黒い闇が、世界そのものを覆い隠す。
見上げても下を向いても、どこまで行っても真っ暗な一本道。
普通なら触れた瞬間アウト――全ての生き物の命を奪う“結界の闇”。
けれど、サタヌスは一言も発さず、その闇にまっすぐ歩みを進める。
闇の触手がぬるりと這い出し、彼の足首に絡みつこうとする。
サタヌスは無言のまま「……うっせーな」と、べしっと手で払いのける。
闇の触手はびくっと震え、逆に怯えたように引っ込んでいく。
何事もなかったかのように、サタヌスは闇を突き進む。
やがて、雪と灰が混じる帝都の中心街へ。
見慣れたはずの路地も、今は亡者の街のように静まり返っていた。
広場の奥、黒衣の少女――プルトが、まるで“待ち伏せ”していたかのように佇んでいる。
「待って」
その一言だけで、サタヌスの歩みが止まる。
「来る予感はしていました。この帝都にて、ついにあの御方が再臨される」
「それを聞いて、勇者が来ないわけがありませんから」
プルトはサタヌスを真っ直ぐ見据え、薄く、だが確信に満ちた笑みを浮かべる。
サタヌスは鼻で笑いながら、辺りを見回す。
「お前ひとりか?ユピテルとかウラヌスは?……ずいぶんさびしい出迎えだな」
プルトはゆっくりと首を振る。
片目だけで、サタヌスを鋭く射抜く。
「あの御方が蘇れば、すぐにでも再会できますよ」
「ガイウスたちは私の結界――“闇の映画館”に閉じ込めました。次は、貴方の番です」
灰に覆われた帝都の広場。
赤黒い空の下――呪われた“禁忌の子”と“影の女王”が、静かに対峙する。
灰と雪が混じった粉塵が、風に流れてはすぐ落ちる。
この帝都はあらゆる音が死んでいて、世界が“息を潜めてる”みたいだった。
闇の結界をくぐってきたサタヌスに、プルトはまるで再会を喜ぶみたいな笑顔で声をかけた。
「どうでしたか、サタヌス? 闇の結界は」
「母の胎内に包まれていたように、心地よかったでしょう?」
毒にも薬にもならない微笑み。
その実、中身は毒しかねぇ。
サタヌスは鼻で笑い、肩を軽く竦める。
「ああ、多少はな」
「……俺がレアに愛されてたのは、胎内にいる間だけだ」
灰雪の中、ザク……と踏み出す音だけが響く。
少年はプルトの前に、ゆっくり立つ。
プルトはクスクスと喉で笑い、手の指を――まるで虫が這うように。
第二関節からぐにゃりと折り曲げて動かす。
五本の指がバラバラのリズムで、生き物みたいに滑らかにうねる。
「母を胎内でしか知らないもの、か」
「やはり――貴方と私は似ている」
笑っているのは口元だけ。
目は完全に、冷たい底なし沼。
「魔族と人間、仲良くできればいいんですけどね~~~」
「ほんとに。“私やお前みたいに、生まれただけで迫害される”忌子が……」
灰雪が二人の間で舞う。
プルトの声は、ほとんど甘やかす囁きみたいなのに、内容はあまりにも黒すぎた。
「ソラル中、どこにでも溢れたら、きっと世界は平和になると思いません?」
サタヌスの靴が止まった。
息も、言葉も――止まる。
冗談にしては黒すぎる。
でも、完全に否定できるほど人生は優しくなかった。
プルトは薄い笑みのまま、さらに一歩近づく。
「ねぇサタヌス、そういう世界が見たいですか?」
「私は――見てみたいなぁ」
「どんなに“間違い”が増えても、結局“正しさ”なんて生まれないって証明できるでしょ?」
雪の灰の冷たさより、この女の言葉のほうがよほど寒い。
サタヌスは皮肉を吐いてみせる。
けれど、その声には微妙に“分かっちまう”苦味も滲んだ。
「お前さぁ……マジで根っこが腐ってんだな」
「……でも、他人事には思えねぇわ」
二人の間にあるのは敵意。
互いの“生まれ”に刻まれた呪いだけは、笑えないレベルで理解しあってしまう。
灰雪が降る帝都の中心で、禁忌の子と影の女王は、鏡合わせのように向き合っていた。
