タタリ編-輪廻の街 - 5/5

柳の枝が風に揺れるリウド村。
水路沿いの石畳、苔むした家並み。
赤い提灯の色も薄れかけ、冬の空気が村を包んでいる。

欄干の上で、ひとりの男が煙管をふかしていた。
着物の合わせは粗野だが、足元は意外と綺麗だ。
顔にはにやけた笑み、だけどその目だけはまるで底の見えない水たまりのようだった。
「おっと……ずいぶん派手にやらかしてきた顔だな」
チェンシンの声は、どこか茶化すようでありながら、
その実“本物”だけに許される警戒と尊重が滲んでいる。

サタヌスは睨み返した。
「……俺は勇者なんかじゃねぇよ!!」
一瞬の間。
チェンシンはにやりと笑い、煙管をカチリと鳴らした。
「だからいいんだよ」
ゆっくりと目を細め、サタヌスのつま先から頭のてっぺんまでをなぞるように、視線を這わせる。
(……天狐様は言っておられたな。)
(勇者の中にひとり、“黒髪の少年”がいると。)
何かを確かめるように、チェンシンは煙を吐く。

「……デリン帝国皇女、ルチア・アンブロジア」
「彼女のなかに“魔”が蠢いている。呼び起こそうとする影も見える」
天狐皇は指を四本立てる。その顔は一切動かず、声にも波がない。
「勇者は四人」
「赤き髪と虹の瞳」
「銀の髪と黒の肌」
「渦の瞳と黒髪」
「そして、青き神官だ」
「……見つけ出し、魔の再臨を阻め。必要ならば、その御霊を砕くがよい」
その命令に、誰も逆らえなかった。
淡々とした皇帝の目だけが、何を考えているのか分からない。

チェンシンは片眉を上げ、煙管を鳴らす。
「そうかい。……なら、お前さんは誰だ?」
サタヌスは、少し息を整えてから答えた。
「……サタヌス」
チェンシンはニヤリと口角を上げた。
「よし、それで十分だ」

柳渡――。
その村の名も、川の水面を渡る柳の枝も、今は色褪せている。
サタヌスは石橋の欄干に腰を下ろし、ぼんやりと川面を覗き込んだ。
どこまでも静かで、波紋ひとつ立たない。
「なぁ……ここはどこだ?」
チェンシンが隣で煙管をふかし、にこりと笑う。
「フーロンだよ。サタ坊はカリヤから来たクチかい?」
サタヌスはもう一度、あたりを見回した。
「フーロンってもっと派手だって聞いたんだが……」
「誰もいねぇ……」
川沿いの路地も、石畳の端っこの屋台も、
みんな戸を閉めていて、どこからも人の気配は感じられなかった。
ただ、風が吹くたび、川辺の柳がサラサラと揺れ。
残された赤提灯がカラカラと寂しく鳴る。

チェンシンが肩をすくめる。
「時期が悪かったなぁ、サタ坊」
「今はな、大龍祭の時期なんだよ。若い衆も芸人も、みーんなパーダオに行っちまう」
「田舎は置き去りよ。どこもこんなもんさ」

サタヌスは橋の下を流れる川を、少しだけ遠い目で見た。
「……ますますゴーストタウンじゃねぇか」
チェンシンは煙を吐きながら、村の路地をゆっくりと見渡す。
「だからこそ、厄介ごとが隠れてんだよ。人がいない時ほどな」
乾いた音がどこかで響く。
石畳に落ちる、誰かの足音か、それとも誰にも気付かれない“祟り”の残響か。
そんな、夜の境目みたいな時間が流れていた。

村の静けさを切るように、チェンシンが言った。
「まぁそう警戒せんでも」
「俺はただ、礼を言いに来たのさ」
サタヌスは眉をひそめる。
「……礼?」
「ちょいと魔王軍残党に絡まれてな」
「でもおかげで、あいつらはもう二度と銃を握れねぇだろう」
サタヌスは思わず口を半開きにした。
まさかの、助けられたことへの感謝。
つまり、チェンシンは「あれ」を見ていたのだ。

自分の両手を見つめる。
指先に残る、あの冷たい感触が蘇る。
「……おっさん。助けた時の“あれ”だけどさ」
「あれ……何なんだ? 俺、自分でやった覚えねぇ」
「頭が真っ白になって……気づいたら、全部ブッ壊してた」
チェンシンは煙管をくゆらせて、少し間を置いた。
焚き火の煙が、冬の空気に溶けていく。

