港に近づくにつれ、潮風はオリーブと魚介の香りを運び、遠くからは鐘楼の澄んだ音色が響く。
碧く澄んだ水路が街の大動脈のように四方へ枝分かれし。
両岸には色とりどりの外壁をもつ建物が水面に映り込んで揺れている。
洗濯物が風に揺れる裏路地からは、陽気なカンツォーネが流れ。
赤と白の縞シャツの船頭たちがゴンドラを操りながら笑い声を交わす。
石造りの桟橋には旅人や地元の婦人たちが集い。
バスケットいっぱいのトマトやパンを受け渡している。
この街には、馬の蹄も車輪の音もない。あるのは水のきらめきと、人々のざわめきと。
オールが水面を切る柔らかな音だけだった。
「ほら、あれがクードスよ」
ヴィヌスが日傘をくるりと回しながら、港の先を指さした。
足元は年季の入った石畳。潮風が頬を撫で、遠くからカンツォーネのような歌声が聞こえてくる。
視界の向こうに広がるのは、陽光を反射してきらめく水路。
その上を、黒塗りのゴンドラがゆったりと行き交っていた。
左右の岸には色とりどりの建物が並び、外壁や窓辺の花々が水面に揺れて映り込んでいる。
桟橋に降り立ったガイウスは、思わず口を開けたまま立ち尽くした。
「車がない!?」
隣でサタヌスが呆れ顔を隠さず、あたりを見回す。
「いや走れねーだろ。水路だらけじゃんこの街!?てか全部ゴンドラかよ……これ渋滞しねぇの?」
ゴンドラを操る船頭たちの陽気な笑い声が水面を渡り。
石造りの橋の下では子供たちが魚を追ってはしゃいでいる。
馬の蹄音も車輪の軋みもなく、あるのは水を切るオールの音と、人々のざわめきだけだった。
ヴィヌスは涼しい顔で日傘を軽く傾け、二人を振り返った。
「これがクードスよ。初訪はだいたいそういう顔をするわ。
港湾都市は水上交通が主流。あんたたちもまずは船の乗り方からね」
ガイウスは半ば呆れ、半ば感心しながらため息をつく。
「ゴンドラ講習から始まるのかよ……RPGの町イベント感すげぇ」
サタヌスは橋の上で揺れる船を見て、ニヤリと口角を上げた。
「絶対誰か落ちるやつだな、これ」
ヴィヌスの唇が小さく弧を描く。
「パスタと水運、それがクードスよ。慣れておきなさい」
石畳の桟橋には、黒く艶やかな船体のゴンドラがずらりと並んでいた。
漆のような光沢を湛え、船首には町の紋章を象った金の飾りが輝いている。
船と船の間には、さざ波が小さく打ち寄せ、オールの水を掻く音が心地よいリズムを刻んでいた。
勇者一行は、桟橋の端で足を止める。
水面が近く、わずかな揺れが石畳を踏みしめた足にも伝わってくる。
「おう、初めてかい?」
陽気な声に顔を上げると、ひとりの船頭が笑顔でこちらを見ていた。
赤と白の縞シャツに麦わら帽子、日に焼けた腕が逞しい。
「観光なら景色のいいコース回すけど、どうする?」
ガイウスは戸惑い気味に眉を寄せる。
「えっと……車とか馬車は……?」
船頭は、オールをくるりと回しながら豪快に笑った。
「ここは水の都だぜ。陸路なんてすぐ渋滞しちまうし、不安定でよ。馬だってクタクタになる」
彼は視線を水路の奥へと向ける。
そこでは荷物を満載したゴンドラが、まっすぐに町の中心へと滑っていく。
「水路なら広いし、直線で抜けられる。
町全体の“血管”みたいなもんよ。荷物も人も、ぜーんぶゴンドラさ!」
サタヌスは興味津々といった顔で身を乗り出した。
「馬よりゴンドラのがスタミナあるってことか? でも雨とか洪水は大丈夫なの?」
船頭は得意げに頷く。
「雨の日は運河の水門閉めて調節すんのさ。洪水対策もバッチリ。
なぁに、昔から“水と生きる”のがクードス流よ」
ヴィヌスは感心したふりをしながら、唇の端を上げた。
「毎回説明してるのね、おじさん。初訪の顔、もう見飽きたでしょ?」
船頭は腹の底から笑い声を響かせた。
「だが面白いだろ? 旅人の“なんで車ねぇんだ!”って顔、年に何度も見れるんだ!」
黒塗りのゴンドラが、ゆるやかな水面を滑っていく。
両岸の煉瓦造りの家々は窓辺に花を飾り、色彩が水面に揺れて映っていた。
頭上をカモメが旋回し、その鳴き声が鐘楼の音と混じって響く。
ヴィヌスはというと、片手に白い日傘を差し。
もう片方の手を軽く膝に添えて優雅に腰掛けていた。
アルルカンシアターでは巡業の定番だったとあって、水の都の景色にも微動だにせず。
むしろ絵画の一部のように溶け込んでいる。
対してサタヌスは、初めての光景に腹を抱えて爆笑していた。
「マジで水の都じゃん!!」