この世界で“半人半魔”が「禁忌」とされる理由。
それは単に血筋や権力争いのためだけじゃなかった。
相容れぬ血が混じることによる、苛烈な負荷。
それが“禁忌”の本質だった。
まず、生まれて七歳まで生きられる半人半魔は二人に一人にも満たない。
成長の途中で体が耐えられず、病や衰弱で命を落とす。
そこから成人まで生き延びる者は、さらにごくわずか。
「大人になれる」こと自体が奇跡なのだ。
加えて、両方の種族の“本能”がぶつかり合うため、凶暴化のリスクも高い。
一度暴走が始まれば、純血種よりも制御不能。
魔力・肉体・精神がバラバラに壊れていくことも珍しくない。
サタヌスの凶暴性は、まさにその“混ざり物”ゆえの危うさ。
人懐っこい笑顔を見せても、スイッチが入った瞬間、獣性が周囲を壊す。
プルトもまた、普段は静かで理知的でも“感情が切れた”瞬間。
情緒不安定を超えて自壊モードに突入する。
残り五人の魔王軍六将が総出で止めないと止まらないほどの危険さ。
「混ざり者は生まれないほうがいい」
「生まれても生きられない」
そんな声がまかり通る。
サタヌスの脳裏に、あのルミエール区の眩しい街並みが蘇る。
高級な石畳、遠くから聞こえる馬車の音。
少年の頃、ただ笑っているだけで周囲の大人たちは顔をしかめ。
「アイツの目、気味悪い」
「黒い渦が見える」
「あんなのと一緒に遊ぶな」
裕福な家の子供や、教師ですら陰でそう囁いていた。
笑えば笑うほど、“自分だけ世界から浮いている”ことを思い知らされた。
プルトもまた、教団の立派な回廊の奥で、壁越しにひそひそと囁かれる声を聞いていた。
「教祖様の娘は特別扱いだ」
「でも…あの子の目は、良くない」
「渦巻きがある子は昔から“災いを呼ぶ”って決まってるのに」
アサシンたちは表向きは丁重に接していたが。
壁の向こうでは、彼女を“忌み子”として畏れ、遠ざけていた。
プルトは何も言わず、ただ静かに耳を澄ませていた。
誰も自分を本当の意味で見ていないことを、子供心に知っていた。
世界のどこに生まれても“渦巻く目”は同じように忌み嫌われる。
それが、半人という禁忌の生まれ。
“存在”そのものが、世界から否定されることを幼い頃からよく知っていた。
二人の視線が交わる。
お互い、同族嫌悪のはずなのに、ほんの少しだけ“共感”が滲む。
遠くで瓦礫が崩れる音がするのに、二人の間だけやけに静かだった。
プルトはひとつ息を吸い、赤い瞳を細めて言った。
「そろそろ始めましょうか?私達、敵同士ですよ」
ほんの少しだけ声が柔らかかった。
嬉しさか、緊張か、あるいは“名指しされた”喜びか。
自分でもわからない感情が混ざっていた。
サタヌスは肩を回しながら「ああ?」と気の抜けた返事をした後、にやっと口角を上げて言い放つ。
「おっと、そうだった」
「――プル公。通らせて貰うぞ」
その呼び方は、名前を呼ばれたというより名前を“扱われた” に近い。
雑で、軽くて、距離が近い。
立場も種族も敵味方も全部無視して、ただその場のノリで呼んでいる。
プルトは一瞬だけ「え?」と目を瞬いた。
初めて“まともに名前を呼ばれる”と思ったら、スラム流の愛称を押し付けられた。
バカにされたような響きなのに、なぜか胸の奥がチクリともしない。
今さら“常識”を押し付けても仕方ない。
この男はスラムの生まれ。
礼儀や格式に縛られる世界とは無縁だ。
プルトは薄く笑い、姿勢を低くした。
「望むところ」
雪が舞い上がり、黒いマントが翻る。
サタヌスも一歩前へ踏み込む。
灰雪の帝都で、忌み子の二人が初めて“名前を交わした”
その直後に、殺し合いが始まった。
火花が飛び、雪と血と灰が舞った。
プルトは楽しそうに微笑みながら、刃を押し込む。