「闇ってのはな、人間の心の奥底を引っ張り出すもんだ」
「お前さんの“祟り”も、結局はお前の根っこから出てきてる」
サタヌスは、思わず顔をしかめた。
「……根っこ」
チェンシンは小さく頷く。

「あぁ。望まれずに生まれた命、暴力の中で育ったガキの心」
「積もり積もった鬱憤――それが“力”の形になった。」
「ありゃ、サタ坊の根っこそのものだ」
サタヌスは黙ったまま、拳を握りしめた。
指の隙間から震えが伝わってくる。

「……根っこが呪いってのは、笑えねぇな」
チェンシンは、ニヤリと唇を歪める。

「呪いも根っこも、要は飼い慣らせりゃ生きる糧になるってこった」
冬の風が、焚き火の火花をさらっていく。
柳の枝が音もなく揺れた。
サタヌスはその言葉を、ゆっくりと胸の奥に落とし込もうとした。
土間の奥、煤けた卓に並ぶのは、湯気を立てる白粥と大根スープだけだった。
祭りの喧騒は遠く、村の夜は静かに冷え込んでいく。

「今は大龍祭だから、出せるのはお粥くらいだよ」
店主が申し訳なさそうに、椀を二つ差し出す。
「いいさ。腹には溜まる」
土間の奥。煤けた卓の上に、湯気を立てる白粥と大根スープ。
冬の夜は冷え込んで、赤提灯の灯りも弱々しい。
サタヌスは椀を覗き込み、不満げに眉をひそめた。

「……あれだろ、お粥ってさ。
ベタベタしてて、薄味の……ほら、あれだよ」
言いながら、ちょっとだけ遠い目になる。
四勇者パーティ時代、体調崩したときに**メルクリウスに食わされた“薬味ゼロの療養粥”が脳裏をよぎったのだ。
何も入ってない白米ペーストみたいなやつ。
それを“優しい顔で”口元に押しつけてくるあの神官の笑顔――軽くトラウマである。

だが、ひと口すすった瞬間、サタヌスは目を瞬いた。
「……ん?」
舌に乗るのは、意外なほど深い旨味。
鶏の出汁の丸み、生姜の香り、胡椒の辛み。
粥の中には細かくほぐれた魚まで入っている。
チェンシンは煙管を置き、涼しい顔で笑う。

「フーロンの粥をなめんなよ、サタ坊。
“病人食”じゃなくて料理なんだぜ」
サタヌスはもう一口すする。
温かさが喉を落ちて、空っぽだった内蔵にじんわり染みる。

「……なんだよこれ。普通にうめぇじゃねぇか」
「だろ? 味がしっかりしてんだよ。潮風の村は魚の出汁がよく出る」
サタヌスの眉がみるみる緩んでいく。
「メルクリウスの“無味養生粥”と全然違ぇ……
っていうかあいつ、絶対わざと味つけねぇだろ……」
チェンシンは喉を鳴らして笑い、サタヌスの器に唐辛子の壺を寄せた。

「辛いの欲しいなら入れな。身体が芯から温まるぜ」
サタヌスはつい、スプーンを止めてぼそっと言う。
「……なんか、腹に溜まるってだけで、ちょっと安心すんだな。こういうの」
「飯に文句つけられる時点で、だいぶ元気だよ、サタ坊」
と茶化した。
サタヌスは睨みながらも、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「……うるせぇ」
ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。

「……麻婆豆腐食いたかったのになぁ」
チェンシンは煙を吐きながら、肩をすくめる。
「パーダオで麻婆豆腐食うのはやめとけサタ坊」
「ありゃ観光向けだ。味は薄いし高い。腹は膨れても魂は満たされん」
サタヌスは思わず突っかかる。
「……何だよその言い方」
「週一で食うなら、ホアリンの“娘娘飯店”がいい。あそこは本物だ」

その言葉に、サタヌスは目を丸くする。
「は?ホアリン知ってんのかよ」
チェンシンは涼しい顔で頷く。
「おぅ、常連だ。担々麺は辛ぇが後引く。……あそこの娘さんは腕がいい」
サタヌスはぽかんとしたまま、チェンシンを見上げた。
「……なんでおっさんの交友範囲、そんな広いんだよ」
「腹を満たすとこは大事にしとかんとな。命より大事なときもある」
その言葉に、サタヌスはふっと息を吐き、
久々に“旅人”として心から腹を空かせている自分を思い出した。
祭りの夜の静けさ、湯気の匂い、赤く灯る提灯の光。
それら全部が、ほんの一瞬だけ「居場所」みたいな温かさをもたらしていた。

