しばらく歩くと、地平線の向こうに銀色の山々が浮かび上がった。
シャンドラ連峰――その頂は雲を貫き、まるで世界の果てを守る壁みたいだった。
この山が見えれば、フーロンはもう目と鼻の先だ。
けれどサタヌスは、目的地が近いという安堵よりも、
胸の奥で何かに急き立てられるような、奇妙な焦りを覚えていた。
胸の奥――ずっと前から“何か”がうごめいているのを、今日も感じていた。
1年前。
自分たちは「ルナ」を討ち、深月城から生きて帰還した。
五体満足で戻れたことに、今でもどこか他人事のような実感しか湧かない。
それでも、あの日からだ。
心の底に「得体の知れないもの」が巣食い始めたのは。
それは身体の奥、血の中に染みついた祟りのような何か。
普段は静かに沈んでいるくせに、こうして一人きりになると決まって騒ぐ。
「……鎮まれ、鎮まれ……」
思わず、指先で自分の腕を押さえる。
祟りの気配が微かに疼くたび、祈りが頭をよぎる。
サタヌスは、誰にともなく呟く。
かつてメルクリウスが言っていたことが、頭をよぎる。
「……人の手に負えぬ呪いっていうのは、祓うんじゃなくて――“お願いして鎮まってもらう”しかないんだよ」
「人の理じゃ触れられないものがある。だから、下手に抗わず、頭を下げて“それ”に頼むしかない。
……それが一番正しい対処法さ」
火の明かりに照らされたメルクリの横顔は、
どこか現世と“あちら側”の狭間にいるような、
そんな不思議な静けさがあった。
「……頼む、鎮まってくれ」
サタヌスは、山の向こうの冷たい風を浴びながら、
一人、己の中の“祟り”を必死で押さえつけていた。
マカリ村――デリン・ガルに程近い山村。
夜風に吹かれて鈴の音が揺れる。
村は魔王軍残党の影に怯え、誰もが不安げに集まっていた。
サタヌスは村の外れで立ち尽くしていた。
肩に雪が舞い降りるたび、どこか現実から浮いたような気がしていた。
「……心配すんな。俺が何とかする」
そう口にした瞬間、村人たちがざわめく。
その視線は、どれもサタヌスではなく、彼の“肩書き”だけを見ていた。
「勇者様……?」
「勇者様はガイウス殿では?」
「お前さんは……あの“仲間の一人”であろう」
仲間の一人、か……結局俺は“看板”でしかなかったってことか。
誰の代わりにもなれず、誰にも代われない。
本当に欲しかったのは、誰かの名前じゃなくて、
“俺自身”としての価値だったはずなのに。
そのとき、村の老人がサタヌスを睨みつけた。
彼の瞳――ぐるぐると渦を巻く同心円アイに、
老人の顔が歪む。
「その目……穢れだ」
「魔族の血を引く者を勇者と呼ぶなど、天地への冒涜よ」
村人たちの目が一斉に逸らされた。
子供が石を投げる。
その冷たい視線は、まるで世界全体が「お前は要らない」と言っているようだった。
拳を握りしめても、声は出なかった。
喉の奥に、長い間塞いできた“何か”がせり上がる。
――オマエハ、ウマレテイケナカッタ
ドチラニモ、ナレナイ
オロサレタホウガ、シアワセダッタ
誰の声でもない、深い闇のささやき。
それはサタヌスの足元から黒いもやとなって溢れ出し、
赤黒い触手が地面を這い始める。
村人の叫び、家畜の暴れ声、腐った空気の匂いが広がる。
「……俺がやる。勇者だからな」
誰にも届かない誓いだった。
村人たちの間に、さらなる恐怖が広がる。
「勇者……?だがあれは……!」
サタヌスの心の中で、怒りと劣等感が絡みつき、
祟りが堰を切ったように暴れ出す――。
村を襲う炎。
魔王軍残党の影が、燃えさかる屋根の上で跳ね回っていた。
サタヌスは、瓦礫の間に立っていた。
その顔は、ちょうど逆光になり、誰からも表情が見えなかった。
群衆の間で、ただ一人だけ静止している。
どこからともなく飛んできた手榴弾。
爆ぜる寸前――サタヌスはそれを右手で「掴み」
まるで石ころでも投げるように軽く投擲した。
投げ返された手榴弾は、魔族兵たちの頭上で炸裂した。
何人かが絶叫し、ひとりが地面に倒れた。
「……な、何だあれ……?」
サタヌスは何も言わない。
その手元に、小石が転がった。
さっき自分に向けて子供が投げてきた石だった。
彼はしゃがみこみ、無造作にその石を拾う。
誰もが「何をするつもりなのか」分からず、息を飲んだ。
次の瞬間――サタヌスは、その石を残党たちに向かって投げた。
石は、信じられない速度で空気を裂き、リーダー格の魔族兵士の腕に直撃した。
ゴキッ、と不快な音を立てて、腕がねじ切れるように吹き飛ぶ。
兵士は悲鳴を上げて倒れ込んだ。
「た、隊長!!」
「……あれ、本当に勇者なのか? なんか……こわいっ……」
誰かが震えた声で呟いたが、サタヌスは微動だにしない。
その顔はまだ、影の中に沈んでいて、
ただ、背後の祟りのもやだけが、ゆっくりと膨らんでいくのだった。