まるで恋人に秘密を打ち明けるような声で囁いた。
「お前、聞いてくれますか?」
「私、各所を渡り歩いて裏工作に徹していたんですが――」
「とても素敵な事実に気づいたんです」
サタヌスは顔をしかめ、短く吐き捨てる。
「……どうせ半人半魔の話だろ」
プルトの笑みが深くなる。
瞳は潤み、頬は紅潮し、口角だけが不自然に上がっていた。
「そう。あの混沌をきわめたフーロンですら、半人半魔は禁忌だったんですよ」
「素晴らしいですね……魔族が溢れれば」
「私や貴方のような“生まれていけないもの”が何人も生まれる」
「つまりこの世界は――ようやく、“正常”になるんです」
雪の冷たさを忘れるほどの熱狂。
笑顔で、しかし目はまったく笑っていない。
その歪んだ悦びが、サタヌスの全身を逆撫でる。
遠くで塔の尖端が折れ、鈍い音を立てて崩れ落ちた。
崩壊しつつある帝都の空気は重く、乾いていて、どこか鉄の味がした。
人の気配はない。ただ、二つの影だけが瓦礫の街路に立っている。
影が、ゆっくりと揺れた。
次の瞬間、ナイフが空気を裂いた。
三本の刃は弧を描きながら飛び、一直線にサタヌスの喉と心臓を狙う
。人間なら、目で追うことすらできない速度。だ
がサタヌスは肩の斧を軽く振るだけでそれを弾いた。
金属が弾ける音と火花が一瞬、灰色の空気に散る。
同時にプルトの姿が消える。
いや、消えたように見えただけだった。
地面を蹴った足音すら残さず、黒い影が斜めに滑り込む。
次の瞬間にはサタヌスの懐。
短い刃が水平に走り、少年の頬を浅く裂いた。赤い線が引かれ、血が一滴、宙に浮く。
サタヌスは笑った。
驚きも、怒りもない。むしろ楽しそうだった。
「ははっ……やっぱいいな」
プルトの足が地面に着地する。距離は三歩。次の投擲のため、指先がわずかに開く。
「何がです?」
声は低い。感情の揺れはない。
だが次の瞬間、サタヌスの斧が振り下ろされた。
石畳が砕け、瓦礫が爆ぜる。衝撃で灰雪が舞い上がり、二人の視界を一瞬覆った。
その粉塵の向こうで、サタヌスは肩を鳴らしながら言う。
「お前、魔王軍ぶっ壊れてからのほうが魅力的だ」
一瞬だけ、空気が止まった。
ナイフの動きは止まらない、腕はすでに投擲の軌道に入っている。
だが、ほんの刹那。赤い瞳が、わずかに細まった。
「……褒め言葉のつもりですか?」
次の刃が放たれる。三本。
角度を変え、時間差をつけた殺意。
サタヌスはそれを身体を捻って避け、一本を斧で叩き落とす。
残りの一本が肩を掠め、布を裂いた。
だが少年は気にも留めない。
肩の血を拭いながら、あっさりと言った。
「事実だろ」
斧を担ぎ直す。視線はまっすぐプルトに向いている。
「今のお前、“役職”の顔してねぇ」
灰雪が二人の間を横切る。赤黒い空がゆっくり渦を巻いていた。
「ただの化け物だ」
帝都の崩壊音だけが遠くで響いている。
塔が軋み、石が転がり、空気が乾いた音を立てて裂ける。
プルトは動かなかった。
ただ立っている。指先の刃が静かに揺れる。
黒い前髪の隙間から、赤い瞳がサタヌスを見ている。
その口元が、ほんの少しだけ持ち上がった。
それは嘲笑でも、皮肉でもない。むしろ、柔らかな笑いだった。
「そうですか」
一歩、足を踏み出す。ローブの裾が風に翻る。
「では、貴方の審美眼に恥じないよう」
ナイフがさらに指の間に挟まれる。銀色の刃が増える。
赤い瞳が細く光る。
「もっと、魅せて差し上げましょう」
次の瞬間、影が弾けた。
ナイフの群れが嵐のように放たれる。
空気が裂け、石畳が削れ、瓦礫が弾ける。
サタヌスは笑いながら斧を振り上げた。火花が連続して散り、灰雪と血の匂いが混ざり合う。
帝都デリン・ガルの廃墟の真ん中で、二つの禁忌がぶつかり合う。
それは殺し合いであり、祝祭だった。