クードス編・1章-港湾都市へようこそ - 4/6

玉藻の影が王宮の薄暗い回廊を走り抜けていく。
(……バレていた。あの皇帝、ただの傲慢ではない……)
玉藻は息を切らし、裾を掴む。背後からは追手の足音と犬の吠え声。
「ここまでか……いいえ、まだよ。——私は“ただのスパイ”で終わる気はない!」
夜の市場裏路地。
雨に煙る軒先で、ハオが唐辛子の袋をぶら下げて雨宿りをしていた。

ずぶ濡れの玉藻が、怒りと誇りを湛えた瞳で姿を現す。
「……その顔、見覚えがあるな。貴様、近ごろ評判の飯屋の者だな?」
ハオは飄々と、雨宿り中の野良猫の頭を撫でながら言った。
「はいはい、ただの飯屋ネ。唐辛子が安かったヨ〜。……お狐サマも、腹減った?」
「誰に向かって口をきいておる!?我は魔王軍の幹部、九尾玉藻なり!」
「力こそが全て——ルナ様の御為に、すべては滅びの理に帰すべきなのだ!」
ハオは片眉を上げて、やや皮肉めいた微笑みを返す。
「信じすぎるのも、また煩悩ネ。煩悩は満腹にはならないヨ。南無南無」
玉藻は顔を真っ赤にし、尻尾をブワッと膨らませる。
「小癪な……!一尾の小狐が、我に説教など——!」
ハオは小声でぽつり。

「これでも大人なんデスケド……」
玉藻は激情を抑えきれず、目を逸らす。
「……ふん、雑音には耳を貸さん。我が道を往くのみだ!」
「信じるも良し、疑うもまた良し。どのみち、世界は腹が減るネ。じゃ、また会う日まで」
ハオは軽やかに唐辛子の袋を持ち直し、夜の雨の中へと消えていった。

玉藻はその後ろ姿を睨みつけていたが、やがて低く呟いた。
「……愚か者が」
遠くで雷鳴が轟く。
二人の間に交わることのない価値観は、雨音に溶けて消えていく。
それでも、ハオの歩くその先には、まだ見ぬ未来が待っているのだった。

玉藻は天狐皇に正体を看破され、その場では何とか逃げのびたものの。
心には苛立ちと羞恥が渦巻いていた。
(あの男に、私が見抜かれるなど——許せぬ。
このままでは、顔向けできぬ……ルナ様に、この敗北を報告などできるものか!)

自分の“矮小なプライド”が、冷静な撤退や作戦の練り直しを許さなかった。
もはや目的も失い、ただ王宮や城下を暴走する玉藻。
ルナへの忠誠と天狐皇への憎悪、そのどちらにも縛られ、理性を失っていく。

やがて玉藻の行く手に立ちふさがったのは、フーロンの“妖狐”たち。
それは天狐皇の側近や、下級の「一尾の子狐」たちだった。
かつて玉藻が見下し「未熟者」と蔑んだ彼らに、今や力で押さえ込まれる側となる。
「貴様ごときが、我ら皇の庭に足を踏み入れることなど、千年早い」
——玉藻は叫ぶ。
「貴様ら下等な獣が、私に楯突くか!」
しかし、その声は虚しく響くだけ。
王城近くの裏路地で、怒りに任せて魔力を爆発させる。
その気配を察知し、影の中から何匹かの若い妖狐たちが様子をうかがっていた。

「あれ……九尾じゃん……やべぇ、勝てる相手じゃねぇよ……」
一尾の白い子狐が、耳を伏せて半泣きの声を漏らす。
「何言ってんだよ、ビビってんのか?でもまぁ、確かに正面からじゃムリだわ」
もう一匹、ちょっと太めの茶色狐が、尻尾を膨らませながら答える。

