」
ガイウスとサタヌスは顔を見合わせ、囁く。
「……やべぇ、完全に役に入り込んでる」
地図には、ナージャの足跡、通った道、目撃情報。
そして、村人たちが残した“偏見”の断片。
被害者:向かいに住んでいた少女ナージャ。
証言:肌の黒い子が狙われる → ヴィヌスの特徴と一致。
村人:ダークエルフの隠蔽魔法を疑い、ヴィヌスを白い目で見る。
ヴィヌスはわざとらしくパイプをくわえ直し、脚を組んだ。
「一見すれば、疑いは私へ向く。でもそれは大いなるミスリードよ」
サタヌスが半眼でぼそっと言う。
「……つまりアレか。日焼けしたガキが好きなのか? その“お兄ちゃん”は。
ってことは、次攫われんの俺じゃん」
ヴィヌスは、深刻な話を完全に台無しにするタイミングで言った。
「初歩的な話をしよう、友よ」
鹿撃ち帽のつばを軽く押さえ、トレンチコートの襟を立て、煙の出ないパイプをくわえるヴィヌス。
椅子に浅く腰掛け、顎に指を添える――完璧なシャーロック・ハンド。紫の瞳だけがやたらと輝いている。
対面のサタヌスは椅子をガタッと鳴らし、身を乗り出した。
「ワトソンじゃねぇよ!!」
机の上のクッキー皿がカタリと揺れる。
怒鳴った勢いで掴みかけたクッキーが一枚、皿の端で危うく落ちかける。
ヴィヌスはまったく動じない。
「落ち着きたまえ、ワトソン君。感情は推理の敵よ」
「だからワトソンじゃねぇっつってんだろ!!」
その横で、ガイウスは紅茶の湯気越しに二人を眺めていた。
英国生まれ英国育ち、霧と紅茶と推理小説の国の男。
なのに今、自分のポジションがまるで見当たらない。
クッキーを一枚、静かに齧る。
サクッと軽い音がして、バターの甘みが広がる。
小声で、ほとんど独り言のように呟いた。
「……なぁ。俺、ワトソンじゃないならどこポジなん……?」
誰にも聞こえないはずの声だったが、サタヌスの耳は妙にいい。
「知らねぇよ!てか英国人だろお前!?お前が一番ワトソン側だろ!!」
「いやでも、ワトソン医者だし……俺剣士だし……」
真面目に悩み始めるガイウス。
推理よりもポジション取りに迷っている。
ヴィヌスはわざとらしく溜め息をつき、パイプを指でくるりと回した。
「安心なさい、あなたは“常識枠”よ」
「それ主人公じゃなくて観客側の立ち位置では?」
「常識人がいないと物語は崩壊するの。感謝しなさい」
納得いかない顔で、ガイウスはもう一枚クッキーを齧る。
勇者は強い。だが今は、完全にかわいい。
そのやり取りを、暖炉の向こうから見守る影がある。
オルガばあちゃんは湯気立つカップを両手で包みながら、穏やかに笑った。
「ヴィヌスは昔からお芝居好きだったねぇ……」
暖炉がぱちんと弾ける。
外では氷霧が流れ、長い冬の気配が街を包んでいる。
けれどこの部屋だけは、名探偵ごっこと、抗議と、迷子の英国勇者で満たされていた。
だが、すぐに表情を引き締めた。
冗談を挟んでも、ナージャは依然行方不明。
一刻も早く真相に近づかなくてはならない。
ヴィヌスは、指先で地図の一点をトントンと叩いた。
「まず確認すべきは、攫われた子の条件。
“肌が黒くて、髪が白い子”で村人はダークエルフを連想する。けれど――」
紫の瞳が鋭く細くなる。
「ジャックフロストの認識では、“雪焼け”も“ダークエルフ”も同じなのよ」
「……つまり」
「“日焼けした子ども”は、全部“条件を満たす”ことになる」
「……それ、じゃあ誰でも攫われるだろ……」
ヴィヌスは頷く。
「ええ。だからナージャちゃんが被害に遭った。
ただそれだけ。そこに種族の問題なんて一つもないわ」
窓の外では、柵の中でグズルがのそのそと雪を踏みしめていた。
丸い背にうっすら積もった粉雪を気にする様子もなく。
白い息をふう、と吐いては首を振る。極寒の蒼氷領では牛も羊も育たない。
だから人は魔物を家畜にし、その性質を知り尽くして生き延びてきた。
暖炉の火がぱちりと爆ぜ、テーブルの地図の端が微かに震えた。
紅茶の湯気が上へ逃げ、ヴィヌスの鹿撃ち帽の影を揺らす。
彼女はパイプを軽くくゆらす仕草をし、芝居がかった間を置いてから言った。
「オーゼは家畜は育たない、採れる野菜もかぎられる」
「だからこの地方では――魔物の性質を掴むことが何より大事なの」
窓の外でグズルが柵に頬を擦りつけ、満足げに目を細める。
議論の熱とは対照的な、のんきな動きが背景に揺れ続ける。
「そして――話を戻すけど。ジャック・フロストに“兄弟”という概念は、そもそも存在しないわ」
ガイウスは眉をひそめた。英国人として、語の定義にはうるさい。
「兄弟の概念がない? じゃあなんであいつら“お兄ちゃん”なんて呼んでるんだ?」
ヴィヌスはコートの襟を立て、指先で帽子のつばを整える。役者の呼吸。暖炉の光が紫の瞳に映る。
「……そもそも、あの子たちは雪解けと共に消えるはずの存在」
「けれど“越冬したジャックは大人になる”。そう、昔グランマから聞いたことがあるの」
窓の外で、グズルが雪に腹を預け、満足げに目を閉じる。
白い息がもくもくと立ち上り、氷霧に溶ける。
牧歌的な光景と、推理の緊張感が奇妙にちぐはぐで、サタヌスは思わずぼやいた。
「……なんか真面目に聞いてんのに、グズルが全部台無しにしてんだけど」
ヴィヌスは微笑を崩さない。
「冬を生き延びた個体は“役割”を得る」
「“お兄ちゃん”は、血縁の比喩じゃない。“先に越えた者”という意味よ」
サタヌスが腕を組み、椅子の背に寄りかかる。
「なぁ。その“大人のジャック”ってどうなんの?」
暖炉が一段と赤く燃え、部屋の温度がわずかに上がる。だが言葉は冷たい。
「――ジェネラル・フロスト。通称、冬将軍。氷系の悪魔でも最上位種」
「その吐息は空気を氷点下へ変え、手を翳せば川を凍らせる」
「一度怒らせれば極寒地獄をもたらす、と言われてるわ」
窓の外でグズルが息を白く吐き、のそのそと歩く。その無垢な姿が、かえって台詞の重みを際立たせる。
「冬将軍になったら心まで凍りついて……二度と人間と遊んでくれなくなるのよ」
ガイウスは黙って腕を組み、低く呟く。
「……アイツじゃないか? その冬将軍」
ヴィヌスも、サタヌスも、同じ影を思い浮かべていた。
凍てつく視線、過剰なまでの保護、甘ったるい声の奥に潜む硬質な氷。
越冬した怪異。役割を得た存在。
言葉にしなくてもわかる。三人は同時に頷く。
「――アイツだ」
窓の向こうで、グズルが一度だけこちらを見た気がした。
のんきな目の奥に、冬の長さが映っている。