お粥をすする音だけが、土間の空気をかき混ぜていた。
もうすぐ椀の底が見えようかという頃、サタヌスはふと箸を止める。
「チェンシン?」
「そう、俺の“いま”の名前だ」
チェンシンは軽く煙管を揺らして見せる。

「いまの名前? 複数の名前があるのか」
「まぁ、人間いろいろある」
「名前は親から貰うだけじゃない、自分が与えることもできる」
サタヌスはその言葉を噛みしめるように、膝の上で拳を握った。
“名もなきもの”に名を与える――。
あの村で、あのとき聞こえた、あいつの怨言を思い出す。
誰からも望まれず、誰にも受け入れられなかった寂しさ。
すべてへの憎悪と、すべてに拒まれる悲しみ。

「……名前、つけたらさ、多少は“飼い主”っぽい顔できて、
制御できる可能性もあるんじゃねぇかな……って、思っただけだよ」

チェンシンは煙管をカチカチと鳴らしながら、薄く目を細める。
「お前さん、確か名の由来が“サターン”だったなぁ」
「代替わりの度にガキ喰ってた神様だ。
水子の霊が憑くなんざ、味なもんじゃねぇか」

サタヌスは苦笑した。
「はは、悪趣味すぎて笑えねぇよ……」
少しだけ空気が静かになり、チェンシンが真顔で言う。

「だがな、名は力だ。“呪い”ってのは正体の分からねぇもんだから人の心を蝕む。
……いっそ名前でも付けてやりゃ、お前さんの一部になるやもしれねぇ」
サタヌスは思案するように視線を落とし、ぽつりぽつりと“仮の名”を呟いてみた。
「クロノス……父親を喰った神か。ちょっと違うな」
「ラミア……いや、女の悪霊って感じだし」
「ヤギ……バフォメット。いや、悪魔直球すぎだろ」
「ムジナ……なんか陰湿だし、“水子”って意味もあるけど……ピンと来ねぇな」

チェンシンは一つ一つに
「それは悪くねぇ」「確かに近い」「ちょっとひねりすぎか」
と民間伝承オタクの顔で合いの手を入れていく。
だが、どれも自分自身には馴染まない。
サタヌスは、最後にぽつりと呟く。

「……なんかどの名前もしっくりこねぇ。クロノスもバフォメットも……俺っぽくないし」
「……もう、タタリでいいや」
チェンシンはニヤリと口角を上げる。
「まぁ、まんま過ぎて逆に強ぇな」
「呼び名が定まった時点で、お前の“タタリ”はもうお前の一部だ」

その瞬間、
サタヌスの心の中で、
初めて“呪い”が“居場所”に変わるような感覚が、
ほんのわずかだけ――芽生えた気がした。

食卓の空気が緩んだ一瞬、チェンシンがからかうようにサタヌスを見て言う。
「……さては、お前さん、ガイウスのこと気にしてるだろ?」
サタヌスは一瞬ムッとし、
チェンシンがからかうようにサタヌスを覗き込む。
「う、うるせぇっ!」
と返すが、そのままテーブルのまんじゅうにかぶりついた。
両手で饅頭を握り、ブチィッと豪快にちぎりとる。
その瞬間、チェンシンが感心したように口笛を吹いた。

「おぉ~迫力あるねぇ、“わが子を喰らうサトゥルヌス”ってやつだ」
「う゛わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ー!!!!」
思いきり饅頭を咀嚼しながら、ゴヤの絵のポーズで静止。
「誰がサトゥルヌスだああああああああ!!!」
だが妙に似合ってしまうその光景。
チェンシンは煙管をカチカチ鳴らし、愉快そうに笑っていた。

「でもさ、そうやって何でも豪快に食うヤツのほうが、だいたい運がいいんだよ」
「“食う側”でいなきゃ、“食われる側”に落ちるだけだしな」
サタヌスはしばらくムッとしたまま、
「……だったら、ガイウスは俺のこと食わないでくれよ……」
と、誰にも聞こえないような小声で呟くのだった。