「じゃあさ、弱らせればいけるって話じゃね?
皇様が見抜いて怒らせたんだろ? 今ならたぶん本気で隙あるって!」
「……でも、こっち死んだらシャレになんねぇよ」
「大丈夫だって!ウチらは群れだろ?群れで連携して、あっちが倒れた隙に一気にいく。
正面からじゃなくて横っ面、足、尻尾、噛みつきまくれって!」
「……やるしかねぇか」
狐たちは、恐怖と興奮を入り混ぜ、夜の雨に紛れて玉藻を取り囲み始める。
「九尾だろうが何だろうが、ここは“皇様の庭”だって教えてやんぞ……!」
月明かりに浮かぶ子狐たちの影は、ひときわ逞しく、そして少しだけ震えていた。

玉藻の周囲、雨に濡れた石畳へ一尾たちの影が散る。
「……霊力じゃ勝てるわけねぇ!正面から当たんな!」
「尻尾切ればいいんだろ、あいつ、尻尾で力増幅してるの見た!」
白い子狐が手早く宝貝(パオペイ)を取り出す。
それは古ぼけた輪っか型の護符だったが、指で弾くと「刃」に変形して鮮やかな青い光を纏う。

「よし、合図で突っ込むぞ!」
「三匹で分散! 耳、尾、足——どっか傷つければ動き止まる!」
玉藻は彼らの気配を感じて振り返る。
「一尾風情が、この私に逆らうか!」
九尾の怒声とともに、膨大な霊力が炸裂する。
一瞬、空気そのものが重くなり、雨粒が逆巻いた。
だが、一尾たちは恐怖を押し殺し、獣のように動いた。
一匹が正面から飛びかかり、その耳が九尾の爪で容赦なく切り裂かれる!
だが、流れる血に臆するどころか、逆に怒りが爆発する。

「なめんなよ……!」
負傷した狐は玉藻の懐に潜り込み、牙を剥いて急所に食らいつく。
残る二匹が尻尾に群がる。
「今だ、やれ!!」
輪っかの宝貝が光り、九尾のうち一本が鋭く切り裂かれる。
「きゃっ……!」
玉藻は一瞬、バランスを崩す。その隙を逃さず。
全員が連携して頭、足、尻尾へと一斉に飛びかかる。

九尾の霊力は膨大だが、群れの知恵と命懸けの本気に。
わずかな綻びが生まれる。
「もう一撃! 倒せる!」
最後の一尾が、片耳を失った怒りと執念で、玉藻の動きの隙を読み切る。
その牙が、九尾の本体に深く突き刺さる。
玉藻の叫びが夜に溶け、やがて力尽きた九尾は膝をついた。
雨音だけが静かに響く中、若い妖狐たちの息遣いと、戦いの余韻だけが残った。

数の力、土地の力、そして“覚悟”の違い。
彼女はあっけなく敗北し、路地裏にうずくまるしかなかった。
その最後の瞬間、玉藻はぼんやりと天狐皇の言葉を思い出す。

「悟る気などない獣に、誰が心など奪われるか。——俗物が」
どれだけ強い力を持っても、心が空虚なままでは、何者にもなれない。
玉藻は敗北の雨に打たれながら、その身を闇へと沈めていった。
その末路は、まさに自らが蔑み続けた“悟らぬ獣”そのものだった。

玉藻は“矮小なプライド”に呪われ。
「格下」と蔑んだはずの一尾の子狐たちに知恵と連携で敗れ。
“悟らぬ獣”としてフーロンの路地に沈んだ。
——彼女の目の前で、信念も誇りも、自分より遥かに小さな存在に打ち砕かれていく。

一方、ハオはどこまでも飄々と「信じすぎるのも煩悩」と言いながら唐辛子を選び。
善悪や勝ち負けにこだわらず、“今ここ”の幸せと飯を抱えて帰っていく。
——小さく、柔らかく、でも折れない芯で「自分の道」を選び続ける。

皮肉にも、自分を“大きな存在”と信じて傲慢になった者は小さな民に倒され。
“小さくても満ち足りて生きる者”は何者にもならずに道を歩き続ける。
玉藻の末路は「悟らぬ獣」として、ハオは「盲信せず、ただ腹を満たすもの」として。
——まるでフーロンという国そのものの“価値観の選別”を見せつけていた。