言いながら、裸足の足先で水面を軽く蹴り、水しぶきを飛ばしては面白がる。
オールを漕ぐ船頭が苦笑いしながらも、注意する様子はない。
一方、ガイウスだけは別世界の人間のように固まっていた。
腰に手をやり、剣の柄を握りしめたまま、視線は落ち着きなく水面や揺れる船縁を追う。
眉間には深い皺、口元は引き結ばれ明らかに楽しむ余裕などない。
その様子は英雄ではなく、大都市の祭りに放り込まれた陰気な青年そのものであった。
そんな彼の表情を一瞥し、船頭はふっと口元を緩める。
「おっと、その顔は……」と、オールを軽く操りながら言った。
「月に一度は見るんだよな、あんなみたいなタイプの観光客は」
「こいつみたいなの?」とサタヌスが笑いながら振り向く。
「ああ。揺れる船ときらびやかな景色の中で、一人だけ完全に構えて固まっちまうタイプだ。
剣士とか、元軍人に多い。最初のうちは“ここで何が起こるかわからない”って顔をするんだ」
船頭は楽しげに片目をつむる。
「だが大丈夫だ、ここじゃ敵は出ねぇし、せいぜいカモメにパン盗られるくらいさ」
ガイウスは「……別に怖がってるわけじゃない」と小声で返したが。
その肩の強張りは、少なくとも運河の中央を抜けるまでは解けなかった。
ゴンドラはゆるやかに運河を進む。
左右の建物が水面に影を落とし、時折その間から差し込む陽光がきらめきを生む。
漕ぎ手のオールが水を掻くたび、船底の下で小さな波が立ち、涼しい風が頬を撫でた。
左手に視線をやると、ひときわ華やかな建物が目に入る。
黄金色の看板に大きく刻まれた文字と、バルコニーから溢れる音楽と笑い声。
「ほい、ここがカジノ・デル・マーレだ」
船頭は誇らしげに胸を張った。
「金持ちも運無しも、みんな集まるクードス名物の大カジノだ」
「カジノ!?」
サタヌスの瞳が一瞬で輝く。
「ヤベェ、絶対行く!……で、あっちは?」
右手には広場が開けていた。白い石畳が陽光を反射し、露店と色とりどりの旗が並ぶ。
その中央では音楽に合わせて数人が踊っているのが見える。
「ピアッツァ・ディ・ヴェント――風の広場だよ」
船頭が説明する。
「祭りやダンスはここでやる。運が良けりゃ“兄貴”のダンスも見られるさ」
ふいに、香ばしい匂いが潮風に乗って流れてきた。
「ピザ?」
サタヌスは鼻をひくつかせ、興奮気味に身を乗り出す。
「ピザって食えんの?ほら、アルルカンのたっけぇ店で食えるやつ!」
しかし船頭は急に真顔になり、声を潜めた。
「おっと、サンタ・トリノ広場傍のレストランはやめときな。観光客向けってだけで価格が二倍だ」
オールを操りながら片目をつむる。
「手頃にピザ食うなら、トラットリア・ジュリアーナだ。あそこのピザは“本物”だぜ」
「ピザって高いもんじゃねぇのか?」
ガイウスが不思議そうに首を傾げる。
ヴィヌスは唇の端を上げ、ニヤリと笑った。
「クードスのピザは安いのよ。メニュー見たら驚くわよ。
ジュリアおばちゃんのピザ、地元民も観光客も並ぶレベル」
船頭がサムズアップを送る。
「地元の味を食いたきゃ、観光向けの看板より、地元民が集まってる店を探すんだ」
「お前、アルルカン“シアター”っていうくらいだし、劇場から出ないもんだと思ってたわ……」
ガイウスはやや驚き気味に眉を上げた。
「意外と地元民みたいに詳しいな」
ヴィヌスは得意げに髪をかき上げ、艶やかな笑みを浮かべる。
「シアターはホームグラウンド。でも、うちは“劇団”よ」
その声音には自信と誇りが混じっていた。
「稼ぎどころで巡業もやるわ。フーロン皇都パーダオ、帝都デリン・ガル、クードス――だいたいこの三択」
視線を運河沿いの華やかな街並みに滑らせ、微笑を深める。
「クードスは祭りとカジノで景気がいいから、役者にも優しいの」
「劇団ってそんなに稼げるの!?」
サタヌスが妙に納得したように声を上げる。
「……いや、ガチで裏道詳しいな」
「観光コースもB級グルメも、地元民の顔パス情報も全部知ってるわよ」
ヴィヌスはさらりと言ってのけた。
「むしろ“観光客に見せないクードス”が本当の見どころ。
ジュリアの店も、裏路地を抜けなきゃ辿り着けないの」
「そのうち“現地ガイド”始めそうな勢いだな……」
ガイウスは肩をすくめる。
ヴィヌスは軽くウィンクをして、船底の振動に合わせて日傘を揺らした。
「旅は段取りと下調べよ、勇者サン」
そして、にやりと笑う。
「男どもは大抵“ノリ”で迷うから、私が舵取りするって決まってるの」