サタヌスは叫んでいた。
「やめろ! やめろ!! 鎮まれ!!」
自分の手も、声も、もう止められないものに追いつかない。
胸の奥で、祟りの声が脈打つ。
――ノロエ
――タタレ
――スベテ、フコウニナレ
サタヌスは絶叫した。
「俺は! そんなもの!! 望んでねぇぇ!!」
けれど祟りはもう、誰の言葉も聞かない。
背後で黒い山羊の幻影がそびえ立つ。
闇の角が空を裂き、兵士たちを睨み据える。
「な、なんだあれ……!?」
「山……? いや、山が……動いて……ッ」
足元から這い出す赤黒い触手。
それは、節々に人の手や顔を浮かび上がらせながら、兵士たちに絡みつく。
「やめろ! なにか掴んで──うわああ!」
「人間……!? あれ、人間になるはずだったもの……」
触手は兵士を呑み込み、骨すら残さない。
残された者たちは錯乱し、
「なに!? 赤ちゃん!? なんで赤ちゃんの泣き声が……ッ」
「みんな……どこ!? どこ行ったんだ!?」
誰かの赤子の声が、地の底から湧き上がる。
仲間の名を叫び、武器を捨てて逃げ惑う兵士たち。
その間にも村の家々は潰れ、地面に深い亀裂が走り。
木々は枯れていく。
魔王軍残党が見た光景は、常軌を逸していた。
村が焼け、家が崩れ落ちていく。
あらゆるものが引き裂かれている――土壁も、屋根も、逃げ惑う人々も。
黒紫の闇が、凶暴な生き物のように、手当たり次第に全てを薙ぎ払っていた。
だが、その“発生源”であるはずの少年――サタヌスは。
両手で頭を押さえ――泣いていた。
まるで子供のように、しゃくりあげ。
その背後から、禍々しい闇が膨れあがってゆく。
闇は彼自身の意志など無視して暴れまわり。
祟りの触手が家々を裂き、誰彼かまわず飲み込んでいった。
サタヌスが泣き叫ぶたび。
闇はますます激しく渦巻き、村人の悲鳴が増していく。
泣き声と混ざって響くのは。
現実のものとも思えない、赤子のような甲高い声だった。
サタヌスの叫びも、闇の怒号も。
どこまでも不協和音となって荒野に響き渡る。
「……あれは、本当に勇者なのか……?」
誰かがそう呟いたが、誰も答えを持たなかった。
サタヌス自身は暴力の一片すら振るっていない。
ただ絶望と後悔に沈み、幼児のように泣き続けるだけだった。
それなのに“何か”が、彼の涙に呼応して、世界を引き裂いていく――
まさに、祟り神の降臨だった。
気がつけば、村は半壊していた。
灰色の雪が舞い落ち、祟りの気配が静まる。
村人たちは誰もサタヌスに近寄れない。
ただ、恐怖に染まった瞳で見ている。
サタヌスは荒い息をつき、足元の大地を見下ろす。
「……なんだ今の……俺、なにも……」
自分が何をしたのか、何が自分の一部で、
何が“タタリ”のせいなのか――もう境界がわからなかった。
――その時。
赤子の泣き声が、静まり返った村を貫いた。
「……ぎゃああああああん!!」
その声は、サタヌスの耳に突き刺さる。
さっきまで祟りの中で響いていた“赤子の幻聴”――
まさか現実の、たったひとつの命だった。
サタヌスは顔を引きつらせ、足元を震わせる。
「……さっきの……声……これか……!?」
その瞬間、祟りの影がざわついた。
地面から、再び赤黒い触手が這い出し始める。
村人たちの悲鳴が、また夜を切り裂く。
「やめろ……泣くなっ!その声で泣くなっ……」
自分が望んでいないのに。
それでも「祟り」はサタヌスの感情に共鳴し、暴れだす。
もう止められない。
こらえきれずに絶叫し、サタヌスは村から飛び出した。
「う……わあああああああ!!!」
夕暮れの野道を、ただ闇雲に駆け抜ける。
背後では、赤子の泣き声と、村人の叫びが重なって響いていた。
サタヌスは両手で耳を塞ぎながら、ただ走ることしかできない。
呼吸が乱れる。
荒野の冷たい風が、火照った体を切り裂く。
振り返ると、村の遠景が赤黒い祟りの影に飲まれ、
かすかに灯っていた灯りが、一つ、また一つと消えていく。
「……俺……何やってんだよ……」
呟きは誰にも届かない。
足がもつれて転びそうになりながらも、必死に走る。
やがて、石でできた国境の門が見えてきた。
フーロンの門兵たちが槍を構え、警戒する。
「おい……何者だ? あの焦燥……ただ事じゃないな」
けれど、誰一人としてサタヌスに近づこうとはしない。
彼の中に宿る“何か”を、本能的に恐れていた。
サタヌスは門兵の間をすり抜け。
荒い息で、ひたすら前だけを見て歩き続ける。
「どけ……俺に構うな……!」
その声には、涙も、怒りも、残っていなかった。
ただ、喪失と絶望と――自分自身を抱えきれない痛みだけが、
背中に重くのしかかっていた。
彼はそのまま国境を越え、田舎の村――リウドへと辿り着く。
門を抜けた路地は、人気もなく、柳の枝だけが冬風に揺れていた。